第58話
フッと息を吐き、一拍置いてから向坂が喋り始める。
「俺は、この先三人一緒にいるべきだと思っていました。とはいえ、それには雅彦の生きる意志が絶対条件でした。雅彦が生きると決めたのであれば、金銭の問題や過去と向き合うことも含めて、横浜には戻るだろうってね。だから準備だけはしていたんですよ。そもそも、ここはまだ山岸の残り香がありますから、多感な思春期を過ごすにあたっては、こっちの方が危険な可能性もあります。……な?」
最後の言葉で、向坂は雅彦に視線を合わせた。雅彦もその通りだと頷く。思春期をこの場所で過ごすことは、雅彦自身も憂いていたことだった。
「でも、大丈夫なの? 横浜の施設は?」
「やり方はここと同じような感じにするつもりです。名前だけ置かせてもらって、雅彦のところで暮らす」
「でも、小田切さん一人だし、私も近くにいないし、何かあった時には困るでしょう?」
「何かあったら俺が行きますよ。それくらいやります」
「でも……」
「香苗先生」
でも、と続ける藤堂に、向坂は苦笑して話を止めた。
「心配はごもっともですが、俺達年長者が今やるべきことは、雅彦達を黙って見守り助けることでしょう? 好きにやらせて、責任は俺達が取ればいい」
それでいいでしょう?
というような顔を向坂は見せた。
「……そうね。そうよね」
得心がいった様子で、藤堂は呟いていた。
「雅彦。これは、俺のエゴだ。復讐のために好き勝手やった、そのツケだと思ってくれていい」
だから遠慮する必要はない。と言いたげな、向坂の台詞であった。
「そうですね」
という雅彦の返事に、向坂は薄い笑みを浮かべてから運転席へ足を進めた。
「蓮穂と華耶が成人するまで何年も先です。これからもっと頼ると思います。だから、それまでお礼は言いません」
向坂の後ろ姿へ雅彦が思いを口にした。
向坂が足を止め、振り返る。
「俺達には、向坂さんが必要です」
そう言って、雅彦は微笑んだ。お互い視線が合ったまま少し止まる。それから、向坂が堪え切れずに吹き出した。
「ぞわぞわするなぁ」
頬を赤く染め、照れ笑いの向坂。
「……だが」
と言って一呼吸、
「そう言われるのは悪くねぇな」
向坂は、雅彦と同じような微笑みを浮かべた。
蒸し暑く感じる夏の日、エンジンをふかした匂いが雅彦の鼻を刺激する。向坂は窓から手を出すと、車を発進させた。車は直ぐに、雅彦の視界から消えていった。
ぼんやり立ち尽くしている雅彦の耳には、蝉の鳴き声が優しく届いていた。
「野村さんが言っていたわね。人生には回り道も寄り道もない、必ず意味がある。って」
唐突に喋り始めた藤堂に、雅彦は目を向ける。
「山岸の前に、あの子達が野村さんに引き取られていれば、もう傷付きもせず幸せだったのかもしれない。けれども、蓮穂や華耶も馴染めずに、心を閉ざし続けていたかもしれない。結果としてあの子達は傷付いたけど、あなたに会った。あなたに会って、心を開いて本当の安心を得た」
そう言った藤堂は、そっと吐息を漏らす。
「仮に意味があったのだとしても、傷付きすぎたわね。あの子達も……あなたも」
藤堂は雅彦に目を合わせ、
「だから、これが幸せに繋がると、意味があるものにしたいわね」
最後に目尻を下げた。
雅彦は、噛み締めるように大きく頷いた。
二人とも和やかな表情で振り返り、家の中へ戻ろうと歩き始めた。その矢先に玄関のドアが開き、水野が小走りで雅彦達に近付いてくる。
「小田切さん。蓮穂ちゃんが起きました」
水野はそう言い、少し上がっていた息を整えた。
「蓮穂ちゃんが待っています。行ってあげてください」
水野は顔をほころばせながら言った。
雅彦は横にいた藤堂に目線を送ると、藤堂はゆっくりと頷く。雅彦は水野と藤堂に頭を下げ、家の中へ戻っていった。
水野の部屋へ向かう中、雅彦は柄にもなく緊張していた。
野村夫妻の養子になれと言っておきながら、今度はやっぱり嫌だと言う。
蓮穂と華耶に断られたらどうしよう?
怒るかな?
そう心配しながら、雅彦は階段を上がっていく。水野の部屋で立ち止まると、深呼吸をした。
雅彦は音を立てないよう静かにドアを開き、足を忍ばせ部屋へと入る。
蓮穂を運んできた時は気付かなかったが、至る所にサッカーグッズが飾られ、壁には海外のサッカー選手のポスターが何枚も貼ってあった。サッカー観戦が趣味と言っていたなと、雅彦は水野の趣味を思い出した。
無音の部屋を見渡してから、雅彦は最後にベッドへと視線を移した。ベッドの中で静かに寝ている華耶。
蓮穂が……いない。
と雅彦が思った瞬間、ベッドの下の隅で体育座りをしている蓮穂が目に入った。
「蓮穂」
雅彦は優しく呼び掛けた。
「最後なのに、迷惑を掛けてすみません」
蓮穂は顔を膝につけ、小さな声で言った。
「いや、謝るのは俺の方だ」
雅彦は蓮穂の前に座った。
「俺の勝手な判断で、またお前と華耶を傷付けてしまい。本当に申し訳なかった」
雅彦は頭を下げた。
蓮穂の驚いたような吐息が雅彦の耳に届く。顔を上げた雅彦の目には、キョトンとしている蓮穂の姿が映った。
「お前達が野村さんの養子になる件だが、正式に断った」
雅彦の言葉に対し状況が飲み込めないのか、蓮穂は目をぱちくりさせる。
「私が、こんなことをしたからですか?」
蓮穂の言葉に雅彦は首を振り、
「俺がお前達とどうしても暮らしたいとお願いをした。野村さん、園長先生、水野先生や向坂さん。皆、納得してくれた」
経緯をしっかりと述べた。
「また、誰かの養子になれる期間まで、ですか?」
「違う。もう、ずっと一緒だ」
不安そうな表情の蓮穂に、雅彦がはっきりと答えた。
「散々振り回して、戻ってくれと、俺のわがままで申し訳ない。だが、俺はやっぱりお前達と一緒に暮らして、これからも生きていきたい。養子縁組になる資格はまだないけど、しっかり働いて、いずれ必ず書類上でも本当の家族になりたいと思っている。俺を、信じて欲しい」
疑心暗鬼になっているのは承知だが、雅彦は思いの丈を蓮穂へ伝えた。蓮穂は、雅彦から視線を外し俯いた。
華耶の寝息が微かに聞こえる静かな部屋の中、向かい合っている二人は言葉を止めていた。
「小田切さん」
の一言から間を置き、
「深夜に向坂さんと話していた内容を聞いていました」
蓮穂が申し訳なさそうな表情で言った。
やっぱりな、だから眠っていなかったのか、とかそんなことが頭をよぎったが、雅彦はただ頷いた。
「小田切さんが、私達をとても大切にしてくれているのはわかっています。でも、小田切さんは凄く傷付いている。これ以上、私達がいることで苦しめたくない。やっぱり、ここにいちゃいけないんだって、ずっと言い聞かせていました」
そう言った蓮穂は、沈んだ様子だった。
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