第56話

 嫌な雰囲気に包まれてしまった中、

「あ、いや。野村さんが山岸と同じだとは思っていません。あくまで、起きた事実です」

 向坂が愛想笑いを浮かべつつ言った。


「慎司君。何が言いたいの?」

 藤堂は茶化さないでと言いたげな声色だった。


「法は順守すべきですが、そもそもその通りにやっても全てが守られるわけではない。それは、俺も香苗先生もわかっていることでしょう?」

 その言葉に、藤堂は開きかけていた口を閉じた。


「それに、雅彦に対して二人は癒す道具じゃないと言いましたが、それこそ先生だって二人を癒す道具にしています」


「……私が?」

 顔をしかめる藤堂に対し、向坂はゆっくりと頷いた。


「山岸の毒牙で二人を傷付けた。その罪悪感からできるだけ苦労がないところ、今度こそはと思っていた。だから、不安定な雅彦のところではダメなんです。先生を癒すには、野村さんのようなところに二人を託す他はない」

 向坂が淡々と説明する。雅彦を責めた内容と同じことを言われ、藤堂は罰が悪そうに俯いた。


「それに、三葉の理念は精神の保護が第一だったはずです。二人が好きな場所で傷付いた羽を休ませたいのであれば、その意思を尊重するべきだと思います」


「好きなところって……」

 藤堂は言い淀んだ。


「園長。答えは出ています」

 鼻をすすってそう言ったのは、水野だった。


「蓮穂ちゃんは、ここに何年もいました。それでも、三葉の誰にもわがままや本心を一切出さなかった。傷付いているはずです、大丈夫なわけがないんです。それは、園長もわかっているはずです。蓮穂ちゃんが泣いた、これはただの少女のわがままじゃない。初めて安心できる場所を見つけたんですよ。そう思わせ……変えてくれた小田切さんだからこそ……蓮穂ちゃんは……」

 水野は泣き声まじりに言ったが、最後には感極まって静かに泣いた。


「正直、俺もこんな奴が本当にいるんだなって思いましたよ」

 向坂が雅彦を後目にそう言った。


「過去が過去だけに、良くない方向へ捻じ曲がる可能性だってあった。事実、こいつは生きる気力を失くし、死ぬ寸前だった。だが二人を保護し、誠心誠意尽くした。食い物にするわけでもなく、犯罪に手を染めることもなくね。普通無理でしょ? だから、本当にこんなお人好しも世の中にはいるんだなって」

 向坂はそこまで言うと、お茶を一口飲んでから続ける。


「そして、こう思ったのは俺より蓮穂ちゃんだったはずです」

 という言葉に、伏せていた水野も顔を上げ、全員の視線が向坂に集まった。


「俺は彼女ほど過酷ではありませんでしたが、同じく両親がいない施設育ちです。だから何となくですが、わかるんです。所詮は他人、本当の優しさがないってことをね。無論、家族同様に接することができ、深い愛情を与えることができる人間も中にはいますが、そんなものは稀です。施設や学校の職員は役割を全うしているにすぎない、ただの他人です。優しくされること、叱られることがあったとしても、そこに熱がないと感じてしまう。特に蓮穂ちゃんの場合は、幼くして母親に捨てられたことで自己を肯定できず、自己犠牲へ傾倒しています。水野先生が仰った通り、彼女は雅彦と出会ったことで、生まれて初めて無償の愛と、自己を肯定できる存在を見つけたのだと思います。まだそれも認識したばかりか、無意識なのかはわかりませんがね」

 向坂は言い終え、雅彦を見てフッと息を漏らすと、藤堂へ向き直った。


「香苗先生。施設をたらい回しにされて、嫌な奴しかいないと思っていた中で、俺はあなたと出会った。迷惑も沢山掛けましたね。それでも、あなたは俺を見捨てなかった。それがどれだけ嬉しかったか……」

 向坂は薄く笑みを浮かべる。


「俺があなたを必要としたように、蓮穂ちゃんには……いや、彼女達二人には雅彦が必要なんですよ」

 そう言うと、向坂は立ち上がって雅彦の横へつき、頭を深く下げた。


「野村さん、香苗先生。雅彦のためじゃない。二人のことを思うなら、どうか考え直していただけませんでしょうか」

 そんな向坂の言葉に、雅彦も同様に頭を下げる。それから何秒か経った後、藤堂から諦観したような息が聞こえた。


 雅彦が顔を上げ確認したところ、藤堂の強張っていた表情が消え去っており、いつもの穏やかな表情へと戻っていた。そして、藤堂は野村夫妻へ向き直って深々とお辞儀をする。


「野村さん。私が勝手に話を進めてしまい、本当に申し訳ございませんでした。ですが、今回の話……」


「謝らないでください」

 藤堂の言葉を、佳代が止める。そして、夫妻は顔を見合わせ頷いた。


「小田切さん」

 陣八が言った。


「はい」

 と言い、雅彦は視線を合わせる。罵詈雑言を吐かれても仕方のないことをしたと腹を括っていたが、陣八は微笑んできた。


「荷物を戻すので手伝ってください」

 それが、野村夫妻の答えだった。


 雅彦、向坂、藤堂、野村夫妻は車まで一緒に歩き、水野は蓮穂達の様子を見てくると二階へ行った。


 雅彦と向坂がトランクから荷物を取り出している時も、藤堂は野村夫妻に平身低頭としていた。


 藤堂や野村夫妻には嫌な思いをさせてしまった。と雅彦は面目がなかったが、そんな時に軽く背中を叩かれる。


 叩いたのは向坂だった。


 雅彦の視線に対し、小さく頷いてからフッと笑う。まるで、気にすんなとでも言いたげな顔だった。その様に、雅彦も口元を僅かに緩めた。


 野村夫妻と藤堂への申し訳ない気持ち、それも含めて全て背負っていくんだ。

 そう、雅彦は気持ちを入れ直した。

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