第54話


 一同、固まっていた。


 別れが辛いのはわかるがここまでとは、と言いたげな。華耶であれば、まぁまぁと宥めることもできたのかもしれない。


 ……しかし蓮穂が、である。


 皆、固唾を飲んで見守っているようであった。


 そんな中、蓮穂に泣きつかれている雅彦は、蓮穂の頭をさすりながら、全身に血が巡っていくような感じがしていた。


 俯瞰していた最中、ふと意識を戻される感覚。別れの際まで施錠すると決めていたのに、感情の扉が開きかかっている。そんな時だった。


 蓮穂の呼吸が単調になったので、雅彦が蓮穂の顔を覗き込んだ。


「……眠っています」

 雅彦が皆の顔を見てから、そう言った。


「えっ?」

 何人かが声を漏らした。


「こいつ、朝から目が充血していましたし、眠っていなかったのかもしれません」

 雅彦は蓮穂を支えながら述べた。


「とりあえず、中へ戻りましょう」

 向坂がそう言い、

「では、私の部屋に」

 と水野が続いた。


 雅彦は蓮穂を抱きかかえて家の中へ戻ると、先導していた水野の後に続いて階段を上った。上り終わると、部屋のドアを開けて水野が待っていた。


「こちらへ」

 と手で案内しつつ水野が言った。


「とりあえず、ベッドに寝かせましょう」

 言われるがまま部屋の中へ入った雅彦に、水野がベッドへと誘導した。雅彦は慎重に蓮穂をベッドへ移し、一息つく。


「かやもおねえちゃんのそばにいる」

 いつの間にかついて来ていた華耶が言った。蓮穂が寝ているパイプベッドの横に座り、寝顔を見ている。


「私は、少し様子を見てから降りますね」

 水野がそう言ったので、雅彦は水野に一礼し、一階へと降りて和室に戻った。


 和室には、お茶を入れ直している藤堂、その他に向坂、野村夫妻が座っていた。各々表情は暗かったが、特に野村夫妻が思い詰めている様子だった。


「手間を取らすことになり、すみません」

 雅彦は野村夫妻へ頭を下げた。


「あ、いや。小田切さんのせいじゃないですし、蓮穂ちゃんも悪くないですよ」

 陣八が答え、佳代も頷く。しかし、自分達のところに来ることへの抵抗があると感じているのだろうか。やはり表情は冴えなかった。


 藤堂が用意してくれた茶を飲みながらも、全員が無言。茶をすする音が静かに響いた。沈んでいる状況に気を使ってくれたのか、蝉が鳴き声で中和してくれる。


 梅雨真っ只中の蒸し暑い夏日、もう蝉が鳴く季節か。と、雅彦はどんよりとしている中でそんなことを思っていた。


 いや……思えるようになったのだ。


 雅彦が、意図的に消していた思考と感情器官に再び火が入る。


 蓮穂が終わらせなかった。


 まだ終わっていないんだ。


 雅彦はその事実に、今更ながら思い知る。


 このままでいいのか?


 本当に?


 と自問自答。


 蓮穂は嫌だと言った。とはいえ、蓮穂も華耶もこれからの未来を歩む上では、間違

いなく野村夫妻の養子になった方がいい。経済面も、世間体も、わかりきっている。


 ――それでも。


 自分は独り身で、経済的にも苦しい、養子縁組の資格もない。そもそも、赤の他人なのに蓮穂と華耶を庇護することなんてできない。


 ――それでも。


 弟が殺され、両親は自殺。こんな死神の傍にいていいわけがない。それに万が一、蓮穂と華耶が死んでしまったらどうなる。また、あの苦しみを味わうのか。


 ――それでもっ!


 静かな部屋の中、雅彦の中で繰り広げられる強烈な意識のせめぎあい。正論と、それを跳ね返す感情論。


 雅彦が葛藤している中、

「華耶ちゃんも一緒に寝ちゃいました」

 水野が部屋に戻ってきた。


 水野は藤堂の横に座り、お茶を飲む。人の声が口火を切ったのか、

「やっぱり、早すぎたんでしょうか。もう少し、二人は気持ちの整理をつける時間が必要だと思います。私達は待ちますので大丈夫ですよ」

 陣八がそう言った。


「いえ、でも、早い方がいいと思いますし」

 陣八の言葉に理解を示しながらも、藤堂が渋い表情で答えた。


 今度こそ……本当に終わる。


 そう、藤堂の返答で雅彦が気付いた時、暴風雨のようになっていた感情がピタリと穏やかになった。


 また逃げるのか?


 そんなものなのか?


 明鏡止水となった雅彦に、問い掛けてくる心の声。 


 雅彦は無意識に唾を飲み込むと、深く息を吐き出した。


 そうじゃなかったな。


 また、過ちを繰り返すところだった。


 素直に認めてしまったら、もう雅彦に迷いはなかった。


 今後どうするかはひとまず置いて、伝えなければならないだろう。



 本当の想いを。



 雅彦は勢い良く立ち上がった。


 皆が一斉に雅彦へと視線を向けてくる中、雅彦は三歩後ろへ下がり、全員を見渡してから深々と頭を下げた。


 そして顔を上げ、雅彦は思いを決して話し始める。


「小田切雅彦。二十二歳。最終学歴は横浜市立S高等学校。大学受験に失敗し、浪人一年目途中までは予備校に通っていましたが、退学しています。引きこもりのニートでした。今、新宿の紅葉という洋食店でアルバイトをしています。一月の手取りは大体十八万円ほどになります」

 雅彦がいきなり始めたからか、全員唖然としていた。


「ちょっと、小田切さん? 何を?」

 藤堂が雅彦に声を掛けるが、

「香苗先生」

 向坂が即座に制止した。


「聞きましょうよ」

 向坂は藤堂にそう言ってから雅彦に向き直ると、優しげな笑みを見せる。雅彦は、その姿に同じような笑みで返した。


「自分には家族がいました。家族を大切にしてくれる優しい父と、皆にエネルギーをくれる太陽みたいな母、無邪気で自分を慕ってくれる弟。自分で言うのもおかしいですが、仲が良かった家族だったと思います。ですが、弟は六年前、事件に遭い殺されました。弟がいなくなった。家族の歯車が狂ったのは正しくここからでした。両親も、自分も笑うことができなくなりました。今まで当たり前にあったはずの家族が崩壊していきました」

 雅彦の突然の告白に、一同息をのんでいる様子であった。


「両親が元気になれば、笑えるようになればと、色々やったつもりでした。自分の行動に両親が気を使ってくれたこともわかります。それでも、一度壊れた当たり前の家族は元に戻りませんでした。そして大学受験にも失敗して、また落ち込んで、予備校へ通いたいと言って東京へ来ました。勿論、実家から通える横浜の予備校がいいと思いましたが、あえて選ばなかった。自分がいなくなったら、両親は本気で心配してくれるかもしれない。そんな子供じみた発想でした。でも、それだけじゃなかった」

 雅彦はそこまで言うと、言葉を止めた。

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