本当の家族
第53話
酷い顔だった。
泣いた後、台所で意識を失っていた雅彦だったが、華耶に叩き起こされた。
雅彦は寝惚け眼で顔を洗い、鏡を見ると目が覚める。と同時に、目の周りは少し赤く、目の下には隈がくっきりついていることがわかった。
こんなに泣き腫らした顔を見たのは、弟と両親の時以来か。と、雅彦は思った。
何度も顔を洗い直し、濡れた顔をタオルで拭くと部屋へ入った。
「お。ありがとう」
雅彦はテーブルに用意されていた朝食を見て、そう言った。
コーヒー、トーストにハムエッグ、レタスとトマトのサラダ。飲み物は違えども、朝食として三人が良く食べる定番メニューだった。
「いえ」
小さな声で蓮穂が言った。
雅彦は蓮穂の横へと座り、朝食を食べ始める。蓮穂の目が真っ赤に充血していたが、雅彦はあえて何も聞かなかった。
「こうさか、ぜんぜんおきない」
と言って華耶が部屋へ戻ってきた。
「ありがと。後で俺が起こすわ」
パンをかじりながら雅彦は言った。
時刻は午前十時十二分。
三葉児童園での待ち合わせは正午だから、まだ大分余裕があった。
「支度は?」
「終わっています」
雅彦の質問に、蓮穂は言葉と共に視線を部屋の片隅へ向けた。その先には、ここへ初めて来た時のバック一式、ランドセル二つ、バックに入りきらなかった洋服や雑貨物などを入れた紙袋が置かれていた。
「あと、これを」
蓮穂は合鍵を雅彦へ差し出してきた。ただ、雅彦と目を合わせようとはしなかった。
一方で、雅彦は合鍵を見て動きを止めていた。
否、躊躇っていたのだ。
あと二時間足らずで別れとなる。深夜も泣きに泣きまくった。頭では理解しているつもりだったし、実感もあった。でも実際に蓮穂と華耶はまだ家にいる。だから、別れに対しての現実感が、未だに希薄だったのかもしれない。合鍵を見て、これが最後の儀式なのだと、雅彦は瞬時に理解をした。
理解したと同時に、躊躇してしまったのだ。
中々手をつけない雅彦に、蓮穂は外していた目線のピントを雅彦へ合わせる。
「あ、すまん」
不安そうな蓮穂と目が合うと、雅彦は慌てて合鍵を受け取った。
ポケットにしまいこんでから、雅彦はコーヒーを一口飲む。
ふぅ、という身体の芯から息を出した。
……終わった……本当に終わった。
雅彦はそう思ったし、そう納得せざるを得なかった。
泣きすぎたからか、涙は一切出なかった。
悲しさは勿論あったが、虚無感が凄まじかった。全身の力が抜けて、意識も飛んで、雅彦はこのまま溶けていくような感じがした。
虚脱状態のまま雅彦は朝食を食べ終え、食器を洗った。洗い終えると、まだ台所の隅で寝ている向坂を起こし、顔を洗いに行かせ、用意した朝食を食べさせた。
雅彦も、向坂も、蓮穂と華耶も、ほとんど誰もが会話をしなかった。
それからはあっという間だった。
向坂がアパート前に車を停車させ、雅彦達三人が荷物をトランクへと入れる。全員が車に乗ると、向坂はアクセルを踏んで三葉児童園へと走らせた。
十一時三十分に出発した車は、十分もかからず目的地に到着した。敷地内へ入って向坂が駐車をし、雅彦達は降りる。横には、白塗りの乗用車が駐車されていた。
フロントの煌びやかなエンブレム、清潔さと厳かさを感じさせる車体。雅彦は車に疎かったので車種はわからなかったが、高級車であることくらいは理解できた。
雅彦達はトランクから荷物を取り出すと、向坂を先頭に二階建ての家屋へと向かった。
三度目、最後となる訪問。
雅彦は玄関で迎えてくれた藤堂と水野へ会釈をし、案内されるままいつもの和室へ入った。こちらも三度目となり、雅彦にとっては見慣れたものであったが、そこにはすでに野村夫妻がいた。
雅彦は深々とお辞儀をした後、蓮穂と華耶にもお辞儀をさせ、野村夫妻とは対面に座った。
藤堂と野村夫妻が会話をし、雅彦自身も会話に加わる。雅彦の愛想笑いも自然で、ギスギスとした雰囲気はない。
夫の陣八が何度も蓮穂と華耶に話し掛けるが、二人共口数が少なく反応が薄いので、妻の佳代が緊張しているのだからと窘める。すまんすまん、ごめんなさいね、そう二人へ謝る夫妻を見て、雅彦は好感を持った。
嫌悪感も、敗北感も、対抗心もなかった。
もうすでに、雅彦は抜け殻だったのだ。
会話が一段落し、ではそろそろ、と藤堂が言い野村家へ移動する準備が始まった。
雅彦と向坂が荷物を持って、白塗りの車へ荷物を入れる。直ぐに作業は終わり、車の前に、野村夫妻、蓮穂と華耶、藤堂、水野、向坂、そして雅彦。藤堂から順に一人ずつ、蓮穂と華耶に向けて何かを言っていた。
抜け殻状態の雅彦は、聞いているようで何も聞いていなかった。
向坂が言い終えたようで、最後である雅彦の番となった。
雅彦はゆっくりと二人を確認した。
拗ねて横を向いている華耶。
顔を伏せている蓮穂。
……もう取り繕うこともない。
雅彦はそう思った途端、考えたわけでもなく言葉が出る。
「華耶。ウチでは窮屈な思いばっかりさせてごめん。お前が家にいるだけで部屋が明るくなって、帰ってくるといつも癒されていたよ。一緒にいてくれて、ありがとうな」
華耶は雅彦を一瞥すると、何かを堪えるような息を出してから口を結んでいた。
「蓮穂」
雅彦に呼ばれると、蓮穂の身体がビクッと反応した。
「お前は、何も悪くない。誰かが、お前のせいだと言ったとしても、それは違うから……違うって……俺がはっきり言えるから。不安になったら、お前を認めていた人間がここにいたんだって、思い出せばいい。胸を張って幸せになれ」
魂が抜け切った男、渾身の餞別。紡ぎ終わった言葉には、風の音だけが答えていた。
何秒間停止していたのだろうか。
皆誰もが口を閉じて動きを止めていた。
息が、微かに荒れた息が聞こえた。
震えた身体、手で隠された顔、俯く姿から水滴が落ちていた。
灰色のアスファルトに、黒い模様が幾つも。
雅彦が顔を上げると、目の前には蓮穂がいた。
そのまま、蓮穂は雅彦の胸に顔を埋めた。
「……な……なんで……そんなこと」
小さい声で。
「……なんで……いま……」
紡ぐ最中、吐かれる吐息が雅彦の胸を焦がす。
「……やだ……」
顔を胸に強く当て。
「……いや……だ」
蓮穂は雅彦の胸に顔を埋めたまま、泣き崩れた。
雅彦は膝をつき、蓮穂の頭に手を添える。蓮穂は、静かに雅彦のシャツを濡らし続けた。
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