第52話


 雅彦はアルコールがまじった息を吐き出した後、奥歯を噛み締める。


「あったものがなくなる。どうしようもない、喪失感と悲しみ。恐怖ですよ」


 その言葉。


 複雑な感情まじりの声、絶望を滲ませる顔つき、雅彦の言葉と姿に向坂は表情を暗くした。


「当たり前だと思っていました」

 と呟いた後、雅彦は語り始める。


「弟は俺に良く懐いていました。どこに行くにもついて来て、離れると泣きそうになって、寂しがり屋だけど愛くるしい弟でした。母さんは口煩かったけど、本当に優しくて、いつも家族の中心で。全然怒らない父さんはいるだけで安心するし、一緒に遊ぶのが凄く楽しかった。家族皆で手を合わせてからご飯を食べること。些細なことで笑い合えること。寂しくなった時にはいつもいてくれたこと。当たり前だと思っていましたよ」

 雅彦の話に、向坂は日本酒を飲みながら黙って聞いている。


「六年前に弟が殺されて、初めて頭の中の思考が止まる感覚を味わいました。わけがわかんなくて。何で? 何で? ってずっと頭の中で響いていて。殺した犯人を憎もうにも、犯人は弟と一緒に心中しました。事業に失敗した社長でした。『息子の代わりに連れていきます』ってメッセージが残されていて、何だよそれっていうどうしようもない悲壮感だけでした」

 雅彦は正気ではない笑みと、最後にフフッと声を出した。


「元々その日、弟は朝から腹痛を訴えていました。母も学校を休ませようとして、酷かったら病院へ行くことも考えていたみたいです。でも、少し寝たら治ったって言って、遅刻して学校へ向かったそうです。弟は人懐っこい性格で、多分沈んでいた殺人犯を気に掛けたのだと思います。そして、事件が起きました。俺も父も、母を責めるつもりはありませんでしたが、母は私が行かせなければと特に病みました。もう、父も母も、俺も笑うことができなくなりました。当たり前だった家族が、もうそこにはありませんでした。それから追い打ちをかけるように、三年前に両親が揃って海へ身投げですよ」

 そう言った雅彦は、沈んだ表情のままハハッと軽く笑った。


「洋服ダンスから遺書を見つけたんですけど、『ごめんなさい』の一言しか書かれていませんでした。警察の見解では、以前から遺書は用意されていて、今回突発的に自殺したのではないか、ということでした。まぁ、死んだことには変わりがないので、そんなことはどうでもいいんです。胃の中で何かがずっとグルグル回っているような、喉元を絞めつけられる苦しさで、吐き気が止まらなくて何度も吐いて、尋常じゃない気持ち悪さに苛まれました。弟だけじゃなく、母と父、家族全員、大切な人がいなくなることが、こんなにも辛いのかって。どうしようもない喪失感と悲しみに自分が狂いました。気が付いたら、実家の壁に穴が開いていたり、窓が割れていたりしていました。まぁ、やったのは俺なんですけどね。拳や額から血が出ていて、指は何本か折れてました」

 手を痛がるジェスチャーをした後、雅彦は薄く笑う。一方、向坂は顔色一つ変えず、コップを片手に黙していた。


「直ぐに、家族がいるところへ逝こうと思いました。でも、遺書と一緒に預金通帳があって、両親が俺の大学費用のために貯めてくれていたお金、五百万円でした。気持ちが切れていても、俺のために働いてくれた。もう崩壊していましたが、家族として忘れられてはいなかったということが、自分を正気に戻しました。それから、寄付をするか豪遊してから逝こうかと思いましたけど、それでいいのかな……と。せめて理由が欲しかったんです。両親が家のローン完済と、俺の大学費用を作り終えて逝ったようにね。だから、自分もこの五百万円分だけ生きよう、使い終えたら死のうと決めました。供養ってわけじゃないですけどね。とはいえ、今更受験する気力もなかったですし、生きる気力だけで精一杯でした。それに、誰かと関わることが怖かった、失う恐怖に怯えていました。だから、引きこもっての自堕落な生活。そうやって、向坂さんが言った通り、自殺までのカウントダウンを一人でやっていたわけです」

 雅彦は言い終えると、やり切ったかのような息を吐く。しかし、晴れやかさは全くなかった。


 向坂が、空になっている双方のコップに日本酒を注いだ。雅彦は日本酒が注がれたコップを手に取り、顔を強張らせる。


「生きることを諦めていましたし、それでいいと思っていました。大切な人を失う感情だけは、もう絶対に味わいたくなかった」

 強く息を吐き出した後、雅彦はコップに入っていた日本酒を一気にあおった。


 ガハッという咳をした後、辛口の味が雅彦の喉を燃やす。


 そして一呼吸置いてから、

「……だから……嫌だったのに……」

 絞り出すような、泣き声まじりの言葉。


「これ以上、関わるとまずいってわかっていたのに。あいつら、放っておけなくて!」

 昂る感情が抑え切れない。


「どんどん、どんどん、あいつらが俺の中に入ってきて、それが当たり前になって、居心地が良くて、懐かしい感覚に酔って!」

 興奮から一気に捲し立て声量が上がったが、雅彦はここまで喋ると唾を飲み込んだ。


「……だからって……どうしろって言うんですか? あいつらのことを考えたら、野村さんの方がいいに決まっているでしょう? ここは本来いるべき場所じゃない。俺だって、いつかこうなることはわかっていたはずなのに……」

 声を抑え、荒れた息が漏れる。


「また、同じ苦しみを味わってしまった」

 目には涙が溜まっていた。


「三度目ですよ。俺……バカですよね」

 口を小刻みに震わせながら。


「……何でだよ……何でやっちゃってんだよ……」

 強く握り締めた拳で床を叩き、下唇を思いっきり噛む。


「何で欲しがってんだよ! 俺は!」

 爆発させ、全てを吐き出した。


 雅彦の瞳からは、無意識に大粒の涙が落ちていた。


 言い終えると、雅彦は顔を伏せた。


 そして伏せてから数秒後、雅彦の濡れた頬が向坂の手で拭われる。


「お前の目から流れているこれは何だよ?」

 向坂はそう言って、雅彦の目の前に手を出して涙の跡を見せた。


「死神やロボットが流すのか?」

 向坂はそっと雅彦へ問い掛けてから、微笑んだかのような緩んだ息が漏れた。


「……仕方ねぇだろ」

 向坂がポツリと呟いた。


「お前も、俺もただの人間で。……生きてるんだよ」

 雅彦はその言葉に身体を震わせた。


 ずっと、我慢をしていた。


 野村夫妻と会った後も、運動会の時も、昨日二人に養子に行けと告げた時も、自分が泣くべきことじゃないと、そんな資格はないと、雅彦はずっと我慢をしていた。


 だが、向坂が雅彦の頭を乱暴にかいた。


 一瞬で雅彦の目に水が集まると、大きな息を一つ吐く。


 もう、ダメだった。


 我慢を重ねていた涙腺が、完全に決壊した。


 二人の将来と、大切な人を失うことの悲しみと、本当の想いがまざり合って。



 雅彦は泣いた。



 ただひたすらに、声を殺して泣き続けた。


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