第50話
向坂は雅彦からの視線を意に介さず、
「やー。すまんね」
と言って平気な顔で入ってきた。
「二人とも、もう寝てんのか?」
「当たり前でしょ。だから部屋は無理ですよ」
居座る気満々の向坂の姿に、雅彦はせめてもの抵抗をみせた。
「ここでいいよ」
「二人を起こしたくないので、灯りは玄関だけにしますけどいいですか?」
「おっけおっけ」
適当に相槌をして、向坂は台所に腰を据えた。
「ったく。何しに来たんですか?」
雅彦が溜め息まじりに言うと、向坂は唸ってから、
「どのみち、明日の昼に俺が車で三葉まで送るじゃんか。だったら泊まろうかな、と」
そう言って口元を緩ませた。
「布団の予備なんかないですよ」
「言い方キツイなぁ。だからここに雑魚寝でいいって。夏だし」
雅彦の辛辣な対応に向坂も若干へこんだ様子だったが、
「……それにさ」
不敵な笑みを浮かべると、隠し持っていたのであろう一升瓶を後ろから出して見せた。
「日本酒、ですか?」
ラベルにでかでかと大吟醸と書かれているのを見て、雅彦が向坂へ聞いた。
「そうそう、これ結構高い酒なんだ。一緒に飲もうぜ」
向坂が微笑む。雅彦はその姿に勘付いた。
明日の別れに気を使って、わざわざ来てくれたのではないか?
と。図々しいなと思っていたが、そんなことはないのだと雅彦は向坂を見直していた。
「ツマミ買ってねぇから、何か出して」
気の抜けた向坂の声である。雅彦の中で上がった向坂株は、急激に下落した。
雅彦はまた溜め息を吐いてから、冷蔵庫を漁る。既製品のキャンディ型チーズと、夕飯の残りである筑前煮があった。これでいいか、と面倒くさそうに思う雅彦。しかし、なぜかフッと笑みを浮かべていた。
仄暗い台所でのささやかな飲み会が始まった。
まずは乾杯をして、向坂がこの前大負けした競馬の話から、この前テレビでやっていたバラエティ番組の話とか、そんな他愛のない話が続いた。
酒も美味で、普段あまり酒を飲まない雅彦ですら、コップ一杯分は軽く飲み干していた。
そして、飲み始めて三十分が経とうとした時だった。
「冷えてるけど、この煮物美味いよな。蓮穂ちゃん凄いわ。これがもう食えなくなると思うと、寂しいもんだ」
筑前煮を食べ、向坂が言った。
飲んでから明日のことや、二人のことは一切触れていなかった。雅彦はその言葉に、一気に現実へ引き戻された感覚だった。酔いも回っていたのであろう、冷静にはなれていなかった。
「……これで……いいんですよね?」
日本酒を一口飲み、雅彦は無意識にそう言っていた。
向坂は雅彦を少し見てから、日本酒を一気に飲み干す。それから、一升瓶からコップへ注ぎながら、
「いい。と決めたのはお前だろう」
と静かに言った。
「現実的に無理でしょう?」
間断なく雅彦が異を唱えた。
「それは里親になる条件を満たせないことや世間体、金銭的なことを言っているのか?」
そう言い返す向坂はコップへと注ぎ終わると、
「それとも」
言葉を続けてから酒に口をつけた。
コップを床に置いて一息つく向坂だったが、次第に表情は真剣なものへと変わっていった。
「それとも……」
向坂はもう一度そう言うと、射貫くような視線を雅彦へ向ける。
「お前自身のことを言っているのか?」
はっきりと口にした。
二人は無言のまま見つめ合ったが、雅彦が先に目線を外す。無音の中、向坂の酒を飲む音と吐息が雅彦には聞こえたが、その後だった。
「小田切雅彦。神奈川県横浜市生まれ。二十二歳、今年八月七日で二十三歳。最終学歴は横浜市S高等学校。現役三年時にK大学に受験し、失敗。そのまま受験浪人となり、単身で調布へ引っ越して四谷の予備校に入る。しかし、同年十月から予備校には通ってはいない。現在、家族構成は本人のみ。六年前、当時小学三年生だった弟が男に刺殺され死亡。これは横浜男児殺人事件として、テレビなどで報道もされていたな。それから、両親は三年前、同時に死去。車ごと海へ突っ込んでおり、事件性もないことから自殺での水死と判断されている」
淡々と語る向坂に対し、雅彦の顔色はどんどん消えていく。
「言ったよな? 山岸を調べる時に、お前も調べさせてもらったってよ」
「ええ。わかってました」
沈んだ表情で雅彦は頷いた。
「里親、養子縁組を取れない、世間体や金銭的な問題も勿論あるだろう。が、嬢ちゃん達を手元に置きたくないのは、それだけが理由じゃねぇだろ?」
向坂の言葉に雅彦は黙った。
「幸せになる価値がない。一緒にいると、嬢ちゃん達が不幸に遭ってしまう。なんて勝手な理屈を作って、自分を死神とでも思っているわけじゃないよな?」
そんな向坂の挑発めいた言い方に、
「そう思わない方がおかしいでしょう?」
と雅彦は平然と言い放った。
「お前なっ!」
向坂は一瞬声を上げたが、無理やり抑え込んでいるようだった。酒を飲んで、大きく息を吐いている。雅彦はその姿を横目に口を開く。
「蓮穂と華耶が野村さんのところへ行く。自分は解放されて楽になるのは事実です。二人がいると自分のせいで死ぬのではないか、という不安や恐怖が常にありましたから」
「あっそ」
雅彦の答えに、向坂はどうでもよさそうな相槌。そして唐突に話題を変える。
「お前さ、前に俺が妹の話をしたの憶えてるか?」
「はい、憶えていますよ」
最近の記憶なので、雅彦は淀みなく返事をした。
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