第47話


 水野だけじゃなく、向坂も気付いていたのか。


 過去を知らないハンデがあったとはいえ、自分は蓮穂の傷にそこまで深く考えることができなかった。と、不甲斐なさから雅彦は悄然としていた。


「だけどさ、蓮穂ちゃん良くなってきたって最近思うわ」

 向坂はニヤリとした。


「お前だよ。お、ま、え。お前との暮らしが蓮穂ちゃんにとって良薬ってことだよ」

 そう言われ、雅彦はコーヒーを飲む動作のまま固まった。


「雅彦」

 向坂から真剣な眼差しを向けられる。


「前にも言ったが、一緒に生活する上で、信頼し合える環境が何より大事だ。お前といる今の環境は、そういう意味では悪くないと思ってる。とはいえ、野村夫妻の環境も好条件で滅多にあるもんじゃない。後はお前が決めろ」

 そう、向坂は雅彦へ託してきた。


 雅彦は自然と背筋を伸ばすと、

「決めろって……もう決まっています。あいつらが不自由なく、より幸せになれる方に決まっています」

 とぎこちない笑顔で返した。


「そっか」

 雅彦の答えに、向坂は憂いを帯びた表情で呟いた。


「調べてくれて、ありがとうございました」

 雅彦は立ち上がり、深く頭を下げた。


「連絡はどうする? 俺がやろうか?」


「いえ。俺から園長先生へ連絡します。この後直ぐがいいかなと、鉄は熱いうちに打てって言いますからね」

 そう、雅彦は帰り支度をしながら笑みを浮かべたが、どんな大根役者よりも下手糞な笑顔であった。


「雅彦」

 雅彦が事務所のドアに手を伸ばそうかという時、後ろから聞こえた。雅彦は声の主へ振り返る。その主である向坂は、ソファに座ったまま天井を眺めて黙っていた。


 それから何秒か経ち、

「……また……飯食いに行くから」

 そっと撫でるように放たれた向坂の言葉。


 拙い気遣いを感じ、雅彦は少しだけ頬を緩めた。


 決めていたことだ。


 野村夫妻に問題がなければ、蓮穂と華耶は養子になるべきだということを。


 ……決めていたんだ。


 向坂の事務所を出ると、雅彦は自分にそう言い聞かせた。


 事務所から少し離れると、雅彦は携帯電話を取り出して三葉児童園に電話をかける。


 三コールほどで藤堂が出た。


 挨拶も手短に、早速野村夫妻との養子縁組を賛成したいと言った。


 藤堂は、だったら何度か顔合わせをして慣れさせてからと言ったが、早い方がいいからと反対した。蓮穂と華耶は自分が説得をするので、野村夫妻への連絡をお願いしますと伝え、雅彦は通話を終了した。


 

 これで良いのか、悪いのか。

 考える前に決めていたことを実行しないと、どうにかなりそうだった。

 電話を終えた後も、雅彦は胸を抉るような不快感が消えなかった。



 雅彦は無心で買い物を済ませ帰宅すると、

「……あ」

 自然と声が出た。


 理由は、帰ろうとアパートの敷地に入った矢先、隣に住んでいる老婆、高梨が掃除をしていたからである。


 料理をもらったり、蓮穂達が世話になったりしているようなので、何度か菓子折りやお返しの料理を持っていったが、雅彦に対しての素っ気ない態度は変わらない。


 蓮穂と華耶は高梨を優しいと言っていたが、雅彦にはその意味がわからなかった。


 気が強いから正直苦手なんだよな、と雅彦は思う。しかし、無視して通るわけにもいかなかった。


「いつもお世話になっています。あと、料理とかも助かっています」

 高梨に頭を下げて言った。


「そうかい。育ち盛りだから、沢山食べさせないとダメだよ。特に、上の子は遠慮しがちだからね」

 高梨は雅彦が両手に下げているレジ袋を見て、そう言った。


「気を使っていただいてありがとうございます。でも、もうすぐ親戚の元へ戻る予定なので、大丈夫ですよ」


「え? いなくなるのかい?」

 背を曲げて箒で掃いていた高梨は、上体を戻して雅彦を見据えた。


「ええ、その予定です。いつも喧しくてすいませんでした」

 雅彦の返答に、高橋は一瞬寂しそうな表情を見せた。


 が、すぐさま掃除を再開し、

「はっ。そうかい。清々するわ」

 と言った。


 強い言葉。


 なのに、怒気もなく、吐き捨てる言い方でもなかったそれは、雅彦に哀愁を感じさせるものだった。


 二人が優しくしてもらっていると言った、その意味がようやく雅彦はのみこめた。


 雅彦は自宅に入り、食材を冷蔵庫に入れ少し休む。


 今日は火曜日。平日なので、当然学校へ行っている二人はまだ家にはいない。


 いなくて良かったと思った。


 もう決めた話、藤堂にも伝えて後戻りもできない。


 だが、感情はそうではない。


 先の高梨のように言葉で強がってみても、感情を即座に制御することは非常に難しい。まずは落ち着くための時間が必要だった。


 それに、一昨日に野村夫妻と会ってから、蓮穂の様子がおかしい。水野が言っていた通り、養子に出されることを気付いているのだろうか。とにかく、今まで以上に気を使ってきたり、やらなくていいこともやろうとしたりしていた。


 昨日なんかは、雅彦が風呂に入っていると、背中流しましょうかと言って入ろうとしてきた。当たり前だが、そんなことは今まで一度もないし、雅彦が頼んだこともなかった。


 また、捨てられると。自分と一緒にいたいからと。蓮穂は思ってくれているのかもしれない。不安定な状態の蓮穂に、今の自分を見せることはよろしくない。と雅彦は判断した。


 水野や向坂は言った。


 雅彦が良い変化をもたらした……と。


 買いかぶりだと思いながらも、嬉しくないと言ったら嘘になる。


 本当なら自分だって……でも……ダメだ……だけど。


 募る思いと逆接の接続詞がせめぎ合い、雅彦は台所で顔洗った。


 何回も顔に水を浴びてから、ふぅと息を吐く。


 ……振り切るんだ。


 そう、何度も言い聞かせる。


 これで最後だ。俺との物語も、蓮穂と華耶が傷付くことも。


 だから……これでいいんだと。


 雅彦は、冷蔵庫から赤ワインで漬け込んでいた牛肉を取り出した。


 今晩のメインは牛肉の赤ワイン煮込みだ。灰汁とり、かき混ぜを交互に、弱火で何時間も見守る料理である。しかし、時間がかかるの料理だからこそ、良かったと雅彦は思った。


 頭を空っぽにして作業ができる。余計なことを考えないことが、今の自分には必要だと雅彦は考えていたからである。


 だから、二人が帰宅した時も上手くいった。

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