元ニート男の過去

第46話

「あんまりここには来たくなかったです」

 部屋に入って辺りを見渡し、雅彦は開口一番文句を言った。


 もうすぐ昼だというのに、部屋の中は薄暗い。外の晴れた光を遮光するブラインドカーテンにより、陰鬱さが醸し出されている。


 一人用のデスク、対になっているソファとその間にあるテーブル、タバコのヤニで黄ばんだ壁、匂いもこびり付いている。テレビとDVDプレイヤーはなかったが、紛れもなく以前に来た向坂の事務所である。


 ここには嫌な記憶しかないので、雅彦は正直に吐露した。


「まぁ……だろうな」

 そう苦笑した向坂が出迎えてくれ、雅彦は持っていたコーヒーを渡した。


「いくら?」


「奢りますよ」


「え? マジ? サンキュー」

 向坂は嬉しそうに受け取ると、コーヒーが入ったテイクアウト用のカップを持ちながらソファに座った。


 無料で調査してもらっておいて手ぶらはまずいかと思い、雅彦は来る途中の喫茶店でコーヒーをテイクアウトで購入していた。なお、頼んでいる最中に自分も飲みたくなったので、二人分である。


「結構早かったですね」

 雅彦は自分用のコーヒーを袋から出してテーブルに置き、向坂と対面のソファに座った。


 向坂は雅彦が座るとコーヒーを一口飲み、書類をテーブルに広げる。


「山岸のような一癖も二癖もある奴とは違って、善良な人間だとそれほど難しくない」


「……善良……ね」

 そうだろうな。と、思いながら雅彦は呟いた。


「経歴の書類とか見るか?」

 向坂は束になった書類を渡そうとしてきたが、雅彦は手で制す。


「いえ、口頭で構いません。別に、野村さんのプライバシーを深く詮索するつもりはないです。どういう人間像なのか、それだけでいいです」


「あっそ。じゃ、簡単にいくか。まず旦那さんの方からな」

 向坂は書類を手に取り口を切った。


「野村陣八、年齢は四十五歳。公務員で都庁に勤めている。収入は安定しているな。小島町に二階建ての持ち家がある。嬢ちゃん達が通っている小学校の近くだな。趣味は山登り、年に数回遠出もしているが、月一で奥さんと近場の山、高尾山とかにも一緒に登っているようだ。仕事関係の話は良くもなく、悪くもなくという感じかな。出世することにはあまり興味がないみたいで、業務が終わったら直ぐ帰宅するそうだ。いい大学出ているのに勿体ねぇな」


「家族を優先しているんじゃないんですか?」


「そうとも言えるな」

 向坂は雅彦の言葉に相槌を打つと、別の書類を取る。


「で、奥さんの野村佳代、年齢は旦那と一緒。旧姓は中井なかい。旦那とは大学のサークルで知り合って、大手商社に勤めた後、二十七歳で結婚。今は専業主婦。地域ボランティアにも積極的で、近所の評判も良い。今は手芸にハマっているようで、手芸教室へ通っている」

 向坂は最後に書類を流し見し、全てテーブルに置いた。


「収入安定。公務員。家のローンや借金はなし、無論前科なんかあるわけもない」

 向坂は言い終えると、雅彦に視線を合わせた。


「問題なしですね」

 雅彦は目を逸らして言うと、コーヒーに口をつけた。


「ただ……」

 向坂の一言に、雅彦の眉がピクッと動いた。


「この夫婦には一人娘がいた」


「……いた?」

 過去形?

 雅彦はその言葉に引っかかった。


「三年前に交通事故で亡くなっている。当時中学一年生」

 向坂の説明に雅彦は言葉を失った。


 向坂はソファに背を預けると、タバコを吸い始めた。肺へ煙を大きく取り込んだ後、天井へ放つ。


「娘を失った。その悲しみの穴埋めをしたいのかもしれん」

 灰皿にタバコを置いて指で弾く、落ちた灰には少し火がついたままだったが直ぐに消えた。


「例えそうでも、それは仕方のないことでしょう。悲しみに暮れ続ける方が毒ですし、孤独は更に毒です。人間は独りでいられるほど強くはない」

 雅彦は暗い表情で視線を下げ、コーヒーを飲んだ。顔を上げると、向坂が何も言わずにジッと雅彦を見ていた。その様に雅彦はすぐ顔を背ける。


 なぜなら、向坂に見透かされているような気がしたからだ。


「野村さんにそのような事情があろうとも、蓮穂と華耶の意思を蔑ろにして、娘を投影するようには見えませんでしたけどね」

 雅彦は慌てて付け足した。


「ま、そうだな。地域ボランティアで奥さんと蓮穂ちゃんが出会ったのは、娘さんが亡くなった半年後。それから、活動を通して親しくなっていたという裏も取れている。娘を亡くした悲しみを埋めたいだけなら、もっと早く話が出たはずだ。でもそうじゃなかった。感情だけで判断せず、ゆっくり考えて決めたところに野村夫妻の本意を感じるわな」

 向坂はそう言って、吸い終えたタバコを灰皿で消した。


 お互い言葉が止まり、ソファで一息ついていた。


 その最中、雅彦はどうしても確認したいことがあったので、向坂に視線を向ける。


「向坂さん。蓮穂の両親って知ってますか?」

 その問いに向坂は雅彦を一瞥し、

「知ってるよ」

 と淡白に返事。


 それから、表情が明るさを失った。


「蓮穂ちゃんが三葉に入った理由は知ってるだろ。親がいても、施設へ預けられに来る子がいないわけではない。主に片親で金銭的に余裕がなくて、とかな。愛情があってマメに施設へ会いに来る親もいる。とはいえ、そんなものは稀なのが実情だ。そして、蓮穂ちゃんの場合は最悪のケース。単純に虐待された後、捨てられている」

 向坂は最後に吐き捨てるように言ってから、一気にコーヒーを飲み干した。


「もう一度仲良くなって親子で暮らそう……だなんて夢物語だぞ。ただでさえ、蓮穂ちゃんは精神的にやばいんだ。そんなことしたら壊れるぞ」


「蓮穂が精神的にやばいって……」

 向坂の言葉に雅彦が反応した。向坂は二本目のタバコに火をつけ、話を続ける。


「あのな。施設に来る前の壮絶な虐待、山岸との生活での虐待。それでいて誰にも迷惑を掛けまいと健気に振る舞う小学生、これが正常だと思ってんのか?」


「……いえ」


「心が相当凍り付いてるだろ。心理療法の先端をいっているアメリカなら、速攻でカウンセリング対象だな」

 向坂は紫煙を燻らせながら言い切った。

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