第45話

 雅彦は一つ息を吐き、

「カテナチオでしたっけ? 本人が意識的なのか無意識的なのかわかりませんが、言い得て妙ですね」

 と水野へ同調を示した。


 言葉通り、雅彦にはその比喩が絶妙に感じた。雅彦の反応に、水野が悲しげな吐息を漏らす。


「私は二年間、蓮穂ちゃんと施設で過ごしました。仲良くなれたとも思いますが、結局それだけではダメだったんです」


「ダメ……とは?」


「私は、蓮穂ちゃんが子供らしく笑うところを見たことがないんです。私だけじゃない、園長含めて誰もないんだと思います。鍵を掛けた奥底で護られている心。その心の鍵は、誰にも開けることはできませんでした」

 静かに水野の話を聞いていた雅彦であったが、ふと思い出す。


 ……笑う?


 子供らしく笑う?


 そう、雅彦が考えている間に水野の声が聞こえる。


「でも、今日蓮穂ちゃんと会って、変わったなって思って。もしかしたらって思ったんです。野村さんと会う前、小田切さんの家で話をしていたんですが、運動会で蓮穂ちゃんと二人三脚をやったそうですね?」


「ええ、はい」

 思考を止め、雅彦は返事をした。


「それ、蓮穂ちゃんが自分でお願いしたそうです」

 その言葉にまじってフフッという声が聞こえ、水野が笑みを浮かべていると想像できた。


「まぁ、確かにあいつにしては珍しかったかもですね」

 照れくさそうに答えた雅彦に、水野はクスクスと笑ってから話を再開する。


「小田切さんにお願いした、そのことだけじゃないんです。元々、運動会に来てもらえるかわからなかったので、保護者とのエントリーをしていたわけではなかったそうです。でも急遽組む子が負傷してしまった。保護者と組むには事前のエントリーが必要なので不可能、他の子と組むか、先生と組むしかないわけです。でも、今日保護者が来ているからと、何とか先生にお願いをして許可をもらったそうです。どうしても小田切さんとやりたかったって、蓮穂ちゃんが言っていました」

 水野から詳細を聞き、雅彦は言葉を失っていた。


「それを聞いて、私めちゃくちゃ嬉しくて! ようやく欲しい物を素直に欲しい、と言えるようになったのかなって。この子を救える人がいるのかもしれないって」

 水野が声のボリュームを上げた。


「いや、大袈裟ですよ。たまたま、やりたかっただけかもしれませんし」


「蓮穂ちゃんは、たまたまなんかで心の鍵を開けません」

 水野は諭すような口調だった。


 そして、水野は言う。

「小田切さん、あなたが開けたんです」

 と。


 水野の言葉に、雅彦は無意識に息を止めていた。


 身体の奥底から、今まで感じたことのない心地良い何かがわき上がった。


「……や……自分は何も」

 何を言っていいのかわからず、雅彦は遠慮がちに言うのが精一杯だった。


「フフッ。っと、説明が長くなりましたが、良い傾向なのかもって話に戻しますね」

 優しげな声の後、思い出したかのように水野は話す。


「蓮穂ちゃんは変わり始めている。野村さんへの対応も悪意はないにしろ、養子に出されると気付いていて嫌がっていたんだと思いました。あの子は、嫌だと意思表示していたんです。他人のためじゃない、自分のために感情を出していたんですよ。今までならあり得ない行動です」

 きっぱりと水野は言い、何秒か間を置いてからまた言葉を続ける。


「野村さんの養子となれば、経済面の心配は要りませんし、世間体も悪くありません。今後の人生を考えたら、言うまでもないですね」


「そうですね」


「だけど。ありのままの自分をだせる、心が休まる、信頼できる人がいる環境って、何物にも代え難い。本当の家族ってそういうものじゃないですか。……私には、今が不幸だとは思えませんでした」

 水野が言い終え、しんみりとして二人とも黙ってしまった。


「すみません。湿っぽくしたあげくに、長くなってしまって」

 雅彦に気を利かせてくれたのか、水野が謝った。


「いえいえ、蓮穂のことも良くわかる話でありがたかったです。それに、わざわざ野村さんとの対応を変わっていただき、本当に助かりました」


「いいえこちらこそ。私でよければ、また頼ってください。では、また何かあったら連絡しますね」


「はい、お願いします。それでは」

 雅彦は通話を終了し、ポケットに携帯電話をしまった。


 真剣に話をしていたので、あまり歩みは進んでいなかった。丁度、二人と関わるきっかけとなった公園に通りかかるところだった。


 あれから半年か……と雅彦は感慨にふける。


 水野の話を聞いてみて、蓮穂のことも少しわかった。そして、良い方向に蓮穂は変わってきていると言っていた。養子に出されることが嫌で、己のために感情を出していたとは普段の蓮穂からは想像できないが、普通の女の子なのであれば当たり前の話だ。


 彼女は大人びていても、まだ小学生なのだからそれでいいのだ。


 しかし、水野は自分のことを過大評価してくれていたようだが、実際今の状況では無力なことが多すぎる。将来のことを踏まえると、野村夫妻の養子になることが最良の選択であることは間違いない。と雅彦は冷静に判断していた。


 ……それに。


 自分は彼女達といていいのか?


 その資格はあるのだろうか?


 己の過去を思い出し、いつも自問自答を繰り返している。


 そう、気落ちしつつ雅彦が公園を眺めていると、携帯電話が振動した。雅彦は携帯電話を取り出して確認する。


 6月17日(日) 21時45分 調査が終わった。お互い休みの火曜、事務所に来い。


 向坂からのメール。


 現実はいつも非情だ。自分の物語はあの時すでに終わっている。


 偶然出会ったこの物語も、もうすぐ終わりだな。


 雅彦は無理やり自分に言い聞かせ、公園から目を逸らして帰宅した。

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