第44話


 雅彦の返事から水野は一呼吸置き、ゆっくりと語り始める。


「蓮穂ちゃんが三葉に来たのは、五歳の頃だそうです。三歳の時に父親が別の女性を作っていなくなり、五歳の時には母親が男に夢中になっていて放置状態だったようです。夜な夜な子供が徘徊していると近隣から通報を受け、警察から注意され止むを得ず戻った母親が、三葉に蓮穂ちゃんを預けに来たことが始まりです。その後、母親はまた蒸発しました」

 水野の抑揚のない声。それがより一層現実なのだと、雅彦へ認識させた。


「両親は……生きているということですか?」

 驚愕の事実に言葉を失っていた雅彦だったが、言葉を絞り出すようにして聞いた。


「それがわからないんです。園長が何度もコンタクトを取ろうとしていますが、全く取れないと言っていましたし。生きているのか、死んでいるのか、わからないんです。向坂さんにお願いすればわかるかもしれませんが」


「そうですか」

 わからない……か。雅彦は心の中で呟く。



『私は、物心がついた時には施設にいたので、両親のことはよくわかりません』



 蓮穂の言葉を思い出した。


 五歳だとしたら憶えているだろう。


 蓮穂が嘘をついた。いや、嘘をつかせてしまった生い立ちと状況に雅彦はイラ立ちを感じた。


「すみません、続けてください」

 話を止めていたので、雅彦が先へと促した。


「はい。蓮穂ちゃんはそんな状況から三葉に来ました。園長が言うには、昔から大人しい子ではあったが、協調性もあって、手の掛からない子だと言っていました。私が二年前に入った時には、すでに小さい子のまとめ役になっていて、大人びた子だなっていうのが最初の印象です。実際に話してみて、本当にいい子だし、非の打ち所がないというか。本当に小学生なのかなって思うくらいでした。……でも、いつも遠慮している」

 水野は、話の最後に声のトーンを下げた。


「先程話した、蓮穂ちゃんが三葉に来た経緯を園長から聞いて、DVやネグレクトを受けていたことは容易に想像できましたから、トラウマからなのか、無意識に自分を抑え込んでいるのかなと思いました」


「今度は捨てられないように?」

 無機質な声で雅彦が付け加えた。


「そうです。だからもう、心に鍵を掛けてしまったと思いました。それも……奥底にです」

 奥底と言った水野の言葉が、雅彦に深く刻み込まれる。


「すみません。カテナチオっていうサッカー用語をご存知ですか?」


「……いえ」

 いきなり知らない言葉が出たので、雅彦はピクリと眉を動かした後、中央に寄せた。


「急にごめんなさい。サッカー観戦が趣味なもので」

 そう話す水野は、えへへ、とでも言いそうな明るい声色だった。先程まで重苦しい会話をしていたのが嘘のようである。


「あ、はい」

 流れについていけず、雅彦はただ相槌をした。


「昔のイタリアサッカーに代表される戦術で、今では戦術云々ではなく、イタリアサッカーにおける堅固な守備を意味することにも使われています」


「……はぁ」

 まだ続くのか。と、雅彦は呆れた声を出した。だがお構いなしにと、水野はテンションを上げて喋り続ける。


「ゴールに鍵を掛けるという意味です。自陣をいくら切り込まれても、最後のゴールは絶対に入れさせない」

 ふんっ。と、鼻息まじりの水野であった。


「あの、すみません。それと蓮穂の関係は?」

 終わる気配がないので、雅彦が水野の暴走を止めようと話を戻すと、水野は何度か咳払いをした後、


「蓮穂ちゃんを見て、接して、私が連想したことなんです」

 と、真剣な声で言った。


「私、学生の頃から児童養護施設などでボランティアに参加していたんですが、心を閉ざしている子は沢山見てきました。得てしてそういう子は、最初から触れ合いを拒否しているんです。他人に気を使わず、使うこともできず、コミュニケーションそのものを拒否している。けれど状況にもよりますが、一度心を開いてくれたら子供らしく要求も来ますし、コミュニケーションも取れるようになります。でも……蓮穂ちゃんは違う」

 水野は最後に言い切ると、言葉を止めた。


「初めからコミュニケーションも取れるし、気遣いもできている」

 雅彦が答えを先んじて言うと、

「そうなんです」

 と水野は肯定し話を続ける。


「子供ってもっと欲望に忠実じゃないですか。親がいなくて自分は施設にいて、それがわかっていても、欲しい、寂しい、悲しい、わかって欲しいって。それが子供なんだと思うんです。心を閉ざしている子供達も結局のところ、その欲求からきているんです」


「確かにそうですね。だけど、蓮穂は違う」


「はい。表面上は普通の子と変わらない女の子です。良い子で、落ち着いていて、不幸な過去の影さえ感じさせない。でも、それが逆に普通じゃないんです」


「……なるほど」

 思わず雅彦の口から漏れた。


 経験と情報に基づいた水野の意見は、合点がいくものであった。


 他人と問題なくコミュニケーションを取れ、一見何も問題など感じさせない。蓮穂が闇を抱えていることなど、同年代の子はまず気付かないだろう。いや、大人でも気付かないかもしれない。現に雅彦自身ですら、蓮穂には何かあるなとは思いながも、これほど深い傷を負っているとは気付けなかったのだ。


 蓮穂は誰からも理解されず独りで良い子を演じ、捨てられたくないという一心で鍵を掛けて護っていたのか。


 そう考えるだけで、雅彦は胸が張り裂けそうだった。

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