第40話


 思案顔の雅彦に対し、蓮穂は何も答えなかった。


 蓮穂は切り終えた野菜をまとめてから、水を入れた片手鍋をコンロに置き火を点けた。ボゥッという点火音の後、蓮穂がようやく口を開く。


「確かに、最初に言われた時はお髭もじゃもじゃでしたし、威圧感もあって怖かった部分もありましたよ」

 その言葉に蓮穂と雅彦の目が合う。雅彦は半目で睨み、

「怖がらせてすいませんね」

 と嫌味っぽく言った。


「そっ、そういう意味じゃないです」


「じゃあ、何だよ?」

 間髪入れず弁解する蓮穂に対し、雅彦はぶっきらぼうに聞き返した。ボウルに割った卵を入れ、菜箸で混ぜる。蓮穂の返答はなく、カチャカチャという菜箸とボウルが当たる音だけが鳴っていた。


「……そうじゃなくて、安心するんです」

 蓮穂は言葉を染み込ませているようであった。その姿に、雅彦は菜箸の手を止める。


「……安心?」


「私は、ここに居てもいいんだなって」

 言い終えた後、はにかむ蓮穂。


「最初に会った時も、助けてくれた後も、そう言ってもらえて嬉しかったです」

 蓮穂はそう続け、片手鍋の水が沸騰したところに、切ったキャベツと人参を入れた。菜箸で混ぜて、サッと茹でるとコンロの火を消した。


「褒められる時も、叱られる時も、一緒に料理する時も、とにかく嬉しいんですよ」

 茹で終えた野菜をザルに上げ、シンクに湯気が立った。台所の窓から差した朝日と湯気が重なったから、蓮穂の姿が幻想的に感じたのか。と思ったが、すぐさま雅彦は心の中で否定をする。


 そう思ったのは、蓮穂の表情が今まで見たことのない満面の笑みだったからだ……と。


 ……知らなかった。


 ……こんな顔、できるんだな。


 思わず雅彦は息をのんだ。


 蓮穂は、頑張り屋で、華耶のお姉ちゃんで、遠慮しがちで、笑顔も控えめで、そんな大人しく優しい女の子。それが、雅彦の認識であった。


 けれど、今横にいるのは紛れもない蓮穂本人だ。


 屈託のない笑顔をしているのは蓮穂なのだ。


 いや、違うな。と、雅彦は認識を即座に改める。


 その笑顔を向けてくれるようになったのか。


 雅彦は嬉しさを顔に出さぬよう堪えた。卵焼きを作り始め、蓮穂を見る。ゴマダレの準備に取り掛かっているところだった。


「蓮穂」

 雅彦が呼ぶと、蓮穂は顔を雅彦へ向けた。


「お前は、ここに居ていいんだよ」

 そう言って、恥ずかしくなり目を逸らす。しかし反応が気になり横目で見る。蓮穂はまたしても笑顔を満開に咲かせていた。その姿に、雅彦は我慢できずに破顔するのであった。



 清々しい朝日、風も穏やか、本日の最高気温25℃と、まさに行楽日和。


 雅彦は弁当と水筒、紙皿やレジャーシートなど諸々を入れたバックを持って家を出る。蓮穂と華耶は準備があるからと、早くも午前七時に登校していた。


 初めて小学校に行くので多少不安ではあったが、携帯電話のマップ機能を使えば余裕であった。


 自分が引きこもっている間に、携帯電話も進歩したものだと雅彦は感心し、これがバイトを受ける前に持っていればと後悔もした。


 家から甲州街道沿いをゆっくり歩いて徒歩十五分、スポーツクラブの隣に小学校はあった。いつも駅に向かう道ではないにしろ、駅にも近い。


 しかも、山岸の家と道路を挟んで真向いにあるのがスポーツクラブであり、その後ろが小学校。山岸の家へ行った際に雅彦は通ったはずだった。


 しかしながら、雅彦は全く憶えていなかった。


 こんな場所に小学校があったんだ、という体たらくであった。


 初めて小学校にいる蓮穂と華耶を見る。今更、楽しみじゃないという嘘はつけない。雅彦は気持ちを昂らせ、正門から小学校へ入った。


 だが入った途端、雅彦の表情は険しくなった。


 校庭の競技用スペース外とされた白線の外側、その周りにいくつかあるのは職員や自治体用の仮設テント、そしてそれ以外は保護者であろう人達が全て陣取っていた。

 更に外側最前列だけでなく、二列目も埋まっていた。


 現在、午前七時五十分。


 蓮穂からは午前八時三十分から開始と聞いていたが、この有様である。


 空いている場所はないかと探すが見つからず、結局雅彦は校庭の隅っこに陣取って立ち見をすることになってしまった。運動会の場所取りがシビアなことを痛感する雅彦であった。


 そういえば……と雅彦の記憶が呼び起こされる。


 自分の時は、いつも最前列で父と母、そして幼かった弟が応援していたな。場所取りはどうしていたんだろう。弟の時は……えっと、後から母と自分が行って、父が待っていたな。ということは、父に場所取りをさせていたのか。母が強かったからな。


 そう、回想する雅彦。フッと息を出すと表情を暗くしていた。


 その直後、仰々しい音楽が鳴り、身体がビクッとしたことで雅彦は我に返った。


 入場曲のようで、手製の入場門をくぐって生徒達が続々とやってきた。雅彦はバックから運動会のお知らせと記載された用紙を取り出し、改めてプログラムを確認した。


 ・入場

 ・開会式

 ・準備体操

 ・1、2年生 30m走

 ・3、4年生 50m走

 ・5、6年生 50m走

 ・全校生徒 玉入れ

 ・1、2年生 みんなでいっしょに ハートフルダンス

 ・5、6年生 騎馬戦

 ・3、4年生 にんにん忍者だ 障害物競走リレー

 ・1、2年生 保護者様(自由参加) 大玉ころがし

 ・5、6年生 保護者様(自由参加) 二人三脚

 ・3、4年生 保護者様(自由参加) 親子リレー

 ・お昼休憩

 ・全校生徒 応援合戦

 ・全校生徒、職員 綱引き

 ・全校生徒 全員リレー

 ・閉会式

 ・退場

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