第38話


 帰る途中のスーパーで鶏肉買わなきゃな。


 電車に揺られながらボーッと雨粒が当たる車窓を眺め、雅彦はとりあえず今日やることを考える。


 結局、雅彦は日を跨ぐまで家へ戻らなかった。


 戻れなかった、といった方が正しかったのかもしれない。


 雅彦は昨夜の段階で、どのような顔で二人に会えばいいかわからなかった。


 朝も二人が学校に行くまでわざと起きなかった。いつもは遅番でも朝食を一緒に食べているのに、調子が悪いからと嘘をついて。問題を先送りにするような。ダメだとわかってはいるのに、突然すぎて消化できなかった。


 しかしながら、不完全でも飲み込まなければならない。そういう立場なのだから。駄々をこねて解決することではないと、当たり前だが雅彦は十二分に理解をしていた。


 調布駅に着き、雅彦は下車をした。


 今日から気を張って過ごさないと。雅彦はそう気合を入れ、改札を出ると傘を持ち上げる。


「よぉ」

 傘を開いたタイミングで声を掛けられ、雅彦は聞こえた方角に顔を向けた。


「お疲れ様」

 声の主は向坂だった。


 改札前で傘を差している。しかし、いつもの憎らしい笑みはなかった。


「そんなに待ち切れなかったんですか? どうせなら車で迎えに来てくださいよ」


「憎まれ口を叩けるようなら良かったよ」

 そう苦笑して向坂は雅彦の隣につくと、一緒に歩き始めた。


「鶏肉とか食材買いたいので、スーパーに寄りますよ」


「あいよ」

 と返され、少しの沈黙。

「香苗先生から聞いたわ」

 向坂が呟いた。


 だろうな、と雅彦は思った。けれども、何も言い返さなかった。また、沈黙が続いた。


 結局、言葉を交わさずにスーパーで買い物を済ませ、レジ袋を持って外へ出た。雨は小降りに変わっており、傘を差さずとも歩ける状況だった。


 歩き続け、赤信号で立ち止まる二人。


「理解はしているつもりです」

 唐突に雅彦が言った。


 向坂は少しだけ雅彦へ顔を動かしたが、何も答えなかった。


「冷静になって考えて、二人にとってどっちがいいかなんて、わかりきってます。俺は二人の本当の家族じゃないし、三葉児童園の職員でもない。経済力もたかが知れてるし、世間体も良くない。……条件悪過ぎますね」

 喋り終えると雅彦は鼻で笑った。


「そうだな」

 向坂は前を向いたまま、無機質な返事をした。


 雅彦も同情して欲しかったわけじゃないので、何も思わなかった。二人とも黙ったまま、車が行き交う音を聞いている。そして、信号が青に変わると歩き始めた。


「香苗先生、気にして謝ってたよ。言い方が軽率だったってさ」

 徒歩を再開して直ぐ、向坂が言った。


「いや、すみません。自分が幼稚だったと反省しています」

 昨日の悪夢がよみがえった雅彦は、罰が悪そうに謝罪した。


「そっか。まぁ、香苗先生も突っ走るところがあるからな。山岸の時はそれが悪い方に繋がってしまった」

 向坂の言葉で、雅彦は事務所で藤堂を諫めていたことを思い出す。そうですね、とは言い辛いので雅彦は返事をしなかった。


「とはいえ、根はいい人なんだ。施設を転々とした身だからわかるが、最低な職員は何人もいた。今回、こんなにいい話が来たって、お前に早く知らせたかったんだと思う。許せない発言だったとは思うが、何とか勘弁してもらえると嬉しい」

 そう言うと、向坂が頭を下げた。


 雅彦は向坂らしからぬ行動に多少困惑したが、

「ですから、園長先生は悪くありません。俺がガキなだけなんです」

 と首を振った。


 向坂は格好を崩し、ふぅと息を吐いた。


「しかし。まぁ……」

 言葉の間を置き、

「怒るんだな?」

 と言って意味ありげに笑った。


「どういう意味ですか?」

 言葉通り意が伝わらなかったので、雅彦は眉を中央に寄せる。


「本当の家族じゃない、条件が最悪だってわかってるのに、怒るんだな?」

 向坂にそう付け足され、雅彦は理解した。と同時に恥ずかしくなり、申し訳なく思った。


「……そんな資格ありませんでしたね」

 雅彦は目線を下げ、ポツリと言った。


「違うよ」

 という言葉に雅彦が顔を上げると、向坂は不敵な笑みを浮かべていた。


「怒るってことは本気だったってことだろ」

 向坂はニヤリとした。その様に雅彦は目を見張る。


「香苗先生から経緯を聞いて、少なくとも俺はそう思った。本気で向き合ってなけりゃ、怒りなんてわいてこない。子供にとって環境はとても大事だ。経済力、世間体、親、全て大事だが、結局のところどれだけ本気で向き合えるか。どれだけ信頼し合えるかだと俺は思っている。野村さんの調査はもう開始してる。調査結果が出たらどうするか、お前と嬢ちゃん達で決めろ。香苗先生には口出しさせねぇからよ」

 向坂はそう言い切り、ポンッと雅彦の背を叩いて満足そうに笑みを浮かべた。その言葉と仕草に、雅彦は口元を少し緩める。


 雅彦は思う、向坂は自分の境遇を知っていると。


 安易に、気持ちはわかる。と言われても何も響かなかったであろう。だからこそ、向坂なりの最善な励ましをしてくれたのではないか、と。そしてそれが、昨日から陰鬱だった雅彦には的確に効いた。


「向坂さん」

 雅彦が向坂を呼ぶと、顔で向坂は返事をした。


「俺、今日はガッツリ飲もうかな」

 そう言って、雅彦は微笑を浮かべた。


 いつもはあまり飲まない雅彦が言うものだから向坂は驚いたのか、一瞬固まっていた。しかしクスクスと笑い、親指を立てる。


「いいねぇ。じゃ、足りねぇからコンビニへ戻るか」


 とにかく楽しもう!


 そう思って雅彦は飲んだ。


 いつになくハイテンションな雅彦に対し、蓮穂はキョトンとし、華耶は文句を言いながらもキャッキャと喜んでいた。



 想いも願いも葛藤も、今は全て忘れて発散する。



 この日、雅彦は生まれて初めて酔い潰れた。

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