第37話
犠牲になっているつもりはない。嫌でもないし、苦労ではないと言った。
本意だと伝わっているはずだ。
なのになぜそう言うのか?
体よく断るための建前なのだろう。でもそれが悪意でないこともわかっている。しかし、雅彦は我慢できなかった。
「犠牲になっているつもりはありません。善意でもボランティアでもない。僕は、望んでやっているだけです。二人の未来を考えての気持ちは理解できますし、理由はそれで充分ではないですか? 勝手に僕の感情を決めて理由として付け足すのは、少しズルいんじゃないかと思います」
突発的に発したわりに、雅彦は冷静だった。失礼がないよう丁寧に紡いだ。野村夫妻の方が条件が良いからと正直に言ってくださいよ。と何度も言いそうになったが堪えた。
一方、反論されるとは思わなかったのか、藤堂は口を少し開いたまま呆然しているようであった。
「言葉が過ぎました。悪意がないことも、気遣っていただいていることもわかっているつもりです。申し訳ありませんでした」
真顔のまま雅彦が謝罪をすると、
「……いえ。こちらこそ」
藤堂はぎこちなく返した。
気まずい感じになってしまったので、雅彦は早々と帰り支度を始めた。
支度が終わると玄関へ行き、靴を履くとついて来てくれている二人へ向き直る。雅彦は水野へと視線を移した。
「水野先生」
「はいっ?」
突然名指しされたからか、水野は少し声が上ずっていた。
「再来週の日曜日にやる食事会、自分の代わりに付き添ってやってくれませんか? 申し訳ないのですが、どうしてもその日出勤しなくてはならないことを、今思い出しました」
雅彦は嘘だとバレないよう、申し訳なさそうな演技をした。
「え? じゃあ、野村さんに連絡して日にちを変更してもらいましょう」
「いえ、その日で大丈夫です」
話を鵜呑みにして藤堂は焦るが、変更されては困るので雅彦は即座に返答した。
「……でも」
なおも藤堂は渋っていたが、雅彦は水野へ再び目を移し、
「すみませんが、水野先生いいですか?」
とお願いをした。
「私は……構いませんが」
雅彦に対し水野は何度か目を逸らしたが、最終的には渋々ながらも承諾した。
「助かります。追ってまた詳細は電話させていただきます。……では」
雅彦はそう言うと、頭を下げてから外へと出る。一刻も早く離れたい気持ちから、自然と早歩きになっていた。園から五十メートルほど歩くとスローダウンし、大きな溜め息を吐いた。
精神的にまいっている状態だったとはいえ、言いすぎた。我慢すれば良かったかな。と雅彦は自己嫌悪に陥っていた。
「小田切さん! 小田切さーん!」
雅彦が猛省している最中、後ろから声が聞こえ足を止め振り返る。雅彦の目に映った人、走ってきたのは水野だった。
「……やっぱり。おかしいですよ」
呼吸を整えながら、水野は言った。
「すみませんがバイトが入って……」
「バイトが二人より大事なんですか!」
水野は雅彦の言葉を制し、言い放った。雅彦は面を食らい、目を逸らした。
「園長に言い切った言葉は嘘じゃないはずです。あれだけの気持ちを持っていながら、バイトを優先するとかないでしょう!」
黙って聞く雅彦に、水野は捲し立てるように続ける。
「バイトを代わってもらって行くべきです! それが嫌なら、園長が言ったように日にちの変更をしてもらいましょうよ」
最後は雅彦に訴え掛けるような声色で、言葉が切れた。水野は走ってきた息切れではなく、声を上げ続けたために今度は息を切らした。
言葉の雨が止み、暫し無機質な車の走行音のみが支配をする。雅彦と水野は黙ってお互い見つめ合った。
「無理ですよ」
表情を変えずに雅彦は言った。
心ない言葉と捉えたのか、水野が目を吊り上げる。
「何が無理なんですか! 園長も言った通り、あなたには二人を見届ける資格がある! いいえ、見届けなきゃならないんです!」
水野は再び声を張り上げた。
水野に言われずとも、雅彦もわかっていた。
しかし、野村夫妻と日程を決めている時から、雅彦は水野か向坂にお願いするつもりだった。アルバイトだからとか、面倒だからとかではなかった。
行けるわけがないと思っていた。
「だから、無理ですよ」
必死に説得してくれている水野に対し、またしてもそう返す雅彦。水野は雅彦の返答にまたか、と言い返すつもりなのか息を溜めていた。だが、反して次に言葉を発したのは雅彦だった。
言いたくなかった。認めたくなかったから。二人のためだとわかっているから。
雅彦はそう思いながらも口を開く。
「野村さんと会って……食事をして……二人がいる前で……僕は何を話せばいいんですか? どういう顔をすればいいんでしょうか?」
奥歯を何度も噛み締め、言の葉を紡ぐ。紡ぐたびに、息が強く出る。雅彦の瞳にジワリと水が滲む。強烈な意思で止めようと再び歯を食いしばった。
水野は雅彦の態度に察し、吐息を漏らす。
「……上手く笑える自信がないんですよ」
これが嘘の答えだった。
言い終えると、雅彦は深々とお辞儀した。
なぜか泣きそうになっていた水野を一瞥し、歩みを再開する。もう、後ろから水野の声は聞こえなかった。諦めたというより理解してくれたと、雅彦は思った。
正直、ショックだった。
また一人になるのかと思ったら、頭が真っ白になった。
あったものがなくなる。
今度は偶然ではなく必然で、当たり前なのだ。
……わかっていたはずなのに。
雅彦は気付いたら昨日向坂と別れた場所、馴染みのコンビニの前に来ていた。中に入ると女性店員から、いらっしゃいませーという声。引きこもり時代のいつもの店員はいなかった。
雅彦は缶ビールとタバコを買って外に出ると、缶ビールの蓋を開け、一気にあおる。
「……まず」
雅彦は思わず声を出した。
酒自体がそこまで好きというわけではないが、向坂と晩酌を共にする際は美味しいと感じることもあった。
しかしながら、今回はひたすら不快な味だった。
雅彦は空き缶をゴミ箱に捨て、買ったタバコを取り出す。鞄に元々入っていたライターで火をつけ、吸う。瞬間、盛大にむせた。それに頭がグラグラする。ずっと吸っていたはずなのに、数ヶ月吸わなかっただけでこの有様なのか。と雅彦はイラ立ちを隠せず、タバコを直ぐに消して、残っていた物はゴミ箱に捨てた。
消耗し尽くした精神と、倦怠感を抱えたまま、雅彦はコンビニの壁に背をつける。
ゆっくりとしゃがみ込んで息を吐き、顔を伏せた。
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