第35話
夜と呼ぶには少し物足りない、うっすらと明るさが残る空。黄昏時は過ぎており、新宿西口のネオンサインが主張をし始める頃である。
雅彦はアルバイトを終え紅葉を出た。
蓮穂に連絡を入れようと、雅彦は鞄の中から携帯電話を取り出す。山岸との一件があってから、自分用と、緊急用として蓮穂にも携帯電話を持たせていた。
とはいっても、特に何か問題があることはなく。もっぱら帰宅連絡や、食事はどうするか、などの他愛のないものに使われていた。
雅彦は電話しようと携帯電話の液晶を操作する。だが、動きが止まった。
17時32分。不在着信1件。三葉児童園。
雅彦の心臓が一度バクンッと打った。
三葉児童園をメモリーに登録はしているものの、連絡が来たことは一度もない。
……二人に何かあったのでは。と頬を冷や汗が伝い、不安が雅彦を駆り立てる。すぐさま三葉児童園に電話をかけた。
「はい。三葉児童園です」
五コールほどで相手が出る。声色からして藤堂だと思われた。
「あの、園長先生ですか? 小田切です。先程お電話いただいたようなのですが……」
「あ、小田切さん。良かったぁ」
早口で話す雅彦とは対照的に、藤堂はおっとりとしていた。
「ふっ! ふ、ふ、二人に何かあったんですか?」
「やだ。違うわよ」
切迫した雅彦の話し方で察したのか、藤堂はクスクスと笑う。藤堂の声を聞き、雅彦は二人に何もなかったとわかり胸を撫で下ろした。
「でも……二人に関わることでお電話しました」
でも、と溜めた後、真剣な声色で藤堂は言った。雅彦は無意識に唾を飲み込む。
「実は今、蓮穂と華耶を引き取りたいと言うご夫婦がいらっしゃっています」
「……え?」
意図せず雅彦の声が漏れた。
「折角いらっしゃったので、詳しいことを小田切さんとも話したいと思ってお電話したのだけれど。もし、本日が難しいなら後日改めてと仰っているので、小田切さんの都合がつく日はあるかしら? ……小田切さん? あの? もしもし?」
雅彦が何も返事をしないので、藤堂が呼び掛けを続けていた。
「……あ! え? はい。すみません」
雅彦は上の空だったわけではなかった。魂が抜けたというか、身体と思考が完全に止まっていた。新宿の喧騒、藤堂の声。全てがプツリと遮断されたようであった。
「ごめんなさい。突然の話だから混乱したわよね」
藤堂は優しい口調で言い、少し間を置いてから次の言葉を発する。
「でもこれは二人にとって悪い話じゃない」
「はい」
意識せずに相槌を打つ雅彦。
「え? あ? 小田切さんちょっと待っててくれる?」
藤堂がそう言うと、保留音に変わった。
怒涛の展開から一呼吸置ける状況。雅彦は額に浮かんでいる汗を手で拭った。
まるで現実感がなかったが、これは夢ではないのだと雅彦は自分に言い聞かせた。
えっ……と。二人を引き取りたい。里親候補の夫婦。それが今三葉児童園に来ていて自分と話をしたいということ。飛んでいた意識からパッチワークし、雅彦は話を要約する。
つまり、二人が俺の家からいなくなる。
雅彦の意識がはっきりし、答えが導き出される。すると、再び額に汗が滲んだ。
「もしもし。待たせてしまってごめんなさい」
「いえ」
保留音が切れ、藤堂が戻った。保留中に大分飲み込めたので、雅彦も今度は真っ当な状態で返した。
「もしよろしければ、今からでも会いたいとご夫婦は仰っているけど、どうします?」
「あの、今からそちらに行くと七時半を過ぎますが?」
「はい。問題ないと仰っていました」
「……わかりました」
「ありがとう。待ってるわね」
藤堂に言われた後、雅彦は通話を終了した。
精神的に余裕がないからか。喉が渇く。変な汗が出て、全身にまとわりつく不快感が雅彦を襲う。雅彦は携帯電話を鞄にしまうと新宿駅へ向かった。
紅葉を出た時の晴れやかだった表情は完全に消え去り、歩き方にも力が感じられない。
雅彦のその姿は、まさに蜻蛉のようであった。
プォン! プー!
強烈な車のクラクションの音で雅彦は我に返った。
場所は向坂とも通った鶴川街道の大きな交差点。赤信号なのに、雅彦は横断歩道を渡ろうとしていたところであった。
雅彦は急いで歩道に戻り、大きく息を吐く。
完全に意識が朦朧としていた。
正直、雅彦は新宿駅に向かってからの記憶が曖昧だった。
当たり前だが飲酒などしているわけではない。藤堂からの電話の後、あえて何も考えないようにしていた。
何かを考えたら動けなかったからである。
頭を空っぽにさせて移動していた。故に、注意散漫となっていたのだ。
雅彦は顔を振って意識の回復に努めようと、深呼吸をする。頭に血が回り、思考能力が回復していった。
ここで雅彦は、紅葉を出た直後にするはずだった、蓮穂への帰宅連絡をしていないことを思い出した。鞄の中から携帯電話を出して、蓮穂へかける。
「はい、もしもし」
蓮穂は一コールで出た。
「遅くなってすまん。あのさ、残業することになって、かなり遅くなるかもしれん」
「そうですか」
蓮穂は寂しそうな声色で返答した。
「すまんが、華耶と先に夕飯を食べていてくれ」
「いえ、待っています」
「いや、本当に何時になるかわからんのよ。明日も学校だろ? 華耶は早めに寝かさないとだし、わかってくれ」
「……わかりました」
蓮穂が渋々了承したことを確認すると、雅彦は通話を終えた。携帯電話を鞄に入れて歩き始める。
雅彦は残業するからと嘘をついた。
三葉児童園に寄る、養子縁組をしたいという夫婦に会ってくる。なぜそう言わなかったのだろうか。悪い話ではないのだから、正直に言っても何も問題はなかったはずだ。
ではなぜ?
話が流れる可能性があるから、ぬか喜びさせることを懸念して?
もしかして、二人が喜ばないと思ったから?
……違うだろ。
雅彦は心の中で吐き捨てるように言った。
当たり前だが、嘘をついた理由くらいは自分ではっきりとわかっていた。
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