第33話

「香苗先生から電話が来て、妹がマンションから飛び降りて自殺したと言われた。先生が声を震わせていたのを今でも憶えてるよ。妹を引き取った家族に会いたいと言ったが、断られたと香苗先生は言っていた。悔しそうに、あちらもショックのようだから仕方ないのよね、と自分にも言い聞かせるようにさ。実の妹が死んだというのに直ぐに会えないのはきつかったな。会えないって言われたこと自体、その時はおかしいとは思わなかった。まだ俺もガキだったからな」

 渋い表情で語る向坂に、雅彦は黙って耳を傾けていた。


「妹が自殺して二日後、手紙が届いた。妹からだった。死ぬ直前に出してくれたんだろうと、読んだらわかったよ。今から自殺するけどごめん、てさ。理由は山岸がやったこととほとんど同じだった」

 向坂は苦虫を噛み潰した顔になり、歩みを止めた。それに合わせて雅彦も止まる。


「香苗先生に会って手紙を見せてさ。手紙の送り主の住所を辿り、二人で妹を引き取った家族のところに行った。手紙を見せて詰問したら驚いてたよ。そんなことはしていない、こちらも何で自殺したのかわからないって。その割には、やけに焦っていたけどな。その後、警察にも行って調べて欲しいとお願いした」

 向坂はそこまで喋るとタバコを一口吸った。


「警察は何て?」


「一週間後くらいだったかな、事件性がなかったって言ってきたよ。後々わかったことだが、警察には圧力が掛かっていた。妹を引き取った夫は政財界にも顔が利く財閥家系で、まぁ、そういうことだ」

 向坂は冷笑してから、夜空を見上げた。


「結局のところ、俺は何もできなかった。手紙がきた後もくる前も。妹は気付いて欲しかったんだと思う。手紙のやり取りを見返すとさ、この言葉は辛いって意味なのかなとか、助けて欲しいって言ってたのかな、って思ったわけよ。何度も三葉に戻っていたのも、単純に懐かしくて来てたわけじゃないんだって。結局、俺は何も気付けなかったし何もできなかった」

 そう言うと、向坂は大きく息を吸った。


 そして、

「……大バカだ!」

 と吐き捨てるように言い、吸っていたタバコを右手で握り潰した。


「向坂さん。もう、いいですから」

 雅彦がたまらず止めた。


 向坂は息を荒げていたが、呼吸が整うとまた喋り始める。


「殺そうと何度も考えたよ。でもそうなると、妹が食い物にされ、俺は犯罪者にされて終わる。何であいつの悪事は明るみにでないんだろう、ってな。そんなの、断じて許せねぇ。俺は妹を殺した家族をできる限り調べた。するとさ、妹が殺されて五年経ったある日、知らない幼女がその家にやってきて暮らし始めた」


「……まさか」

 雅彦が向坂の話に勘付き、言葉を発した。向坂はフッと声を出して笑うと、大きく首を縦に振る。


「その通り。妹と同じく、施設から来た養女だった。これはチャンスだと思った。俺は知り合いがやっていた興信所を頼って事に臨んだ。まぁ、何だかんだあったけど上手くいって、家族は離散し男は社会的に死んだも同然となった。方法は、今回やった山岸の件とそんなに変わらないと思ってもらっていい」


「無念を晴らしたわけですね」


「そうだな。これで妹が生き返れば言うことなしだったがな」

 向坂は寂しそうに言った。


 向坂は再び歩き始め、雅彦も合わせる。それから何も喋らず黙々と歩き続け、向かいにコンビニがある交差点の信号が赤になり、二人は足を止めた。


「お前、嬢ちゃん達の裸を見て勃起する?」

 向坂が唐突に言葉を発した。


「っぶ! なっ、何ですかいきなり!」

 言葉を詰まらせた後、雅彦は赤面して捲くし立てた。しかし向坂は何も答えず、ジッと雅彦の顔を見て答えを待っているようだった。


「男ですから絶対に勃起しない……とは言い切れないかもしれません。華耶は論外ですが、蓮穂は高校生って言われてもおかしくない外見なので、めちゃくちゃ気を使っています。って何ですか、俺が何かするとでも?」

 雅彦が睨んでそう言うと、向坂は苦笑した。


「いや、すまん。変なこと聞いたな。言いたいことは理性の話でさ。確かにお前の言う通り、華耶ちゃんは論外にしても蓮穂ちゃんは早熟だし、裸を見たらお前も少しは反応するかもしれない。だからと言って……」


「絶対にあり得ませんね」

 向坂が何を言いたいのか察し、雅彦は言い終わる前に被せた。


「そうだ。それが一般的な理性がある人間。だが、蓮穂ちゃんを襲う奴もいれば、華耶ちゃんを襲った奴もいる。同じ人間なのに、理性を意図的に破壊して獣となった人間がな。児童虐待だけじゃない、DV、ネグレクト、レイプ。女児、女性だけじゃない。男児がされてしまう場合だってある。そして食い物とされた者は身体と心に傷痕が残る」


「……でしょうね」


「嬢ちゃん達はこれから思春期を迎え、何をされていたのか嫌でも理解することになる。PTSDになる可能性は高い。その責任は、早く助けることができなかった俺にもある。傷付け、汚してしまった責任がな」


「その言い方、やめてくれませんか? あいつらは汚れてなどいない」

 雅彦は目に力を入れ向坂を見つめた。


 向坂は雅彦の強い態度に微笑むと、

「そうだな。すまなかった」

 と言った。


 信号が赤から青に変わり二人は歩き始め、コンビニの前で止まった。


「ま、これだけは言っておくが。もし、お前が嬢ちゃん達に乱暴をするようなことがあれば、お前でも容赦はしない」


「こちらの台詞です。俺がいない時に、あいつらに変なことしたら殺します」

 そう言い合う二人。ガンの飛ばし合いを何秒か続けた後、双方吹き出して笑った。


「とはいえ、お前はそんな奴じゃない。今、彼女達に必要なのは三葉児童園じゃなく、お前だってこともわかっているし、俺はそう信じている。……じゃあな」

 向坂は笑っていた状態から顔を引き締め直し、そう言い去った。


 なんですかそれ、どういう意味ですか?

 と雅彦は聞こうと口を開いた。


 が、やめた。



 聞いてしまったら……。



 笑い掛けてくる弟の姿。

 死んだような母親の顔。

 家の至るところが壊された中で、佇む雅彦。



 頭の中で過去の断片的な映像が流れ、冷や汗が雅彦の頬を伝う。


 特に今夜は、肌にこびり付くような湿気と暑さであった。間違っても、寒さで震えることのない気温。そんな中、雅彦は身体を震わせていた。

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