第32話


 夕飯を食べ終えて一休みした後、向坂と雅彦は一緒に家を出た。


 向坂は帰宅するためであったが、雅彦は華耶にアイスをおねだりされたからであった。


「相変わらず妹達に甘いお兄ちゃんなのでした」


「お兄ちゃん言うな」

 向坂のからかいに雅彦が軽口で返した。


「向坂さん。車は?」


 雅彦が聞く。いつもは歩いて二、三分の大通りに向坂は車を駐車しており、夕食を終えるとそこから乗って帰っていた。しかし、今回は調布駅へ向かって歩き始めていたのだ。


「あそこの路肩にとめてたらさ、駐禁切られたんだよ」

 向坂は声を落として答えた。


 雅彦のアパートに駐車場はないので気の毒であったが、自業自得である。近くのコインパーキングを使えばいいのに、ケチるから。と雅彦は思った。


「じゃあ、途中まで付き合います」

 向坂の横へ並ぶと雅彦が言った。


 向坂は雅彦を一度見てから、タバコを吸い始める。


「大分慣れてきたか」

 向坂の言葉と共に、夜という黒いキャンバスに白い煙が描かれ始めた。


「そうですね、でも思ったよりお金が掛かりますね。蓮穂は来年中学生だし、かなり切り詰めて貯金してますよ」


「うむ、殊勝な心掛けだ」


「だから向坂さんの食費が迷惑なんですよ」


「何か最近耳が遠くてね、歳かな?」

 向坂はとぼけた仕草で言い、暖簾に腕押しなので雅彦は諦めた。


「学費については山岸から搾った金もある。あまり無理しなくてもいいんじゃないか?」


「それはそれです。あいつらが本当にやりたいことが見つかった時や、いざという時に残しておかないと。使って暮らすなら三葉児童園でもいいわけですし、あいつらがウチを選んでくれた以上、できる限り自分でやりたいです」

 雅彦がそう言うと、向坂は立ち止まった。


 向坂は唖然としているようであったが、

「いいこと言う! お前の爪の垢を煎じて、山岸に飲ませてやりたいもんだな」

 と言って雅彦の背中をぽんっと叩くと笑った。


 向坂が先へ進む一方で、雅彦はまだ歩みを再開しなかった。



 山岸……山岸康晴。



 久しぶりに名前を聞き、雅彦は思い出す。


 三ヶ月前。向坂が山岸を糾弾した翌日。


 雅彦と向坂が事務所で待っていると、山岸は午後三時過ぎに来た。向坂が指示した賠償金も現金で持参し、一緒に市役所へ行って離縁手続きも終えた。


 全てのやり取りは三十分も掛からなかった。


 雅彦は何か起こるのではとドキドキしていたが、驚くほど呆気なく終わった。山岸の姿は憔悴しきり生気を感じさせないものであったが、雅彦は奴の業だと全く同情しなかった。


 ……それより、


「あいつ、時が経てばまた同じことをやるだろうな」

 と言った、向坂の言葉が雅彦は忘れられなかった。


 性だから、生まれもった性質だから、三大欲求の一つだから。だから、なんだというのだ。理性を崩壊させ、幼い娘を食い物にしていいわけじゃない。だが、現実に山岸のような人間の皮を被った獣がいることも事実であり、雅彦にとっては得体の知れない恐怖を感じた体験だった。


 雅彦は思考を止めて歩き始める。向坂は立ち止まっており、吸い終えたタバコを携帯灰皿に入れていた。


 雅彦が隣につくとまた並んで歩く。ふとその時、雅彦は山岸との対決を思い返していたことで、気になったことが頭をよぎった。


 いつか聞こうと思っていたので、雅彦は向坂へ問い掛ける。


「向坂さん。ずっと気になってたんですけど。前に事務所で言った二十年前のことって何ですか?」

 それは、藤堂が口にした内容のことだった。


「あー、あれね。よく憶えてたね」

 向坂は苦笑すると、またタバコを取り出した。タバコに火をつけ、フーッとゆっくり吐き出される煙。


「言いたくないならいいですけど」

 雅彦は躊躇した。というのも、向坂の表情が強張っていったからである。


「いや、思い出していた」

 向坂は自嘲的に笑った。


 それからまた、タバコを吸って吐くを繰り返していた。気持ちを落ち着かせようとしている。そう雅彦には見受けられた。


 向坂の吐かれた息が紫煙となって夜を塗り、闇へ同化していく。雅彦はその様を黙って見つめていたが、突如向坂の声が聞こえる。


「俺も三葉児童園出身でな」


「それは、何となく気付いてました」

 藤堂との会話や三葉児童園での所作を踏まえると、雅彦でも想像はついた。


「父親が小さい頃に病気で死んじまって、それから、母親が小三の頃に事故で死んで身寄りがなくなった。六歳下に妹がいてな、兄妹二人を養える親戚はいなくて、まぁそういうわけだ。施設を転々とした後、俺は全寮制の高校に行くまであそこの世話になった。香苗先生には俺が入った時からよく面倒を見てもらったよ。当時は園長じゃなかったけどな」

 昔の藤堂を思い出したのか、向坂はクスっと笑った。


「俺が中二の頃、妹を引き取りたいっていう夫婦が来て、妹は引き取られた。引き取られた後も妹とは手紙でやり取りをしていたんだが、俺が高校に入ってから送っても返って来なくなった。ちょっと心配になって三葉へ行ってみたんだが、妹はちょくちょく三葉には顔を出していたみたいで、元気そうだったって聞いてひとまず安心した」

 向坂はタバコを吸い終えると、直ぐに新しいタバコを取り出した。吸引されたタバコの火が照明のように灯される。


 タバコを一口吸った後、向坂は意を決したかのような面持ちになった。


「だけど、それから間もなく妹は自殺した」

 その言葉に雅彦は絶句した。

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