第27話


 それから一分、二分だろうか。誰も喋らず向坂がタバコをふかしているだけの時間が過ぎたが、山岸が苦しそうに口を開く。


「わかった。済まないが五千万円を一週間以内に用意することはできないので、明日までに二千万円を用意してきます」


「離縁手続きは?」


「も、勿論やる、いや、やります。必ず午後四時までには来ます」


「じゃあ、最終確認な。二千万円と、養子離縁届を提出できる状態でここに来ること。期限は明日の午後四時まで。一秒でも遅れたらデータを流す。いいな?」

 ドスのきいた声で再確認する向坂。山岸は首を何度も縦に振っていた。


「じゃ、やること沢山あるだろうから。もう帰っていいよ」

 向坂は気だるそうに言った。


 山岸はその言葉を待っていたとばかりに、そそくさと荷物をまとめ外へ向かう。そして、外に出ようとドアノブに手を掛けた時だった。


「山岸!」

 向坂の怒号が再び響き、山岸が肩を震わせ立ち止まった。


「俺を殺しに来ても構わんが、俺が死んだりいなくなったりしてもデータは明日午後四時に飛ぶ手筈にするから。勿論約束を反故した場合もな。そのことを忘れないでほしいな」

 向坂は平坦な口調で説明した後、タバコを灰皿で強く揉み消し、

「必ず、お前を社会的に殺す」

 刺すような視線を山岸へ向けた。


 背中越しのため山岸の表情はわからなかったが、微動だにしない姿からして、恐怖で支配されているようだと雅彦は思った。


 山岸は向坂に言われた言葉を受け数秒固まっていたが、それから何も言葉を発せず

に外へ出た。


 カチャン、と静かに閉められたドア。心なしかその仕草も悲壮感があった。


 山岸が部屋からいなくなり、張り詰めていた空気が弛緩する。


「ふぅ」

 雅彦は思わず大きく息を吐き、ソファへドカッと腰を下ろした。すると雅彦と同じく安堵したのか、地蔵のようになっていた藤堂がハンカチで口元を抑え嗚咽した。


「大丈夫ですか?」

 雅彦は目の前に座っている藤堂を気遣うが、藤堂は平気だと表すよう右手で合図した。


「すんません。先生にまで見せちゃって」

 そう言う向坂は雅彦の隣に座り、

「でも、見て欲しかったんです」

 と続けた。


 サディステックに山岸を追い込んでいた先程までの様子と違い、神妙な面持ちだった。


 藤堂は向坂に視線を合わせると、涙を拭き自らを奮い立たせるような息を吐いた。


「二十年前と一緒。また、やってはいけないことをしてしまった。思い返せば、そもそも養子縁組を断っていたら、慎司君にまず確認してもらえれば、とか。たられば、だけれどもね。やれる手は沢山あったはずなのに。でも、困窮が視野を狭めていた。言い訳するつもりもないし、二人が傷を負った責任は私にある。本当にごめんなさい」

 沈痛な面持ちで話し終えると、藤堂は頭を下げた。


「謝る相手は彼女達二人ですよ。俺じゃない」


「ええ。そうね。わかってる」


「でも、二人が大事に至る寸前で俺に知らせてくれたのは先生のお陰です」


「いいえ、助言してくれたのは水野先生。結局、癒えない傷を負わせてしまった。そのきっかけを作ったのは私。反省しかない。自分への情けなさと不甲斐なさに嫌気が差すわ」

 藤堂はまた目に涙を溜めてハンカチで口元を覆った。肩を震わせて泣く藤堂を見て何も言えなかったのか、向坂と雅彦は無言だった。


 気まずい空気が漂う中、向坂と雅彦はお互いの顔を見合わせる。


「お前も悪いな。気分悪くしたろ?」

 向坂が申し訳なさそうに言った。


 ずっとエグイものを見せられていた雅彦は若干憔悴していたが、向坂の言葉で山岸の所業を思い返すと、身体の底から怒りがよみがえってきた。


 拳を強く握り締め雅彦は向坂を見つめる。


「当たり前ですよ。向坂さんが止めなかったら、山岸を殺してましたよ。ていうか、あの映像をネット配信するって話、本気なんですか?」


「ああ、ハッタリなんかじゃねぇよ。ネットだけじゃなく、データにして奴の関係各所にも送るつもりだ」


「蓮穂と華耶が映ってます! 華耶のあの姿を見せる気ですか!」

 雅彦が咄嗟に立ち上がり大声で言い返すと、藤堂はビクッと肩を上げた。


 雅彦は藤堂に驚かせたことを謝罪し、鼻息荒くソファに座り直す。向坂は、そんな雅彦を横目で見ながらタバコを吸い始めた。


「アホ。嬢ちゃん達にはモザイクをかけるし音声も加工するっての」


「だからって! ……んっ。こんなやり方、ヤクザじゃないですか」

 雅彦はまた声を荒げそうになり、藤堂に配慮しようと一回咳払いをし、小声で返した。


「そうだな。ヤクザだな」

 一方、向坂はタバコの煙を吐きながら感情がない返事。雅彦は向坂の態度に眉をひそめ、追及しようと口を開きかけた。


 その瞬間、向坂が喋り始める。


「山岸が家を空ける時を見計らって催眠ガスを仕込み、カメラを設置した。ぶっちゃけ、その時に嬢ちゃん達を救うこともできた。けどな、それじゃダメなんだ。永遠に助けることはできない、誘拐と一緒だ。残念ながら、書類上山岸は二人の親なのだからな」

 向坂はタバコを消すと、ソファの背もたれに寄り掛かり天井を見つめた。


「俺にもっと権力や経済力でもあればな。でも実際そんなものはないわけでさ。二人のことを思ったら正しいやり方じゃないのもわかってるよ。だけど、この方法しかできなかった。己の無力さに辟易するわな」

 力なく話す向坂に雅彦は黙った。


 言われなくてもわかってはいた。


 向坂は最善を尽くしてくれた。


 そしてまだ終わりではないが結果を出した。


 雅彦が向坂のように結果を出せたかといえば無理だろう。それは雅彦自身もわかってはいることであった。だから、向坂に頼んだのだ。


 しかし、何と言えばいいのだろうか。結果のためならばと、多少の痛みは無視したことへのやりきれなさもあれば。向坂自身の安全を度外視したやり方に怖さも感じたというか。


 端的に言うと、雅彦は向坂のやり方に納得していなかった。

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