第19話
運良くマンション内に入れた雅彦は、806号室の前で足を止めるとインターホンを押した。
しかし、反応がない。
雅彦は続けて何度も押した。
「山岸さん、いらっしゃいますか?」
と言って雅彦がドアを叩くが応答なし。
雅彦は居留守だと思ってイラつき、
「おい山岸! いるんだろ! 蓮穂! 華耶!」
と大きな声を出して強くドアを叩いた。
すると、反応がなかったドアがゆっくりと開く。
チェーンがかけられたドアの先には、百五十半ばの背、オールバックの髪型、ふちなし眼鏡をかけた蛇のような男がいた。
山岸だと雅彦は直感した。
「しつこいな」
山岸は雅彦を睨むと、怒りを滲ませながら呟いた。
「話がある。中へ入れろ」
「入れるわけないだろ。消えろ」
山岸はゴミを見るような目つきを雅彦へ向け、言葉を吐き捨てた。
「蓮穂と華耶はどうした?」
「あれは俺のだ。散々手こずらせやがったからな、今お仕置き中だ。だから邪魔すんな」
お仕置き中。と聞いた途端、雅彦の頭に血が上る。
「ふざけんなよ!」
そう叫んでドアを雅彦は開こうとしたが、チェーンの音がガチっと鳴っただけでドアは開かなかった。顔面をピクピクさせながら山岸を睨むが、山岸も細い目で雅彦を睨み返して口を開く。
「ふざけんなだと? こちらの台詞だ。人の所有物を勝手に触りやがって」
「……はぁ?」
「いいか。もう一度言うがあれは俺の物で貴様には何も関係ない。これは事実だ。こう言ってもゴミクズにはわからんか?」
「ああ、わかんねぇな。ゴミクズだからな」
「いい加減帰ってくれないか、警察を呼んでもいいんだぞ? この状況で、どっちが悪いかは足りない頭でもわかるだろう? なっ!」
山岸は言葉尻を強めると、チェーンを外そうとしていた雅彦の右手をアイスピックで刺した。
「……てめぇ」
深く刺された右手の甲、滴る血を左手で抑えて雅彦は山岸を睨んだ。
「二度と、その面を見せるな」
山岸はそう言ってドアを閉めようとした。
刹那、雅彦は両手でドアを閉めさせまいと抵抗する。何秒か拮抗したやり取りだったが、山岸が舌打ちをした時だった。
「小田切さん!」
蓮穂の叫びが聞こえた。
「チッ。クソガキがぁ……」
一度振り返り山岸は苦々しく呟くと、再びアイスピックで雅彦を刺してドアを強引に閉めた。
「蓮穂! 蓮穂ぉ! 開けろ! 山岸ぃ!」
雅彦は閉められたドアを叩きながら叫ぶ。何度も、何度も叫び、叩いた。
しかしながら、もう二度とドアが開くことはなかった。
しかも隣人がドア越しから顔を覗かせ、血が滴り息を荒立てる雅彦を見て表情を歪める。雅彦は咄嗟にまずいと思い、806号室から離れマンションを出た。
雅彦はマンションを出ると右手の痛みに気付く。無論、刺された時から痛みはあったが、興奮状態だったので気にならなかったのだ。
良く見ると右手の甲の真ん中と、その周り何ヵ所が深く刺されており肉も見える、当然まだ血は止まっていなかった。
雅彦は口で血を吸いながら、近所のコンビニで消毒液と脱脂綿、大きめの絆創膏を買って手当てをした。
手当てを終え、コンビニの前で雅彦は頭を冷やす。
ドアの前で叫んでいると不審者だと思われてしまう。山岸の言う通り、警察を呼ばれて不利になるのは自分だ。開かないドアの前で叫んでいても、警察に捕まって結果的に蓮穂達を救えない。
そもそも、運良くロビーを通過できたが、今度も上手くいくとは限らないので正面からはダメだ。
では他に方法は?
窓からはどうだろう?
壁をよじ登って、窓を割って入る。いや、無理だろう、八階だぞ、無謀すぎる。壁からって、完全に犯罪者だし、命も落としかねない。命を落とすことは構わないが、それは二人を救えると確証できる状態でなければ……と。
一瞬我に返り、どこまで二人のためにやるのかと、自分の考えに苦笑する雅彦だったが、目は死んでいなかった。
けれども打開策がない。
勢い良く乗り込んだものの、負傷し隣人には不審者のように見られ、何をしに行ったのかわからない。二人は山岸の家にいるままだ。何もできなかった自分に歯痒さを感じる雅彦であった。
警察も役所も頼りにできない。こうなったら捕まることを覚悟で武器でも持って突入するか。そんな物騒なことを考えていた時、雅彦はハッとした。
……向坂だ。
向坂がいる。
向坂は間違いなく事情に通じているはずだ。
山岸の仲間かもしれないし、話せば自分が捕まるかもしれない。
だが、事情を話したら理解してもらえるのでは?
という期待が多少あった。
雅彦は向坂を油断ならない男と認識しているが、根っからの悪人とは思っていなかった。
雅彦は、藁にもすがる思いだった。
早速調布駅へ行き、駅にある時計で時刻を確認すると、午後十時半だった。
向坂は本日遅番である。
まだ間に合うと思い、駅のホームで電車を待つ。待っている間に血で滲んだ絆創膏を取り換え、何度も電車の時間を確認する。はやる気持ちを雅彦は何とか抑えていた。
新宿に着いたのは、それから約四十分後。
雅彦は痛む手を擦りながら、早歩きで紅葉へと向かう。午後十一時で閉店なので、雅彦が着いた時には勿論店内の明かりは消えていたが、まだクローズ作業があるので残っているかもしれない。
雅彦がそう思った時、ブルゾンとジーパンの服装、初めて紅葉で会った時と同じ格好で向坂が出てきた。
「向坂さん」
雅彦が向坂へ声を掛けた。
「あれ? お前何でまた来てんの? ていうか、顔色悪いしボロボロじゃね?」
ジーパンからタバコを取り出した向坂は、雅彦の姿に驚きながらも冗談っぽい口調だった。
しかし雅彦は真顔のまま、
「話が……あります」
と向坂へ言った。
向坂は雅彦がただならぬ状況だと感じたのか、吸おうとしていたタバコをジーパンの中へ戻した。そして一呼吸置くと、向坂も真面目な表情になり口を開く。
「本当のこと、喋る気になったのかな?」
「はい」
向坂の言葉に即答する雅彦。
向坂は雅彦の姿に頭をかいて、思案しているようだった。それから少し間が開き、向坂は親指であさっての方角をさした。
「俺、腹減っててさ。飯、奢ってくんない?」
そう言う向坂は、華耶に負けないくらい緩んだ笑みだった。
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