第17話
雅彦は一つ咳払いをして、蓮穂の言葉を止める。
「あー、わかった。話の腰を折ってすまんが、そろそろ山岸という男とどういう関係だったのか教えてくれないか?」
「あ、はい」
良い思い出に浸っていたのか、蓮穂は正気に戻るような仕草をした。
「去年の八月、華耶を引き取りたいという夫婦が施設に来ました」
「それが山岸だと?」
「そうです。華耶は私が一緒じゃなきゃ嫌だと言ったらしくて、それで私も引き取られることになりました」
蓮穂は苦しそうな顔をした。
「居心地が悪かったのか?」
雅彦はその様子を見て反射的に聞いた。
「最悪でした。なぜか奥さんとは離れて暮らすことになり、私と華耶とあの人の三人で暮らすことになったのですが、山岸さんは……」
正座をしていた蓮穂は、両手を力いっぱい握り締めていた。その姿に、雅彦は嫌な予感がして顔を強張らせる。
「山岸さんは、華耶に……華耶に……うっ」
蓮穂は嗚咽しながら言葉を発した。
「喋んなくていい!」
雅彦は咄嗟に言葉を続けようとした蓮穂を制した。
「何となくだけどわかったから、もうそのことは言わなくていい」
雅彦は身体を震わせる蓮穂の背中を擦った。
それから、蓮穂の嗚咽が止まるまで擦っていたが、震えが止まると雅彦は話を再開する。
「で、その山岸の家から出て、何で施設には戻らなかったんだ? 水野先生だっけ? 話せばわかってくれるだろう? 施設も嫌だったのか?」
「違います!」
雅彦の問い掛けに強く反対する蓮穂だったが、
「じゃあ、何だよ?」
と雅彦が理由を聞くと黙った。
少なからず時を一緒に過ごし、雅彦なりに蓮穂のことは理解しているつもりだった。
今蓮穂が黙っているのは、話したくないからだろう。施設が嫌ではないのは本心だが、帰れない理由があると雅彦は思った。
「何で警察には行かなかった? 児童相談所とか知らないのか?」
他にも逃げ道はあるはずだと雅彦が聞くが、
「行きました」
と蓮穂にポツリと返された。
「市役所に行って相談をしました。華耶のことも話して、私は蹴ったり殴られたりしていたので、痣を証拠として見せました」
「それで?」
「警察の方も来て、警察署にも行きました。これで助かると思ったのに、山岸さんがやってきて警察の方と話し終えると、また同じ場所へ帰ることになりました」
「……はぁ?」
少し溜めてから聞き返した雅彦の声と顔は、怒気に溢れていた。
「どういうことだ? 警察も役所も対応してくれなかったのか?」
険しい表情で聞く雅彦に、蓮穂はゆっくりと頷く。
「無駄だと。俺は選ばれた人間だから、警察に助けを求めても無駄だと。山岸さんに言われました。それから勝手なことをしたお仕置きとして、殴られることがエスカレートしたのと……」
蓮穂はそう言うと、上着を脱ぎ始めた。
「お、おい」
何をしているのだと雅彦が声を上げた。
蓮穂は雅彦の声にも動作を止めず、上着を脱ぐと、続いてインナーシャツ、最終的にスポーツブラだけになった。後ろを向いて雅彦の前に座り直す。
「お仕置きとして、火のついたタバコを……背中に押し付けられました」
蓮穂は声を震わせていた。
蓮穂の背中にある無数の痕跡が、雅彦の目に映った。
黒ずんだ円の中に白く残った火傷の跡、そのまま黒ずんだ円状だけのものもあった。
背中いっぱいにあり、十、いや、二十は超えている。鮮明にとはいえないが、目が闇に慣れていたので、ある程度くっきりと見えた。場所的にもこれは他者にやられた虐待以外の何物でもない、と雅彦は判断した。
「気に入らないことがあれば、何度も何度もやられました。それでも、華耶を助けたかったからずっと我慢していました」
絶句していた雅彦の前から、蓮穂の声。
雅彦は痛ましい姿から目を逸らし、
「わかったから服を着ろ」
と優しく言った。
蓮穂が服を着直している最中、雅彦は蓮穂の所作を思い出していた。
……二人を初めて家へ入れた日、タバコを吸おうとしたら蓮穂が震えたことである。あれは、虐待がフラッシュバックしていたのだと、雅彦は悟った。
自然と雅彦の眉間に力が入った。
着替え終わった蓮穂は、雅彦と対面して座り直した。
「警察に行った日。十月の終わり頃から、私と華耶は小学校に通わせてもらえなくなり、家に軟禁状態でした。十二月、小田切さんと会う一週間くらい前、急に山岸さんが実家に戻ることになったようで、家を空けることになりました。チャンスだと思い、荷物を簡単にまとめて出てきたわけです」
そう、蓮穂が家出の顛末を述べた。
「家から出たものの、施設には戻りたくない。警察も役所もだめ。だから公園で野宿か?」
雅彦が付け足すと、蓮穂は頷いた。
恐らく逃げたいという一心だけで、無計画だったのだろう。外へ出たからといって、少女に危険が及ばないとは限らない。しかし、そういう思考も満足にできなかったのであろう。
それほどまでに追い込まれていたのだ……この二人は。
蓮穂と華耶がおかれていた状況がわかり、嘆きの息が雅彦から無意識に出た。
「山岸の家は近いのか?」
「調布です。北口にあるスポーツクラブ、その前の道路を挟んだ褐色のマンションで806号室です」
「めちゃくちゃ近いじゃねぇか!」
雅彦は勢い余って唾を飛ばしていた。
駅から徒歩五分程度、今日行ったスーパーから北へ一本道路を挟んだ場所がスポーツクラブ、そしてその前が山岸の家ということだ。
「お前、何でもっと遠くに行かなかったんだよ?」
雅彦が呆れた顔で蓮穂へ聞いた。
「家を出た直後は遠くに行かなきゃと思って、サッカースタジアムの先まで行ったんです。でも、土地勘もないし、逆に怖くなってきちゃったんです。見つかった時にどっちへ逃げればいいんだろう……とか。電車に乗ることも考えましたが、手持ちのお金も少ないですし、食べ物を優先していたのでやめました」
と、蓮穂が経緯を説明した。
雅彦は蓮穂が喋り終えてから少し間を開け、
「そっか」
と静かな相槌。
それから、二人は口を結んでしばらくそのままだった。
「事情はわかった。お前や華耶がどうであれ、今まで通りこの生活を続けたいなら俺は協力するから」
雅彦が静寂を破り、そう告げた。蓮穂は俯いた状態から、小さく頷く。
「もう寝ろ」
雅彦が話を切り上げると、蓮穂は足を崩して立ち上がった。
そして、
「小田切さん。本当にすみません」
と言い申し訳なさそうにする蓮穂だった。
何でお前が謝るんだよ。
蓮穂の姿にそう思い、奥歯を噛み締める。寂しそうな表情をして部屋へ戻っていく蓮穂に、しこりが残る雅彦であった。
嫌な予感がしていて、その予感が当たってしまった現状。
踏み込みたくないと思いながらも、どうにかしてやりたいという気持ちが強くなっていく。
雅彦はそんな自分が嫌だった。
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