第14話


 雅彦は自分の名字が書かれているロッカーを開け、厨房用の服を取り出した。


 上は一般的な白地のコックユニフォーム、下は黒のスラックス、それから腰に巻く黒いエプロン、白の帽子。


 着替えるのが大変そうだな。と思いつつ、雅彦がダッフルコートを脱いだ、その瞬間であった。


 スタッフルームに誰かが入ってきた。


 雅彦は反射的にドアの方へ視線を向ける。


 いたのは男性だった。


 雅彦と視線が合った男は、

「ん?」

 と言って眉間にしわを寄せた。


 男は緑色のブルゾンとジーパンを着用していて、ボサボサの髪、彫りが深い顔つき、顔中の無精ひげ、二重の大きな目、長身で……。服装こそ違えど、雅彦は見たことが、いや、つい最近会ったことがある人間だと思った。


 というよりも、認識したと同時に血の気が引いていた。


「……あんた」

 雅彦は喋ろうとしたわけではないが、自然とそう呟いていた。


 男は雅彦の隣のロッカーまで近付くと、雅彦の顔をジッと見つめた。


 雅彦はその視線から目を背けて、男の目の前にあるロッカーを見る。向坂と書いてあった。


「また会ったね」

 男の笑みを含んだ台詞だった。


 雅彦は何か言わなくてはと思ったが、完全に思考と身体が止まっていた。何も言えずに固唾をのんでいた。


「一週間くらい前に調布で会ったろ? 小銭を拾ってもらったんだけどな」


 知ってるよ。

 と、雅彦は心の中で答えた。


 しかし、実際言葉にするにはどうすればいいのか。雅彦は停止した思考を無理やり動かそうする。男を見ると、雅彦の返答を待っているのか意味有り気な表情。雅彦は逃げられないと思い、意を決して口を開く。


「俺を知っているんですか?」


「うん」

 雅彦の問いに、男は間断なく答えた。


「まさか、警察の方とか?」


「俺が? ハハッ、冗談。サツなわけないだろ。副業でバイトできないじゃん」

 男は笑い飛ばしていた。


 警察ではない。そう聞いて雅彦は少し安心した。すると、頭が回転し始める。


「じゃあ、なぜあんなことを言ったんですか?」

 雅彦は厨房用の服に着替え始め、男へ聞いた。


 正攻法だが、抽象的な意味を持つ質問である。二人のことなのか、それとも雅彦自身のことなのか。返答次第で、ある程度は判断できると雅彦は思った。


「何て言ったっけ?」

 男は呆気らかんとして言った。


 落ち着き始めていた雅彦の心が、再びざわめく。


 どういう意味だ?


 俺を試しているのか?


 そう思い、相手の出方をうかがう雅彦だったが、男は気にしない素振りで着替えをしていた。


 その姿を見て雅彦も着替えを再開し、平静を装った。


「今日から入る新人さんって君?」


「はい」


「俺、向坂。向坂慎司。君は?」

 向坂慎司こうさかしんじ。男の名はロッカーに書かれている通り、向坂だった。


「小田切雅彦です」


「実は俺も調布に住んでてさ」


「はぁ、そうですか」

 調布に住んでいるとは言っていないのに何でわかったのだ?

 と雅彦は相槌を打ちつつ疑っていたが、向坂と会った時にスーパーのレジ袋を持っていることを思い出した。


 それで近場に住んでいる、調布だと向坂は断定したのだろう。雅彦はそう思い、消えない疑念を無理やり納得させようとした。


「いくつ?」


「二十二です」


「うわ、俺と一回り以上違うのか。若いなぁ」

 向坂は渋い表情を浮かべていた。


「学生さん?」


「いえ、フリーターです」


「ふぅん。一人暮らし?」

 初対面にしては少し馴れ馴れしい、と思うくらいのやり取りだろう。だが、向坂の質問にまたしても雅彦は動きを止める。向坂を見ると、目が合った。


 雅彦は一呼吸入れ、

「はい」

 目を逸らし小声で答えた。


「あ、そう」

 雅彦の返答に、向坂は声色を変えた。


 先程までの軽い口調ではない。雅彦は嘘を見抜かれているような気がし、異様な息苦しさを感じた。


「あ、そういえばさっきの質問。見ていてくれないと困るってやつだろ?」

 向坂が急に話を戻した。


 雅彦は顔を強張らせながらも頷く。すると向坂は苦笑しながら、

「何でだと思う?」

 と質問で返答してきた。


 雅彦の額に汗が滲む。


「質問していたのはこちらなんですけど?」


「君が本当のことを言ったら、話そうかな」

 向坂は薄く笑ってそう言い、厨房用の服に着替え終えるとスタッフルームを出た。それからドアが閉まる音がして、誰もいなくなった。


 どう考えても……バレている!


 雅彦は汗で滲んでいる額を拭い、そう確信した。


 得体の知れない奴、しかも内情を悟られている奴と一緒に働くのは危険過ぎる。


 どうする?


 今直ぐ逃げるか?


 いや、逃げてどうする?


 もうバレているんだぞ。しかも更に情報を与えてしまっている。


 自問自答で最悪と導かれた結果に、雅彦は顔を歪めた。


 だが、最悪な状況下となったからか、ふと思い出す。


 ……バカらしい。


 雅彦は自嘲するような笑みと共に冷静さを取り戻した。


 元々自分が無価値で無意味だと、どうなってもいいと、そんなことは二人に出会う前からわかっていたことだ。


 自身の処遇に怯える必要はない。もし二人が危険に陥ったのであれば、価値のない自分の命を差し出せばいいだけの話だ。


 それに、逃げれば面接地獄に逆戻りとなる。


 今回は奇跡的に受かったのだ、他で上手くいくとは思えない。そもそも金を稼げなければ、二人を保護し続けることはできないのだから。


 そう自分を言い包めて、雅彦はここで働くことを改めて決心した。

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