第12話


 華耶はピーラーと人参を受け取ると、

「おっけ」

 と言って緩い笑顔を見せた。


「カレーですか」

 蓮穂は食材を眺めながら呟いた。


「何せこれで三日は持つからな。飽きたとか、文句は言うなよ?」


「ふふ。カレーは大好きです。ね? 華耶?」


「うん!」

 華耶は大きな声で返事をした。


 その瞬間、雅彦の頭に高梨の嫌味がよぎった。


「そういや、隣の婆さんからうるせぇって言われてさ。ここ壁薄いから音響くんだよ」

 雅彦はそれとなく二人へ注意を促すと、

「そうでしたか。気を付けないと」

 蓮穂は反応したが、華耶は我関せずと人参の皮をむいていた。


「チビだろ、うるせぇのは」

 雅彦は華耶に近付いて頭を小突いた。


「なにすんの!」


「だから少しは慎ましくしろって言ってんだよ。家出中だろ、お前」


「ハゲ」


「んだとチビ。てめぇ、ハゲって言ったら飯抜きな」

 口を尖らせて言う華耶に、雅彦は大人気なくムカついた。


「まさひこだって、かやのことチビっていうじゃん!」

 声を荒げる華耶に、またババァに文句を言われるじゃねぇか、と雅彦はイラ立ったが、

「華耶、これからは小さな声で話そうね」

「うー、わかったよ」

 蓮穂が優しく窘めると、粛々と言う通りにする華耶であった。


「相変わらず、俺の言うことは聞かないのな」

 あっさりと態度を変える華耶に納得がいかず、ぼやく雅彦だった。


 華耶と一悶着あったものの、順調に調理は進んだ。


 蓮穂も無事に米を研ぎ終わり、華耶も多少実を削っていたが皮をむいてくれた。


 肉や野菜を切ったり炒めたりする作業は主に雅彦がやっていたが、蓮穂が離れずにいたので簡単なものは手伝わせた。


 午後五時を少し過ぎた頃。


 カレーの匂いが部屋に充満し、概ね完成したところである。


 雅彦は七時にアルバイトの面接があるため、蓮穂に弱火で三十分は煮込めと言った上で、部屋へと戻った。


「俺、今から出かけるから、夕飯は勝手に食ってろ」


「え? 何時に帰ってくるんですか?」


「あー。八時過ぎかな」

 蓮穂の問いに、雅彦は移動時間を踏まえて言い部屋へ戻った。


 雅彦は予備校へ通っていた時に使っていた紺色の肩掛け鞄に、履歴書や財布を入れて外出の準備を始める。その時、自分が家にいなくなるからか不安を感じた。


 そう、帰宅前に会った灰色のスーツの男を雅彦は思い出していたのである。


「お前。もう、あの小銭拾いやってないだろうな?」

 鍋の前にいる蓮穂に聞こえるよう、少し大きめの声で雅彦が聞いた。すると、蓮穂は部屋の前までやってきて、

「はい。それに、今日は外に出ていません」

 と大きく首を縦に振った。


 雅彦は少し安心したが、念には念を入れることにする。


「もう絶対にやるなよ」


「はい」


「あと。俺がいない間、誰が来ても開けるなよ」


「はい。勿論です」

 雅彦の言葉に、蓮穂は真剣な面持ちで頷いた。


 雅彦はダッフルコートを着用し、鞄を肩で背負うと、

「じゃあ行ってくる」

 と言い靴を履いた。


「はい、行ってらっしゃい」

 後ろから蓮穂の声。雅彦が振り返ると、微笑みながら雅彦を見つめていた。


 雅彦は少し照れくさくなりそのまま無視して出ようかと思ったが、蓮穂に向かって軽く頷いてから外へと出た。


 雅彦がアルバイトの面接へ行く場所は新宿だった。


 近場の調布近郊が一番望ましかったのだが、都心との時給に大きな開きがあるのだ。


 一人で慎ましく暮らすのではない、プラス二人分の食費と雑費である。交通費が全額支給されるのであれば、都心で働く方がお金が稼げると雅彦は判断した。


 雅彦は三年振りに乗った京王線に揺られ新宿へ着くと、まず頭がクラクラした。


 人が多過ぎるのだ。


 同じ東京なのに調布とは桁違いである。


 三年も引きこもっていた身体に、人、人、人の波、そして目を眩ますようなネオン。夜なのに、新宿駅の中は昼間と見間違うくらい明るかった。


 視覚情報を処理する頭が追い付かず、雅彦は新宿駅出入り口の隅へと移動した。少し休憩して、気分を落ち着かせると目的地に向かって歩き始めた。


 場所は西口近郊にあるダイニングバーだった。


 あいにく、携帯電話も時計もない雅彦には、時間を確認する物が何もなかったが、駅で時刻を確認した際には六時三十二分だった。先程の休憩を入れたとしても、余裕であろう。雅彦はそう思いながらゆっくりと歩いていた。


 インターネットで見た地図の情報を頼りに店を探す。地図をプリントアウトしてくればよかった、いや、そもそもプリンターがないじゃん、であれば携帯電話くらい持つべきだったな。と心の中で言い合う雅彦。店が見つからない不安からであった。


 とりあえず目印としていた新宿アイランドタワーに到着し、雅彦はもう一つの目印であるファーストフード店を見つけた。そこの隣にあるのが面接に行く店だ。


 青色で発光している店の看板を前に、雅彦は胸を撫で下ろした。


 中には人が結構いた。


 広々とした店内は木製のタイルで統一されており、高い天井にはプロペラ、いわゆるシーリングファンが何個もついていた。


 雅彦は近くにいたエプロンを着用している女性を店員だと思い、話し掛けて面接に来たことを伝えた。すると、女性は少し待つようにと雅彦へ言った上で姿を消した。


 待つこと五分。


 小太りでスーツを着た店長らしき年配の男性が雅彦の元へやってきた。


 雅彦は男性にバックヤードまで連れて行かれ、パイプ椅子に座らされると、早速面接が始まった。


 面接時間は体感で三分。早過ぎる終了だった。


 雅彦はダイニングバーを出ると、全身から噴き出た汗を感じながら夜空を見上げた。


 ……自分の無力さを痛感していた。


 履歴書を出して、名前と年齢、経歴の説明までは良かった。


 空白のこの三年間、一体何をしていたのか?


 なぜこの場所で働きたいのか?


 若いけどやりたいことはあるのか?


 等々。


 質問に全く答えられなかった。


 ニートでした、時給もいいし、賄いが出るので食費が浮くと思って、と答えても正解のはずがない。


 雅彦は、何も考えていなかったのだ。


 正社員ではない、バイトだから誰でも受かるだろう。


 そう楽観していた。


「もう、帰っていいよ」

 店長らしき男性からぶっきらぼうに言われ、雅彦はすごすごと退散した。


 そして、己の愚かさに後悔している。


 新宿に着いただけでめまい、面接では何も答えられない、自堕落な生活を送っていた三年間は、確実に雅彦自身を蝕んでいた。

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