第03話

 病院は嫌だ、警察も嫌だと言う。


 だが、この雨と寒さの中、病人を放っておくのは危険過ぎる。


 いや、でも関わらない。けれども、危険過ぎる。関わりたくない。死んでしまうかもしれない。


 そう、葛藤に渦巻く雅彦だったが、幼女が出す白い息に焦点が定まると、荒れた息遣いに目を奪われてしまった。


「俺の家そこだから、とりあえず入れ」

 雅彦は観念し、親指で自分のアパートを指さした。


「え?」

 雅彦の言葉を聞いても、少女は何が何だかわからないといった表情をした。


「え? じゃない。とにかく来い。目の前で死なれたくねぇよ」

 雅彦は傘を少女の目の前に置くと、幼女を担いで自宅へと走った。


「ちょ、ちょっと待ってください」

 少女は焦った様子で言い、目の前に置かれた傘を片手について来た。


 雅彦は右手で自宅の鍵を開け、

「ちょっと、ドア開けてろ」

 と少女へ言った。


 雅彦はドアノブに右手を使い、左腕で幼女を担いでいる状態であった。このままだと狭い玄関にぶつかりそうなため、両腕で支える必要があった。


「はっ、は、はい」

 どもって返事をし、少女はドアを抑えた。


 雅彦は右手が空くと、まずは邪魔なコンビニのレジ袋を玄関の隅に置き、両腕で幼女を持ち直した。


 家の中へ入り、滅多につけない部屋の明かりをつけた。


 幼女を布団へと寝かせ、部屋の押し入れを開ける。押し入れの中からタオルを取り、幼女の髪と顔を拭く。一通り拭き終え、掛け布団をしたところで、雅彦は玄関に目をやった。


「いつまでドアを開けてるんだ、さっさと入ってこい!」

 まだドアを開けたまま佇む少女に、雅彦が語気を強めて放った。


「え? でも」


「寒いんだよ。早くしろ!」

 か細い声が玄関先から聞こえると、雅彦は少しイラつきながら言った。


「お邪魔します……あの?」


「とりあえず、適当に座れ」

 雅彦は面倒くさそうに返し、台所でオロオロしていた少女はそのまま正座した。


「こいつ、熱高いな」

 雅彦は幼女へ向き直り、おでこに手を当て独り言のように言った。


 体温計があれば少しは状況がわかるのだが、あいにく雅彦の家には救急箱はなく、風邪薬は勿論のこと絆創膏すらなかった。


「お前。体温計とか、風邪薬とか持ってるか?」

 雅彦が聞くと、少女は小さく首を振った。


「ちっ」

 大袈裟に舌打ちをする雅彦。勝手に思考が始まった。


 どうする?


 買いに行くか?


 冗談だろう?


 何でそこまでする必要があるんだ。


 と、己の中で是と非がせめぎ合う中、雅彦はパソコンにて時刻を確認した。


 七時四十分。


 駅前のドラッグストアは午後十時まで開いているから、まだ間に合う時間ではあった。


 雅彦は、もう一度幼女の顔を見る。部屋の明かりで先程より鮮明に見えるからか、暗がりで確認した時より顔色が酷くなっているように見受けられた。


 口はやはり開いたままで、苦しそうに呼吸を繰り返している。雅彦は拳を握り締めると、意を決した。


「直ぐ戻るから、待ってろ」

 雅彦は台所を通り過ぎながら、少女へ言った。


「え? どこに行くんですか?」 

 雅彦は背中から聞こえる疑問の言葉を無視して、傘を手に取り玄関を出た。


 自宅の鍵を掛けてから、駅前へと向かう。未だ止みそうにない強い雨と風、肌を切り裂きそうな寒さが雅彦を襲う。


 何をやっているんだ?


 俺は一体、何をやっているんだ?


 自問が頭の中で繰り返されながら、雅彦の歩く速度は自然と速くなっていった。


 生活に必要な雑貨もほとんどコンビニで済ませていたので、駅前へ行くのは約半年振りである。しかも半年振りの用事が、見ず知らずの幼女のためだというのだから、雅彦も己を失笑したくなった。


 調布駅北口。


 バスロータリーの周りには、パルコ以外にも牛丼屋、ケーキ屋、カフェ、居酒屋、ドラッグストアなどが軒並みを連ねている。


 強い雨と寒さの中でも、駅前にはやはり人が多かった。


 雅彦は呼吸を整えながらドラッグストアの中へ入ると、カゴを手に取り店内を見渡した。


 風邪薬、体温計、飲み物、食べ物はゼリーとかでいいか。と、頭の中で買う物を整理する雅彦は、風邪薬が置いてある場所へと向かった。


 風邪薬が陳列されている場所で立ち止まると、錠剤タイプの薬を手に取ったが、自分が幼い頃に錠剤を飲めなかったことを思い出し、棚に戻してシロップタイプの薬をカゴの中へ入れた。


 そして、体温計、スポーツ飲料水を五つ、ゼリータイプの携帯食は味が三種類あったので、種類別に三つずつ、計九個をカゴの中に入れてレジへと向かった。


「いらっしゃいませ」

 レジには年配の男性店員が立っていた。


 店員は雅彦が持っていたカゴを手に取ると、品物を機械に通す。雅彦はダッフルコートから財布を取り出したが、ふと横を向いた瞬間、レジ前の棚に陳列されている品

物に目がいった。


 おでこに貼るタイプの冷却シートだった。


「すいません、これもお願いします」

 と言って、雅彦は考える前に追加した。


「四千百十円です」

 品物全てをバーコードスキャンした店員がそう言うと、雅彦は財布を開いた。雅彦の食事で換算するところ、約六回分の散財である。


 会計を終え、男性店員から品物が入った袋を受け取ると、雅彦は即座に店を出た。

 傘を差して自宅へと歩き始めたが、やはり歩く速度は速くなり、途中からは本気で走っていた。


 一日の運動は自宅とコンビニの徒歩二十分であり、走ること自体が久しかったため、雅彦は帰路の途中で何度かよろめきそうになったが、無事に帰宅できた。とはいえ、息が上がりすぎて膝に手を当て呼吸を整える時間が必要だった。


 雅彦は、呼吸を落ち着かせてから鍵を開けて自宅へ入る。台所に正座をしていたはずの少女は部屋の中におり、幼女が寝ている布団の横で体育座りをしていた。


「どうだ? 具合は?」

 雅彦は声を掛けて部屋に入ると、買ってきた品物をテーブルの上へ置いた。


「全然変わりません」

 少女は硬い表情のまま答えた。雅彦は何も返事をせず、レジ袋の中をまさぐる。


「あの、何をして……」


「これ、こいつの脇に差せ」

 雅彦は買ってきた体温計を少女に渡し、言葉を遮った。


 それから、雅彦は幼女の上半身をゆっくりと起こすと、口元へシロップタイプの薬をそっと流し込んだ。


 喉が動いたことを確認し、雅彦は静かに幼女を布団へ戻す。更に、冷却シートをテーブルから取って、幼女のおでこに貼った。一連の作業が終わると、体温計から検温終了の音が鳴った。幼女の脇に差していた体温計を少女が取り出す。


「いくつだ?」

 雅彦が聞くと、

「38.2℃。です」

 小さな声で少女は答えた。


 ……やばい、38℃を超えている。


 これ以上熱が上がったら、さすがに病院へ連れて行かないとまずい。

 と、深刻な状態である幼女を目の当たりにし、雅彦は額に手を当て考え直していた。

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