第7話 空が雲ひとつなく晴れ渡った朝

 やあ、君か。この前は重要資料をうっかり忘れてしまって、慌てて取りに戻ったんだよ。盗まれてなくて本当に良かった。


 ……どうしたんだい?何やら見てはいけないものを見てしまったかのような表情をしているね。隠していたって私には分かるよ。この空洞になった左側を通して君の動揺とか焦燥とかがね。


 言わなくても分かる。あの水色の眼の子と桃色の眼の子の事だよね。大丈夫だ。いつも私の話をちゃんと聞いてくれる君になら安心してお話する事が出来るよ。


 今日は、水色の眼の男の子の産まれた日の事を話してあげよう。


   * * * * * * *


 2011年9月4日。


 この日は翡翠の実家での緊急会議となった。その場に居合わせているのは翡翠と、翔多と、私と、郁恵である。


「私……翔多との間に……赤ちゃんが出来ちゃったんです……」

「夜逃げして、匿ってもらっている身だから表立って結婚式を挙げる訳にもいかねえ」


 改めて当時の状況を語り、妊娠したという事実を話す翡翠と翔多。


「翡翠、もしそうするのなら、私達に一言でも言ってくれれば良かったのに……」


 動揺する翡翠の母郁恵。私は一言一言にうなずきながら聞いていた。


「お互いの愛情の過ぎた結果って訳か。それで翡翠よ、教師の仕事はどうするつもりなんだ」


 求の問いに、翡翠は答えた。


「本当なら、まだまだ教師の仕事は続けたいです。でも子供が産まれたらそれ所ではありません」


 翡翠の本音は、教師を続けたい。脳裏には、残酷な決断すらよぎっていた。


「……翡翠よ、君の友達として意見するよ」


 私は翡翠に向かって、こう言った。


「その子供、どうか産んでくれないか」


「え……」


 その発言に、翡翠は固まっていた。私はさらにこうも言った。


「眼光症の研究こそが今の私の生きる理由。産まれて来た子供にも眼光症があるのなら、これは大きな研究の進歩となる。君の夢は一旦絶たれてしまうが、その責任は私が全力をもって取る事にする。」


 私は翔多に言った。


「翔多、君はこれから産まれる子供のためにも精一杯働いてくれ」

「……あ、ああ!分かった!今まで以上に死ぬ気で働いてやる!!!」


 次に郁恵に言った。


「お母さん、あなたの娘の子供が産まれます。どうか、お産婆として自らの手で孫をお迎えしてくれますか」

「え、ええ……」

「自宅出産の仕方に詳しい人が知り合いにいてね。その人の話を聞く事で子供の生存率も上がると思うよ」

「で、ですね。思えば翡翠が産まれた日、その瞳が緑色に光ってて取り上げた医師も驚いていたのを今も鮮明に覚えています」


 私は、翔多と郁恵にこれからするべき事を示した。その姿に翡翠は心を動かされていた。


「わ、分かりました。教師の仕事は色々落ち着いたらまた始める事にして……今はこの子のためにも、私の出来る事をするまでです」


 その言葉に、私も応えたのだった。


「これで、全ては決まったようだな。翡翠と翔多の子、私達で育てよう!!!」


 体育会系の声の張りをもって、私は力強く発言した。きっと、翡翠の中の小さな命にも聞こえている事だろう。


「え……ええっ!!!」

「ああ!やってやろうじゃないか!!!」

「まさか孫の誕生をこの手で支えるとは。生きていると色々な事がありますね」


 翡翠と、翔多と、郁恵も、これからに向けて意気込むのであった。


   * * * * * * *


 その日の夜。私は布団で一人考えていた。


「翡翠よ、こんな私を赦してくれ。本当は私だって教師の仕事を続けて欲しかった。でもこんな事態になってしまって。夢を絶たれ、新たな夢を掴んだ私が……今度は翡翠の夢を断ち切る事なるなんて……」


 私は泣いていた。本当の意味で一番残酷だったのは私自身だったと思うように。


 12月22日。学校の終業式で、翡翠は退任を宣言した。


「この学校で過ごした日々はとても楽しかったです。小学校時代を過ごし、教師となってみんなと過ごした日々は、これからも忘れる事はありません」


 表向きには、体調不良という事にして、翡翠は教師の仕事を辞める事にした。その日の帰り際に。


「せんせぇ……待って……!」


 その声を挙げたのは翡翠と一番仲の良かった生徒、聖流である。


「聖琉君……卒業式、一緒に迎えられなくて本当にごめんなさい」

「い、いいんだ……よ。せんせぇだって……いろいろ……大変なんで…しょ」

「でも、どうしても寂しいと思ったなら、ここにお手紙とか書いてくれると嬉しいな」


 翡翠は聖琉に住所の書かれたメモを渡した。


「あ、ありがとう……これ、みんなに教えてもいい…かな」

「もちろんよ。いつでも遊びに来てもいいからね。それじゃあまた」

「また……ね……せんせぇ!!!」


 翡翠は聖琉の笑顔に一安心してこの学校を去ったのであった。それから、住んでいた一室も返却して、翡翠と翔多は郁恵の実家で暮らす事になった。


 翡翠の実家の居間で語り合う翡翠と翔多。


「私の中には、一体どんな子が眠っているのかな」

「きっと、俺に似たイケメンに違いない」

「もう、翔多ったら」


 日に日に膨らむ、新たなる命。翡翠と翔多はじーっと、見つめていた。こうして、その日は近付いて来るのだった。


   * * * * * * *


 2012年6月2日。美山翡翠、26歳の春。


 空が雲ひとつなく晴れ渡った朝。


 その時はやって来た。


「ああ……いよいよ……この時が……来たわ……!」

「破水したのね。正確には水じゃないけど。翡翠、準備はいいかしら?」

「はい……おかあさん……」


 翡翠は、その日の早朝に破水した。実家の一室で、翡翠の出産が始まった。母の郁恵が産婆となり、孫をこの手で迎えようとする。


「翡翠、チカラを込めなさい!」

「ハイッ!ハアアアアアアアアアッ!!!」


 陣痛の痛みに叫び出す翡翠。身体の中で、温かいものが動いているのを直に感じていた。お腹の中の子供が外に出たい!生きて呼吸がしたい!ともがいているかのように。


「頭が見えたよ!胸に手を当てて小刻みに吐いて!」

「ハッハッハッハッハッハッ……」


 やがて、温かい感触が身体の外にはみ出した。


「ここから一気に力んで!赤ちゃん出てくるよ!!!」

「イヤアアアアアアアアアア!!!!!!」


 これ以上無いほどの大絶叫をあげる翡翠。


 身体の中から、温かいものが出て来た。


 ……赤ちゃんである。


オギャア……オギャアアアッ!!!


 産声を上げる赤ちゃん。男の子だ。そしてその瞳は……。


「水色の……瞳……」


 翡翠は、自ら産んだ子供の瞳と窓から見える青い空とを照らし合わせた。


「まるで……今のこの空の色をそのまま映したみたいな瞳の色……」


 出産を終えた翡翠に向かって母の郁恵はこう言った。


「子供の顔が出て来た時、その瞳は綺麗な色をしていたわ。あなたを産んだ日も、こんな感じだった」

「ありがとう……おかあさん……」


 翡翠は母親の表情となり、その胸には水色の空の色を宿す男の子が、初めての呼吸に慣れようとしていた。


「そういえばこの子、名前どうするの」


 郁恵は翡翠に子供の名前の事を聞いた。


「今、思いつきました。この空の色を瞳に宿して産まれて来たこの子の名前は……」



蒼穹そうきゅう



「この名前が、私が込めた祈りです。今こうして広がる青い空のように、心の広い人間として育って欲しいという願いを込めて」

「蒼穹……良い名前を付けたのね。私も翡翠という名前はあなたの美しい瞳から付けてあげたのよ。これはきっと神様からの贈り物だと思ってね」

「それじゃあ……この子の瞳も……」

「彼もまた、神様からの贈り物と共にこの世界にやって来た子供だからです」

「おかあさん……ふふっ……」


 そこに、翔多が入って来た。


「出産は無事に終わったか。それで、子供は?」

「ここにいるよ。ほら」


 翡翠は産まれた子供、蒼穹を翔多に見せてあげた。


「水色の瞳……まるであの空の色をそのまま映したみたいだな……」

「でしょ。だから、この子の名前は蒼穹」

「そうきゅう……何か照れるな……。とにかく、よろしくな、蒼穹」


 翔多は初めて見る息子に挨拶した。これからは父親として、翡翠と一緒に蒼穹を立派に育ててみせると意気込んで。


 産まれて来た蒼穹は、窓から見える青い空を、日が暮れるまで見つめ続けていた。


   * * * * * * *


 そして、この水色の瞳の少年こそが、現在の美山みやま蒼穹そうきゅうその人である。戸籍上結婚をしていないため、母方の苗字で出生登録をしている。私も程なくして彼と出会った。まるで、初めて翡翠と出会ったあの日を思い出すような美しい水色の瞳だった。


 私は彼を先日少しお話したペリドット君と同じように色々調べてみると、実にすごい。ワクチンの類を投与せずとも基礎的な免疫は完成されており、将来蔓延るであろう悪性病原菌にさえ打ち克つほどのものだった。私は翡翠と一緒に走った事もあり、体力もあの時の私以上にあったからだろう。あとちょっと失礼な言い方になるが、翔多が超が付くほどの体力バカなのも効いたのだろう。


 ……ともかく、翡翠が産んだ可愛い息子の蒼穹のこれからを、どうか君も一緒に見守ってくれないだろうか。後悔はさせないつもりだ。


 今度は、その子、蒼穹がどんな育てられ方をしているかをお話してあげよう。それと、もう1枚の写真に写っていた、桃色の瞳の褐色肌の子の事も追ってお話するとしよう。


 眼光症研究者、白部求から君への願いだ。次の世代にも、このお話をどうか

語ってやってはくれないか。ではまた次回。


 第8話へ続く。

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