#05 ~ 勧誘

(わけがわからないっ)


 トイレから全力疾走で逃げ出し、五年の教室にまで辿り着いた恭一は、その意味不明さに机に突っ伏した。


(急になんなんだ、っていうか弟子って何?)


 まったくもって意味不明すぎる。しかもトイレの個室に勝手に入ってくるとは。あれが変質者ってやつなんだろうかと、恭一はため息を吐いた。


「おい、城木~」


 不意に肩を叩かれ、恭一はぴくりと身体を跳ねさせた。

 この声。

 またか、と……顔を引きつらせながら、恭一は振り向く。


 そこに居たのは、一人の少年。小学五年生にしては身長が高く、肩幅も広い。

 中学生と言われても何の疑問もない体格をした少年の名は、加藤慎吾。


「お前さ、このマンガ持ってる?」


 そう言って彼が見せてきたのは、スマホの画面。そこに表示されていたのは、今流行りのアニメ化もされたマンガである。もちろん城木は全巻持っている。


 戸惑いながら頷いた恭一に、加藤は顔を喜色に染めた。


「おーマジかよ! じゃ貸してくれよ!」


「貸してって……前貸したマンガも、まだ戻ってきてないけど……」


「あ? なに、嫌なわけ?」


 肩を組んで顔を覗き込む加藤に、恭一は喉をひくつかせた。

 最初から返すつもりなんてないのだ。彼は「よこせ」と言っている。そして断ったら、きっとまた殴るのだと。


 それは明確に脅迫というものだ。

 そして誰も止めようとはしない。

 ――これが、城木恭一にとっての現実。


 諦観と共に恭一が頷こうとした、その寸前。


「おい、なんで逃げる?」


 背後から聞こえた声に、彼らはぎょっと振り向いた。


 そこに立っていたのは、彼らより一回り小さい少年。

 ……さっきトイレで会った奴だと、恭一は目を見開く。


「分からん。一体どこに逃げる要素があった? まさか弟子になるのが嫌だと?」


 両腕を組み、首を傾げる少年に、恭一は顔をひくつかせた。

 分からないのはこっちだと。


「……おいお前、誰だよ? つーかいくつだ」


「うん? 歳か。お前らより一つ下だが」


「四年かよ! なんでウチの教室にいるんだよ、オイ」


「そこの――城木恭一とやらに用がある。お前に用はないぞ」


 「こいつ」と加藤は眉を逆立てる。

 まずい、と恭一は焦った。彼はひどく短気なのだ。カッとなったらすぐに手が出てしまう。

 予想通り、加藤は少年に手を伸ばす。


 だが……その手は、なぜか空を切った。


「言っておくがこんなチャンスは滅多にないぞ。お前は俺の弟子第一号だ。これは……何だ、色々スゴイんだ」


 スッと手が空を切り、つんのめる加藤を無視して、少年は再び言葉を紡ぐ。ポケットに手を入れて、微動だにすらせず。


「とにかく、受けたほうがいい。お前の状況は知っている、城木恭一。俺の弟子になれば、そんなことは全部解決するんだ」


 加藤が再び手を伸ばす。だがまた空を切る。

 少年は振り向きすらもしない。完全な無視。

 その態度に、彼はついに顔を赤く染め、「てめぇ!」と腕を振りかぶった。


 ついにか、と恭一は思わず両目をつぶる。

 ……だが。

 殴られる音も、声もなく。無音の中で、どういうことだと恭一は再び目を開き、そして瞠目した。


 振り下ろされた拳が止まっていた。

 小柄なはずの少年が伸ばした指先で。


「――うるさいぞ」


 ぴん、とデコピンをひとつ。

 軽い調子で、まるで悪戯のように行われたそれが加藤を吹き飛ばす。教室の最後尾にあるオープンロッカーに背中を打ち、呆然と尻餅をついた。


「まったく、随分騒がしいな。説得はまたにするか」


「え……?」


「――ああ、忘れていた。俺は千堂祐真だ。またな、城木恭一」


 そう言って教室を出て行く少年を、恭一は呆然と見送った。


 ◆ ◇ ◆


「なんなんだ、あいつ……」


 恭一はため息を吐きながら、中庭にある花壇の前に座り込んだ。

 あの後は大変だった。加藤の奴は大荒れするし……そのとばっちりがこっちに来る前に逃げ出せて正解だった。


 だが、と思う。


 ――あれはいったい何だったんだと。

 小柄な少年が、大柄な加藤を吹き飛ばした光景が、今も目に焼き付いている。


 ひょっとしたら、とんでもない武術の達人とか?

 弟子っていうのはそのことなんだろうか。

 だとして、何で僕を?


(……いや、でも、あんなのに関わるのはゴメンだ)


 ため息を吐いて、恭一はジョウロを手に取った。


 この小学校では中庭に六つの花壇があり、それぞれを各学年の『お花係』が世話している。恭一はその一人だ。

 クラスメイトから半ば押し付けられた役割だった。持ち回りで世話するはずの他のクラスメイトたちも、その仕事を恭一に押し付け、この花壇を世話しているのは実質的に彼一人である。


 だが、恭一はそれが嫌ではなかった。

 何かを任されることは存外に嬉しく、花の世話というのも、彼の性質に合っていたから。

 与えれば応えてくれる。普段まともに話す相手がいない恭一にとって、それはひとつの救いだった。


「――あれ。貴方もお花係?」


 それを考えていた祐真の前に、一人の少女が姿を現した。

 振り返った恭一は、思わず目を見開く。そこに立っていたのは、とんでもない美少女だったからだ。

 ぱっちりとした目に、栗色の髪。まるでフランス人形のような少女の美貌に驚きながら、恭一はこくりと頷いた。


「そっか。私もなんだ。もう一人来るはずなんだけど」


「そ、そうなんですか」


 恭一の言葉に、彼女は首を傾げ、そしてくすりと笑った。


「その言葉遣い、いらないと思う。私、四年生だし」


 えっ、と思わず恭一は声を上げる。

 何しろ彼女の身長は、恭一とほぼ同じか少し高い。てっきり年上だと思っていた。

 だが冷静になってみれば、彼女の体操服の裾の柄は、四年生を示す赤色だ。


「綾辻琴羽って言うの。よろしくお願いします、先輩」


 にこりと笑った少女に、恭一は「えっ」と目を剥いた。


 綾辻琴羽。この学校でその名を知らない人間はほとんどいない。

 四門山事件――山一つを焼き尽くすような山火事の中で、父親が娘を助け出したという奇跡のような救出劇。

 小学生である琴羽の名が報道されることはなかったが、地元で知らない人間なんていないだろう。


 この小学校の中で、彼女は芸能人並に有名人なのだ。


「先輩?」


「あっ、えっと……城木恭一、です」


 慌てつつ名乗った恭一に、琴羽は小さく噴き出した。


「そのケイゴ、いらないって」


「はは――うん」


 なぜか頬が熱くなるのを自覚しつつ、恭一は頷いた。


「でも遅いなぁアイツ。昼休み終わっちゃうじゃん」


「それって――」


 もう、と頬を膨らませる琴羽に、「どんな人?」と聞こうとしていた恭一の言葉は、途中で遮られることになった。

 中庭の入口を見ていた少女の顔が、ぱっと華やいで。


「あっ……祐真!」


 恭一は彼女の目線を追う。

 そして、目を見開いた。


「おっそいわよ、もう! 時間、とっくに過ぎてるじゃない!」


 頬を膨らませて怒る琴羽に「ああ」などと適当な返事を返しつつ……二人の下まで歩み寄った祐真は、恭一に目線を向けた。


「よう、また会ったな、我が弟子」


 誰が弟子だ、と恭一は絶句しつつ頬をひくつかせた。

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