#15 ~ 人ならざる者よ
雨の中で抱きしめ合う二人の親子。
それを見下ろす人影がひとつ。
千堂祐真。彼は、空中に立っていた。何の支えもなく。
しかも、土砂降りの雨に打たれながらまるで濡れていない。よく見れば彼の頭上で雨は弾け、肌にも服にも、雨粒の一滴さえ触れていなかった。
そしてその隣には、いつもの蒼い鳥。
「お疲れ様でした、主サマ」
鳥が告げた言葉に、ふっと祐真は笑みを浮かべる。
「お疲れさまって言われても、俺は何もしてないが?」
「御冗談を。あの男が、一人であの山を登るなど」
「本当だよ。俺は何もしてない。崖から落ちたとき治してやろうと思ったけど、なぜか自力で立ち上がったからな」
その言葉に、フィノスは目を剥く。
そんなことがありうるかと。
フィノスの眼から見ても、琴羽の父親――綾辻真也はごく普通の人間に過ぎない。そんな人間が、あんな地獄みたいな場所で生き残れるなど、にわかには信じられない。
それこそまさに――
「奇跡、だろ?」
にっと、祐真は笑った。
「そう、奇跡さ。あの男には魔力なんてないし、魔法は使えない。だがフィノス、言ったろう? 魔法にとって本当に必要なのは、魔力なんかじゃないと」
いわゆる、鍛冶場の馬鹿力というやつである。
人間は自分のリミッターを外すと、時にとんでもない力を発揮する。
だが。自分の危機ではなく、誰かのため――娘のためにそれを成した。これはまさしく奇跡である。
「あの男は自力で
祐真は口の端に笑みを浮かべながら、思った。
――手助けしなくてよかった、と。
無力な人間が、想いの力だけで奇跡を起こした。
そこに自分みたいな奴が、横から割って入るなんて興ざめもいいところだと。
高尚な理由など一つもない。ただ単純に、彼は綾辻真也が奇跡を起こすところを見たかった。それだけの理由で、この事態を放置したのだ。
祐真は……この大魔法使いは、人を愛している。だがその愛は、他者からみればひどく歪んでいた。
彼が愛しているのは奇跡であり、彼が人を愛するのは、人が想いによって奇跡を起こすからである。たとえば人を救ったとして、それは『将来的に奇跡を起こすかもしれないから』助けたに過ぎない。
唯一の例外は、家族だけ。
今回も、もし死んだら雪や両親が悲しむだろうから、最悪の結末にだけはしないつもりだった。
これが赤の他人だったら、どれだけ死のうが泣こうが喚こうが、祐真はぴくりともしなかっただろう。
……力ある者の責任? そんなもん知るか、勝手に死ね。
人として生まれ変わり、人として愛を知り、まっとうになるかに思えたこの男。しかし本質というのは、簡単には変わらないらしい。
「まあ、これは俺からのご褒美だと思ってくれ」
ぱちん、と彼が指を鳴らす。その結果は、目に見えるものではなかったが、しかしあまりにも劇的であった。
今にも尽きそうな真也の命を、繋ぎ止める。
本当なら完全に回復させることも出来るが、そうはしなかった。致命傷にならない程度に治しただけだ。
彼は命を懸けて、琴羽を救った。ならばその傷もまた、無かったことにしてはならないだろうと。
そして天から降り注ぐ雨。実はこれも祐真が降らしたものだ。
このまま火に巻かれて二人とも死んだりしたら、実に興ざめだ。妹も泣くだろうし、と。
――奇跡の後にはハッピーエンドと、相場が決まっているのである。
「さて」
祐真はポケットに手を突っ込み、背後を見る。
そこにいたのは巨大な黒い狼……いや、果たして狼といってもいいのだろうか? 揺らぐように呪いがまとわりつき、真っ黒な炎を立ち上らせているそれを。
「うーん、これどうしよっかなぁ」
下手をすれば数千人単位を呪死させかねない、呪いの塊みたいな怪物を前にして、呑気に祐真は首を傾げた。
その間も、狼は真っ黒な触手を祐真へと叩きつける。しかしそのどれも、祐真には届かない――彼の前にある見えざる壁が、そのすべてを阻んでいた。
「よし、こうしよう」
パン、と祐真は両手を打った。
「五分あげよう。その間に、ちょっとでも俺に攻撃を届かせたら、君は生かしてやる――いや、飼ってやろう」
「お待ちください! それは十戒に加えると……!?」
「まあそうなるかなぁ」
あわわ、とフィノスは顔を蒼くした。
……そうなった場合。恐らく、フィノスにはとんでもない折檻が待っている。
何しろ目の前で主を傷つけられて何もしなかったのだ。しかもあんな雑魚に。あの人とかあの人とか、十戒のメンツにボコボコにされる自分が思い浮かぶ。
「じゃ、よーいスタート!」
まったくもって心の準備が整っていないフィノスを尻目に、明るく祐真が宣言した。
『GRRRRRRRRRR――!』
祐真の言葉の意味が分かっているのだろうか。それとも彼の態度が気に食わなかったのか。
猛然と攻撃を仕掛ける黒犬を前に……祐真はあくびを漏らす。
「うーん、それじゃあ合格点はあげられないなぁ」
がーんばれ、がーんばれ、とクソガキ応援ムーヴをかます祐真に、フィノスは冷や汗ものである。
が、まあ。
……そもそもあんな攻撃が、この主に届くわけがないのだが。
たとえ弱体化していようが、それこそ何百年何千年をかけようが。
フィノス・フィオルは知っている。
かつて決して触れざると謳われ、事実、傷ひとつ負ったことのなかった過去の自分。
指一つ触れられず、『ちょっと羽根を一枚欲しかったんで』なんて理由でボッコボコにされた、かつての記憶を。
フィノス・フィオルは知っている。
かつて、大魔法使いは人に憧れた。
逆説的に言えば、彼は決して人ではなかった。
あまりに多くの名で呼ばれたその男は、今、人の皮を纏ってここにいる。
「じゅー、きゅー、はーち」
いよいよ残り
もはや若干の呆れ顔で見ていたフィノスの目の前で、主の身体から、濃密な魔力が立ち上るのを視た。
「ごー、よーん、さーん、にー」
その気配を悟ったのか。
もはや死に物狂いになった獣の攻撃は、しかし、塵芥ほどにも届かない。
「いーち」
そして。
ゼロ。
――ドンッ、と光の柱が立ち上る。
その光は、通常の人間では見ることさえもできない。
浄化の光でありながら、同時に、すべてを圧し消滅させる死の光でもあった。
「ま、こんなもんか」
まるで興味をなくしたかのように手を振り、祐真は姿を消した。
◆ ◇ ◆
一人残されたフィノスは、その光の柱が消えていくのを見送って、そしてため息を吐いた。やはり、と。
(――主の精神は、肉体に引っ張られている)
かつての大魔法使いは、遊びに興じることはなかった。
評するのであれば、災厄そのもの。
ある者にとっては神のごとき奇跡を、またある者に死と破滅を。
触らぬ神に祟りなしというが、まさにそのような存在だった。
しかし人の皮を纏ったことで、その精神は少年のものに近づきつつあるように、フィノスは感じていた。
きっと喜ばしいことなのだろう。
愛を知り、人を知り、人に変わりつつ主に、フィノスは想う。
かつて主は、人に憧れたがゆえに死を選んだ。そして今、主は徐々にその『人』に近づきつつある。
ゆえに。
――この世界はきっと、変わらざるを得ない。
願いが、祈りが、正しく報われるとは限らない。それが現実であり、世界である。
苦しみ、もがき、足掻いて、それでもと手を伸ばしてなお、理不尽に裏切るのが現実だ。
悲劇は溢れかえるほどあるのに、起こる奇跡はほんの一握りしかない。
だがもし、主が真に人になるのならば、きっと――。
そして、世界は観測する。
魔法を。奇跡を。
世界には本来、意思など存在しない。欲求もない。
ただそこに存在するだけのものに過ぎない。
だがその時起きたそれは、まさしく衝動であり、渇望であった。少なくともそう見えた。
世界は観測する。
そして、それゆえに。
世界は、これより目まぐるしく変化する。
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