#14 ~ 魔法
琴羽の父――綾辻真也は、本当にどこにでもいる、うだつのあがらない男だった。
弱気で、卑屈で、不器用で、何もできない。そんな自分が好きになれたことなんて、一度もない。
趣味もこれといって無い。地味な見た目からオタクと勘違いされることもあったが、漫画やアニメにそこまで強い興味を持っているわけでもなかった。
何もない男。
それが、綾辻真也による自分自身の評価だった。
そのすべてが変わったのは、大学時代。
今の妻である、裕子と出会った時だった。
彼女は大学でもマドンナ的存在だった。イギリス人を祖母にもつ彼女は容姿端麗で、サバサバした性格から、男女問わずに人気があった。
本来なら、接点なんてあるはずもない二人を結びつけたのは、一冊の本だった。
『ねえその本、面白い?』
図書館で本を読んでいた真也に、裕子が声をかけてきたのだ。
真也は別に読書家というわけでもない。ただ大学で数少ない友人に薦められて読んでみたら、これが案外面白く、ドはまりしてしまったという流れだった。
以来、真也は読書を嗜むようになり、中でも特にマイナーで人気のない、密かな名作を好んだ。
そこに読書好きな裕子が興味を示し……それからほんのわずかずつ、二人の距離は縮まっていった。
真也はそのたびに「違う」と否定した。
だが本音で言うならば、きっと一目惚れだった。
まるで今までの人生が嘘だったように、毎日が楽しかった。
正直、勉強するよりも、図書館でひっそり裕子と二人で本を読む時間のために、大学に通っていると言ってもよかった。
――告白は、裕子からだった。
『付き合ってみる? 私たち』
何だそれは、と笑いたくなる告白。
なのに、彼女の顔は真っ赤だった。
そこからの日々は、真也にとって最も幸福な時代だったと言って良い。
それまで適当だった勉強にも身を入れた。いつか裕子と結婚したいと、そのために努力を重ねた。大学では『釣り合わない』と言われたけれど、真也にとってはそれが最大の目標で。
幸いにして大手の商社に就職した真也だが、仕事は辛いことのほうが多かった。
残業なんて当たり前。毎日上司にいびられ、同期は出世するのに置いていかれ。後輩にさえ「もっとシャキっとしたほうがいい」なんて笑われる始末。
だが、それでも良かった。
家に帰れば、愛する妻が待っていたから。
そして――裕子が、琴羽を生んで。
泣いて、笑って、そして誓った。
この家族を、何としても守り抜くのだと。
「っ……ぐう……げほっ、ごほっ」
明滅する視界の中で、真也は咳こみながらも必死に身を起き上がらせる。
……気絶していたのか、と。
真也ははっと腕時計を見て、そしてほとんど時間が経っていないことに思わず安堵の息を吐いた。
そして、顔を上げる。
眼前には、壁があった。
目の前に立ちふさがる、壁のような崖が。
このルートを選んだのは、山道が崖崩れで完全に崩落していたからだ。それならば山を突っ切って真っすぐ広場に向かうべきだと、そう判断した。
幸いにして道には迷わなかった。中腹広場にある白いモニュメントが、木々の向こうに見えていたからだ。
――だが。そんな真也の前に立ちふさがったのが、この崖だ。
高さにして数メートル。真也の身長の数倍はあった。周囲を見渡しても、他に登れそうなところはどこにもない。
必死に登ろうとして、そして転落した。
気絶がほんの一瞬で済んだのは、まさしく幸運でしかない。
(迂回は無理だ……もう時間がない……)
徐々に、ほんの少しずつ火の手が迫る気配を、真也は感じていた。
立ち上がろうとして……そして足に走った激痛に、思わず膝を折った。
見下ろして、そして息を呑む。
足が、完全に明後日の方向に曲がっていたのだ。
「――――」
それは、心の折れる音だったのかもしれない。
折れた足を抱え、元の方向に何度も曲げようとして、そのたびに激痛にうめく。
「なんでだよ……おいっ、ざけんな、おい――!」
――少しずつ、少しずつ。
心が、絶望に染まっていく。
不意に、火の粉が真也の頬に触れた。
はっと顔を上げる。
崖の上が……暗かったはずの空が、緋色に染まっていた。
その光景を。
ただ呆然と、真也は見上げた。
目的地である広場は、あの崖の向こうにある。
そしてここまで火の手があがっているということは。
――琴羽は、もう。
「あっ、が、ああああ――っ!」
雄叫びをあげながら、必死に足を曲げた。
激痛に涙がこぼれる。だがも無視して、真也は片足で必死に立ち上がった。
「琴羽、琴羽……っ!!」
必死に娘の名前を呼びながら、崖に手をかけた。
あまりにも無謀だった。崖のぼりの経験がない真也に、折れた足を抱えて崖を登るなど、到底不可能。
当然、というべきだろうか。
真也の足元がずるりと滑り、崖の下へと転落した。
「ぐ、あ……」
痛みが、意識を漂白していく。
心が折れていく。
炎の熱気が、渦巻くように周囲を満たして。
倒れ込んだ視界の中、自分の手が映った。ボロボロになって、爪が割れて、血を流す自分の手を。
真也の目から、涙がこぼれた。
(どうして俺はこんな……)
――痛みでなく。
己の無力さを呪って。
なぜ、こんなにも自分は無力なのだろう。
たった一つ、これだけはと願ったものにさえ、手が届かない。
生まれながらの敗者にして、弱者。きっとあの世でだって、娘に赦してもらえるはずも――。
「――――」
不意に。
幻聴かもしれない。それでも、それでも微かに。
微かな声を――求め続けた娘の声を、真也は聞いた。
「あ……」
立ち上がる。痛みに震え、限界だと訴える身体を無視して。
「琴、羽――」
崖に手をかけた。割れた指先が痛みに悲鳴を上げる。
わずかな窪みに足をかけ、必死に身体を持ち上げる。折れた足が、痛みでちぎれそうだ。
……ああ、どうでもいい。
折れたっていい。ちぎれたっていい。この心臓が止まったって構わない。この命が欲しいならくれてやる。
祈る。
今だけはどうか。自分を、娘の下にと。
――幸せだった。信じられないほどに。こんな幸運があっていいのかなんて、そんなことを疑ったくらいに。
愛する妻。愛する娘。ただそれだけで、どんな仕打ちだって耐えられた。
自分はくだらない男だ。長所なんて、自分でもわからない。
不器用で、馬鹿で、体力もない。
職場でもいつも馬鹿にされて、何一つ反論できたことなんてない。
でも、たったひとつわかることがある。
――娘が待っている。
だから。
「うおおおおおおおッ!!」
真也の指が崖上を掴む。
必死に体を持ち上げ、登りきって……そして見たものは。
真っ赤に燃え盛る、木々だった。
「――琴羽ぁ!!」
真也は叫び声をあげながら、必死に駆けだした。折れる足を引きずって。
それはまさしく自殺行為だった。だがそんなことを考える余裕など、彼にはこれっぽちもなかった。
ただ駆ける。炎の中を。
火の粉に服を焼かれ、どれほど肌を焼かれても。
真也は、走ることは苦手だった。変な走り方だと、何度も馬鹿にされてきたから。
――どれほど無様でも、滑稽でも。
それでも、走った。
……この状況で、子供が一人生き残っていることなどありえない。
きっと誰でもそう言うだろう。間に合わなかったと嘆くに違いない。
それでも。
「――魔法は、祈りだ」
天上で、一人の少年がただ呟く。
魔法は、神の奇跡などでは決してない。
人の願いが、祈りが、魔法となるのだ。
――それは人にとって、たったひとつ、この世界で許された奇跡。
「……パパ……?」
呆然と、少女の声が響く。
それはまさしく奇跡と言える光景。
火の粉が舞い散る中、なぜか中腹の広場にだけは火の手が上がってはいなかった。
アスレチックの土管の中から姿を現した娘に、ふらりふらりと、全身を黒く染めた真也が歩み寄る。
「あのね、パパ、私ね――」
両手にクローバーを握りしめた娘を。
真也は、ただ膝を折って抱きしめた。
火の粉が舞い散る中で、ただ強く、強く。
「パパ……泣いてるの……?」
真っ白なモニュメントが、炎の中に音を立てて崩れていく。
炎が渦巻き、火の粉が落ちる。
――もう真也に、立ち上がる力など残っていなかった。折れた足も、その痛みを感じることさえ失われていた。
それでも、その腕を離さない。
消えゆく意識の中で、ただ願う。
(神よ……いや、神でなくともいい――)
どうか。
どうか娘だけは――。
瞳を閉じて、涙がこぼれる。
それはまるで。
彼の中の魂が、こぼれ落ちるような涙だった。
そして――その涙に応えるように。
ぽつりと。
まるで涙のような雨が、その頬に落ちた。
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