#13 ~ クローバー
時は少し遡る。
綾辻琴羽は、かつてハイキングに訪れた山の中腹にある広場で、一人膝を抱えていた。
「ぐすっ……ぐす……」
普段は強気で、容姿からも大人びてみられる彼女だが、やはりまだ子供。小学三年生に過ぎない。
夕暮れの広場で一人、誰もいないとなれば、孤独と恐怖から動けなくなるのも、ある意味で当然であった。
「ママ……パパ……」
――琴羽は、孤独を知る子供だった。
両親が共働きで、ほとんど家にいない。ベビーシッターの人はとても良くしてくれたけど……本当に欲しかったのは、父と母のぬくもりだった。
だが結局、文句は言わなかった。
琴羽は、両親が自分を愛してくれていることを知っていた。
自分のために毎日疲れた顔をして、それでも優しく頭を撫でてくれる、そんな父と母が大好きだったから。
ただ、孤独はそれでも孤独だった。
満たされない毎日を過ごす中で……彼女は、いつしか孤独に慣れすぎていた。
幼稚園の中でも、彼女は孤立した。
その理由は、容姿にもあったろう。彼女の容姿はいわゆる先祖帰りであり、母方であるイギリス人の特徴を強く引いている。
子供にとって、自分たちとの差異は壁となって現れていた。
そしてそれ以上に、彼女は孤独に慣れすぎた。誰かと接するとき、どうすればいいのか分からなくなる。……その不器用さはひょっとすれば、彼女の父親ゆずりのものかもしれない。
ただその一方で、彼女には母から継いだ負けん気の強さもあった。
だから勝負を挑んだ。自分の通う幼稚園で誰もが一目置く、千堂祐真という少年に。
本当に、変わったヤツだった。
男のクセに勝負となったら全力で、手加減してくれたことなんて一度もない。
負けて悔して、また挑戦して……そうして気づけば、彼女は周囲に受け入れられていた。
あの千堂に毎回挑戦してるヤツ、として。
元は、孤独から脱するためにしたことだった。
でも周囲から受け入れられたとき、琴羽はそんなこと、もうどうでも良くなっていた。
祐真は、自分を色眼鏡で見たことなんて一度もなかったから。
見た目とか、そんなものはアイツにとって本当にどうでもいいことなんだって知ったから。
だから、とても居心地がよくて。気がつけば……自分は孤独なんかではなくなっていて。
だから、なのだろう。
父が約束を破ったとき。「大嫌い」なんて言ってしまったのは。
いつものように、仕方ないって思えなくなってしまったのは。
孤独でなくなった彼女にとって、父の裏切りは耐え難いものに映ったのだ。
「どうしよう……」
でも、今。
琴羽の胸の中に残ったのは、怒りでも悲しみでもなく、後悔だった。
――パパを傷つけた。
琴羽が父をなじった時に見た、父親の悲しそうな顔が、ただひたすらに彼女の心に残っている。
どうやったら、仲直りできるだろう? と。
「クローバー……」
呟きながら、彼女は顔を上げる。
クローバーを父にあげたときの、あの嬉しそうな顔を思い出して。
ぐしぐしと顔を拭う。もう涙は止まっていた。
「クローバー……探さないと……!」
もう一度クローバーを渡せば、きっと仲直りできると。
それだけを信じて、彼女は必死に四つ葉のクローバーを探した。
ここに大人がいたなら、きっと彼女を説得できたろう。
両親が望んでいたのは、四つ葉のクローバーなどではない。彼女自身が戻ることなのだと。
だがこの場に、それを言える大人は誰もいなかった。密かに見守っていた蒼い鳥もまた、それを口に出せる立場ではなかった。
そして。
「あったぁ――!」
彼女が四つ葉のクローバーを見つけて、それを掲げたとき。
剛雷が、音と閃光で山を揺らした。
「――っ!」
その衝撃波に、琴羽は声も出せずに尻餅をつく。
クローバーだけを、どうしても離さないというようにぎゅっと抱きしめながら。
本来なら鼓膜が破れるほどの轟音であったはずが、琴羽はそうはならなかった。蒼い鳥が密かに彼女を守った結果である。
それを知らない琴羽は呆然と空を見上げ……そして何か焦げるような臭いが充満する。
何が起こっているのか分からない。
そんな状況の中で、琴羽は四つ葉のクローバーを潰さないよう、両手でぎゅっと抱きしめる。
周囲を見回し……そして、一つの影を見つけて、彼女は息を呑んだ。
犬だ。だが、ただの野犬ではない。
だらだらと涎をこぼし、尋常ならざる様子で唸り声をあげている。
琴羽は知らないことであるが――その犬は瘴気によって侵され、完全に正気を失っていた。
その様子に「ひっ」と悲鳴をあげて、琴羽はアスレチックにある土管の中に逃げ込んだ。
(怖い……怖い、怖いっ!)
その怯えは、本能的なものだった。
正気をなくした野犬は、完全に琴羽を捕食対象として見ていた。山火事の中でも、逃げることすらせずに。
それはまさしく、魔物化と呼ばれる変異現象。
浴びせられた殺気が、琴羽の本能的な恐怖を呼び起こしていた。
「パパ……ママぁ……!」
恐怖に震えながら、必死に胸にクローバーを抱く。
きっと、それで父親と仲直りできるはずだと、ただ信じて。
◆ ◇ ◆
『――ゴミが』
フィノス・フィオルにとって、人間など塵芥に過ぎぬ存在である。
生きようが死のうが、本当にどうでもいい。
だが、だ。
――主が庇護せよ命じた相手に牙を剥くとなれば、話は別だ。
瘴気によって黒く染まっていく犬を前に、フィノスは吐き捨てる。
フィノス・フィオルは、蒼い鳥である。
その表現は正しいが、しかし、その真の姿を正しく形容する言葉ではない。
蒼い炎が躍る。
それは翼を広げた。どこまでも蒼く染まった、炎の翼を。
――かつて、神話世界において語られた、一つの神鳥があった。
其れは蒼い炎を纏う、生と死の象徴。
永遠を飛び、無限を駆けるもの。
何者も触れることの出来ぬ、絶対不可侵なる空と炎の支配者。
十戒が一翼、
その正体は、生と死を司り、無限と永遠を生きる神鳥である。
いかなる偶然なのだろうか。かつての異世界とこの世界で、共に語られる伝説上の存在。
この地球において、その神鳥はある名を以て呼ばれる。
――フェニックス、と。
『貴様のようなゴミ風情が、我が主を不快にするなど、もはや万死に値する』
それは宣告であった。
小鳥から蒼く燃え盛る神鳥へと姿を変えたフィノスは、無造作に翼を振った。
蒼い炎が舞い踊り。
瞬間、その黒い野犬を蒼炎が包み込んだ。
それはただの炎ではない。物理世界には存在しない蒼き炎。
ほんの一瞬、鎧袖一触に魂ごと焼き尽くし――野犬は、抵抗すらできずに灰も残さず燃え尽きた。
『まったく、歯ごたえがなさすぎる』
フィノスは舞い上がり、そして頂上を見下ろした。
激しく燃え盛る山頂を――そしてそこに在る黒い影を。
『――貴様はどうなのだ? 爪の先ほどでも主を愉しませてみよ、下郎』
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