#12 ~ 魔法災厄

 祐真たちが車に乗り込み、かつてハイキングに来た山……四門山よつかどやまに辿り着いたのは、夕暮れの終わり。逢魔時おうまがときと呼ばれる時間帯だった。


 車の中には祐真と母、雪の三人と、琴羽の両親の五人が乗っていた。ハンドルを握るのは琴羽の父である綾辻真也である。

 祐真の父親である夏樹は、今頃会社を早退して、こちらに向かっているらしい。

 ……ちなみに祐真たちがついていっているのは、家に二人で残すのは不安という理由からだ。

 琴羽を心配して、勝手に家を飛び出されたらたまらない。まあ勿論、祐真にそんな気は毛頭ない。


 祐真はこのとき、まったく心配していなかった。

 琴羽はハイキングで行った山の中腹広場にいる。怪我もないし、周囲に獣もない。いたとしてもフィノスがどうにかする。

 このまま車で中腹に向かい、合流すれば終わりだ。


 ――そう、思っていた。

 だが。


 唐突な轟音が、山を揺らした。

 その衝撃はすさまじく、まるで車が浮いたように感じたほどだ。窓ガラスにビリビリとした衝撃が残っている、そんな気さえした。


「一体、なにが……」


 車を止め、顔をあげた琴羽の父。

 その顔が――驚愕と、そして絶望に染まった。


 山が、燃えていた。


「……なん、で」


 信じられないというかのような言葉が、彼の口から漏れる。


 ……一体、何が起こったのか分からない。

 まるでコマが切り替わるように、唐突に出現した地獄絵図。

 今のは雷なのだろうか? だが雷だとして、こんな唐突に燃え広がるなんてありえない。あるいは、あの山には燃料タンクでもあってそれが大爆発したとでも?


 信じられない心地で山を見上げる彼らの横で……祐真は、小さく舌打ちした。


(マジかよ、これは)


 彼の眼には見えていた。

 この山を包む、あまりにも巨大な瘴気。もはや魔力だまりとすら言えないそれを。


 あれは瘴気によって引き起こされた魔法災厄だ。

 きっともう、全員の脳裏から「なぜ」という疑問は掻き消えているだろう。

 魔法災厄の本質は事象境面の崩壊であり、世界の記憶アカシックレコードの改変を引き起こす。それは人の記憶と認知までも改竄する。


『おいフィノス』


『はっ。どうやら、先日封印したあの箱、もう一つあったようです。その封印が完全に解け……申し訳ありません』


 ちっ、と舌打ちする。

 フィノスの監視能力は一級品だ。だが、そのフィノスとて完全ではない。

 フィノスにとって、ここは完全な異世界――元の世界とはあまりに勝手が違いすぎて、十全に能力が発揮できていないのだ。


 とはいえ、危機的な状況とはいえなかった。

 この程度の状況などどうにでも出来る。たとえ、


 しかし、だ。

 ――それでいいのだろうか?


「琴羽……琴羽!!」


 琴羽の父親、真也が車のハンドルに飛びついた。すぐにエンジンをかけ、発進させる。

 もはや法定速度など守るつもりがないのは確かだった。


「琴羽……琴羽……!」


 だがそれを、誰も咎めることはできなかった。

 琴羽の母親は、真っ青に顔を染めて、祈るように手を組んでいる。

 二人を見ながら……祐真は、目を閉じた。


 頭上の山では、火がゆっくりと山を包んでいく。

 いずれ、それが中腹にいる琴羽のもとに届くのは、きっと時間の問題かもしれない。


 どうにかすればいい。雨でも降らせて、瘴気など吹き飛ばして。

 出来る。自分になら。誰に気づかれることもなく。


 だが――祐真は握りかけた手を、そっと開いた。


「にいさま……?」


「大丈夫だ。大丈夫だよ、雪」


 そう言って笑った祐真の顔は、ひどく穏やかで、そして確信に満ちていた。


 ◆ ◇ ◆


「なんで、だ――ッ!!」


 綾辻真也は、眼前の光景に、車のハンドルを殴りつけた。

 クラクションが空しく鳴り響く山の中で……彼らの眼前には、倒木によって完全に寸断された山道があった。


 時間は、一刻の猶予もない。

 消防隊が駆けつけるまでにはまだかかる。この山火事の勢いでは、間に合わないことはもう分かりきっていた。

 だというのに、この倒木。

 これでは、車は進めない。


「なんでこうなる……ッ!!」


 ハンドルを殴りつける彼の隣では、愛する妻が涙を流しながら嗚咽を零していた。

 車内の雰囲気は一様に暗い。それも当然だろう。倒木を避けて進む道などどこにもなく、徒歩で登るにはあまりに危険すぎた。


「俺は――どうして……ッ!」


 後悔ばかりが溢れる。

 綾辻真也の会社は、いわゆるブラック企業に近い。

 毎日のように残業をこなし、上司に怒鳴られ、同僚はみな暗い顔ばかりだ。

 だがそんな会社でも頑張れたのは、帰りを待つ娘と、愛する妻のためを思えばこそだった。


 ――それが、間違いだったのだろうか?

 あんな会社とっとと辞めて、転職でもしていれば……もっと娘との時間を大事にしていれば……こんなことにはならなかったのか?


 意味のない問い。すべては遅い、ただの後悔だ。

 だとしても、己の無力を呪うことしか、今の真也に出来ることはなかった。


「……諦めるのか?」


 それは、囁きだった。

 後部座席に座った一人の少年。

 娘の友人である、千堂祐真という少年の。


 不思議な少年だった。

 どこか大人びているのに、子供なところもある。

 達観しているように見えて、そうでもない。

 ただ、不思議と人の目を引く子供だと、真也はそう思った。


 そんな少年の言葉が、真也の後悔と怒りに満ちた心に、すっと割って入った。


(あきら……める?)


 瞬間。

 走馬灯のように、記憶が脳裏をかけめぐる。


 娘の言葉。娘の笑顔。

 怒った顔、嬉しそうな顔。

 はじめてパパと呼んでくれたとき、大好きと言ってくれた、娘の――


 不意に、バックミラーの下で揺れるそれに、視線が吸い込まれた。



『――パパ、プレゼント!』


 山にハイキングに行ったあの日。

 琴羽は、ようやく見つけた四つ葉のクローバーを、真也に差し出した。


『……いいのかい? ようやく見つけたのに』


『いいの! そのかわり、そのね……』


 娘はもじもじしながら、少し照れつつも、真也に言った。


『今度の誕生日……また一緒に来よう? それで、また四つ葉のクローバーを見つけるの!』


 娘からのプレゼントは、ひたすら嬉しかった。

 バックミラーに飾ったチャームは、そのクローバーをガラスで挟んで加工したものだ。毎日、仕事に行くときに見えるようにと。


 思い出す。娘の笑顔を。裏切ってしまった時の涙を。



「うわあああああああああああああッ!!」



 がんっ、と、真也はハンドルに頭をぶつけた。

 

(諦める? 諦めるだと? 娘をか!? ふざけるな――!)


 涙がこぼれる。怒りがあふれる。

 諦めることなど、絶対に出来るわけがない。

 誰に言われようが、たとえ、神にこれが運命だと断じられても。


 真也は荒く息を吐いて、ハンドルから手を離す。

 そして、ドアを開けた。


「あ、あなた……どこに……」


「俺は、琴羽のところに行く」


 真也の言葉に、妻の裕子は息を呑んだ。

 無理だ。不可能だ。

 真也にそんなことが出来るわけがないことは、彼女が一番知っている。


「みんなは今すぐ山を下りて。鍵は刺したままだから」


「でも――!」


「頼む。裕子。大丈夫だ……絶対に琴羽は取り返す」


 それだけ言って、真也は外に飛び出していった。


 ◆ ◇ ◆


 あ――と、車内に誰かの声が漏れた。

 だがその時にはすべてがもう遅い。全員が迷っている間にも、真也は車を飛び出し、倒木をよけて向こう側の車道を走っていた。


 ……いや、迷ったのではない。

 気圧されたのだ。

 彼の覚悟に。


 特に、真也の妻である裕子は驚愕に口を開いていた。

 彼女は真也のことをよく知っている。気弱で、卑屈で、不器用で、運動神経もない。こんな無謀な行動をするなど、あまりに意外過ぎた。


「――待ってっ」


 ガタガタと裕子がドアのカギを開けて、外に飛び出す。

 だがその手を掴んだのは……千堂木葉。祐真の母だ。


「待ってください! 行くのは危険です!」


「でも夫が! 娘が――!」


 半狂乱で暴れ、叫ぶ木葉に困惑しながら、必死に抱き留める。そんな修羅場の中で、木葉の耳に車のエンジン音が聞こえた。

 振り向けば、そこには一台の車と、そのハンドルを握る自分の夫の姿があった。


「おい、どうしたんだ!?」


 祐真の父である千堂夏樹が、その尋常ではない様子に慌てて車を降りて駆け付ける。

 木葉は夫と二人で裕子を落ち着かせ、助手席へと座らせ……そして、夏樹に事情を説明した。


 琴羽が未だ山の中腹に囚われていること。

 そしてたった一人、真也がそれを助けに向かってしまったことを。


「そうか……」


 黙ってそれを聞いていた夏樹は、迷うように山を見上げ、木葉を見て、そして裕子を見た。


「――山を下りましょう」


「っ」


 その言葉に、裕子ははっと顔を上げ、そして怒りに顔を染めた。

 彼女の怒りを正面から見返しながら、夏樹は真剣な顔で口を開く。


「軽蔑していただいても構いません。私は妻と、そして子供を守るため、今すぐ下山しなけれならない」


「なら、私はここに――」


「駄目ですよ、裕子さん。……貴女がここに居ても、何も出来ることはない」


 残酷すぎる現実を、夏樹は突きつけた。

 その言葉に、彼女が言葉を呑む。


「今はとにかく離れて、消防隊の到着を待つべきです。それしか、今の僕たちに出来ることはない」


「でも――ここで待っていないと、あの人が!」


「万が一ッ!」


 夏樹が裕子の肩を掴み、声を荒げた。


「……万が一。貴女が死んだら……僕は真也さんと琴羽ちゃんに、どんな顔向けすればいいんですか」


 その言葉に――裕子だけではなく、木葉も言葉を呑んだ。

 彼の、千堂夏樹の言葉は、真也と琴羽の命を諦めているように聞こえたから。


 だが。

 それが現実である。


 燃えさかる山は、もはや地獄と化しつつある。

 徒歩で山を登り、琴羽を助け出し下山するなど――よほどの奇跡が起きなければ不可能。

 そして……奇跡とは、起きぬから奇跡というのだ。


「こちらの車は、キーをつけて置いていきます。いざとなったら、真也さんも乗り慣れている車のほうがいいでしょう。僕の車で、急いで麓まで下ります。……いいですね?」


 有無を言わせぬ夏樹の言葉に、裕子は、ただ泣き崩れた。


 全員で車を移り、発進させ――そして。

 この時、誰一人として気づかなかった。

 麓まで下り、消防隊や救助隊が到着しても、なお。


 車を乗り移ったはずの祐真の姿が、どこにもなくなっていることを。

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