秘密
帝事務所の業務を終え、
10年ぶりの訪問だ。
前々から日程が決まっているよりは緊張せずに済むかもしれない。
身支度を整えた後、
少し歩いたところにあるコインパーキングに、不釣り合いな雰囲気の高級車が停まっており、運転席には人がいる。
「ありがとうございます。」
「どうぞ。」
運転手に促されながら、それでも本当に乗って良いのか尻込みしていると。
「早く乗って。」
車内から
「すみません、
仕事をさせてくださいね。」
「何かお手伝いすることはありますか?」
「大丈夫よ。
例の件で、私の知り合いと連絡を取り合っているの。」
手伝えない件なら、野良の絡みだと
「着くまで1時間くらいかかるから、寝ていても大丈夫よ。」
どうにも落ち着かず、とても眠れそうにない。
かといって、あからさまにそわそわ落ち着かないと
今日は昼間も車に乗ったが、今は夜。
走るのは都心の道路だから、車窓から見える景色はきらびやかなネオンの街並み。
何よりも、誰にも邪魔され無い一人だけの空間だ。
もっとも、
兎にも角にも、一目見ておおよその値段がわかるくらいには車に詳しい。
日本では誰もが知る一族も乗っている黒塗りの高級車は、重厚感と気品を併せ持つ。
こんな車がコインパーキングに止まっているのは、場違いにも程があるというもの。
実際のところ、
車で送迎するのは、
名家の依頼を受け、
実質的には社用車と言えるが、
そんなこととは知らない
約束なく今日いきなり
「…吉岡か。」
10年の間にすっかり別人のように変わった
いい加減、驚きの許容量が限界を超えそうな心持ちだ。
それほど鮮明に覚えているわけでもないけれど、
何よりも、可動式のベッドで一日の大半を過ごしている空気感。
重い病でも患っている雰囲気だ。
しかし、それよりも。
「
「ん?ああ。
涙を浮かべる程に驚いている
「ご当主、ご無沙汰しております。」
当主へ挨拶するため、自然とベッドの横に正座した
内心パニック状態だが、何とか平静を装った。
「旦那様、わたくしは下がります。」
「ああ。」
通常ならば、
しかし、ここに居る
とはいえ、
それでも
「
「はい。」
固執を視覚したようなその様子を目の当たりにすると、
当主の絆は他にどの程度繋がりがあるのか。
絆の繊維を外したところで、行き先はあるのか。
それが問題だった。
だが、
自分との絆があるなら、そちらに移動しても良いと考えてはいたが、どうやら実現可能かもしれない。
しかし、それはまた別件だ。
戸惑う
「おい、
呼ばれて慌てて向き直ったが、真っ直ぐに自分へと向けられた視線にまた驚く。
なんとなく、
「もうすっかり大人だな。
いくつになった?」
慈しむように見つめながら頭を撫でた後に、手の平を上に向ける
骨ばった手は弱々しく見えたが、握る力はある程度の力を込めて手を引かなければ解けないように感じる。
「26です。」
状況が呑み込めず思考が停止する。
一方の
しかし、
「
「ああ、それじゃあ
「はい。旦那様。」
障子を少し開き、部屋には入らず頭を下げて主人の話に耳を傾ける様は古式ゆかしき有り様。
「
「かしこまりました。
失礼いたします。」
入室する
「先日、吉岡様の件を伺っておりましたので、そちらの準備も整えております。
本日はどのようなご用向きでしょうか。」
現在は合気道が必修。
その他、各々が己に合った武術を身に付ける。
かつては主に剣術や時代ごとに有力な武術を身につけており、護衛の役割を果たせるように努めるのが
加えて、明治維新のあたりから、英語を学ぶようになった。
秘書の役割もになっている
どんな状況にでも対応できるよう、日々鍛錬を怠らない生き様が、自然と佇まいに現れていた。
彼はまるで虎のような気配だ。
飼い慣らされているから、普段は主人の横で大人しくしているけれども、どうあれ猛獣。
主人である
緊張感から身体に変な力が入る。
「私は横にならせてもらうよ。」
疲れていたのか、ベッドを平らに戻して布団をかけてもらうと、少しみじろぎをしただけですぐに寝息を立て始めた。
「先日お知らせした、禁忌の術を使用する
寝室だから、畳敷きの8畳間に設置されているのは、ベッドのみ。
そもそも来客を寝室へは通さない。
見計らったかのように使用人がお茶を運んできたのは、
秘密の多い家だから、使用人は全て
それでも、茶を運んできた人間が下がるのを待ってから。
「吉岡様、その節は大変でしたね。」
「以前からうちの事務所の依頼主に、野良の
今回の件、つながりがあるように感じます。
しかも、人が殺されたのですから、これ以上捨て置けません。」
報告する毎に
だから、
「こちらでも可能な限り動いています。
その裏に
力関係の均衡を保つために管理一切を
だから、
「いえ。」
もちろん、
「引退間近の方々なら、あるいは禁忌の術を使用していただく事も出来るかもしれません。
情報収集も含めて、ご高齢の方から順に連絡を差し上げています。」
引退間近なら、禁忌の技を行使して代償として
引退に際して
「しかし、出来れば禁忌の術は避けたい。
あくまで最終手段として、視野に入れておく程度です。
今回の件、吉岡様が鍵を握っています。」
「どういう事でしょう?」
「動植物の絆を捉えられる程の
現在、そのような
「実質、
「ええ。
わたくしの目の黒いうちに、秘術を扱える
「ところで、先ほどから吉岡様は酷く困惑されているご様子。
差し出がましいようですが、一先ずは旦那様のお身体の事をお話した方がよろしいのではないでしょうか。」
名前を呼ばれて顔を上げた
もはや、何をどこから問えば良いのかわからなくなっている。
「そうですね。
ちょっと私には上手く話せそうにないから、
そう考えた
「さようでございますか。
では、この後の予定もございますから、なるべく手短に。
旦那様は、8年程前に脳の萎縮が認められ、若年性認知症と診断されました。」
「以来、お仕事は体調の良い時にだけ。
若年性認知症は、この8年間で徐々にではありますが、確実に進行してきました。」
悲しそうな、淋しそうな表情を浮かべている。
「記憶が曖昧だったり、突然様子が変わることもあります。
日によって調子は異なりますが…」
「先ほどは毎日拝見しているわたくしでも驚く程に明朗快活なご様子でした。」
「私も驚きました。」
「わたくしの口から申し上げるのは大変恐縮ですが、旦那様は吉岡様に特別な思い入れを持っておいでです。」
「特別な思い入れ?」
いつのまにか緊張が解けていることに気がつき、恥ずかしい気持ちになる。
武士たるものはいついかなる状況でも気を緩めないものだ、と
「はい。
それというのも、お…失礼。」
一つ咳払いを挟み。
「
言いながら、
「僕の、成長過程ですか?」
(まさか、監視でもつけられていたのか?)
「はい。
最初はどうでも良かったが、そのうち楽しみに感じるようになった。」
「あるいは自分に子供がいたならば、こんな気持ちになったのだろうか。
いや、なんの苦労もせずたまに写真を見たり、様子を聞くだけならば、せいぜい親戚といったところかもしれない。
旦那さまは、そのように話してくださいました。」
やはり、先ほどの
と、
「僕が最初にこちらに伺った後には、何か仰っていましたか?」
あとは、これさえ確認できれば。
「私は君のことを知っていたが、君にとっては初対面だったろう?
どう話して良いかわからなかった。」
答えは、予想外の方向から返ってきた。
「旦那様。
騒がしいでしょうか。」
話し声で起きてしまったかと気遣う
「構わない。
すまないな。
ずっとは起きていられないだろうが、これも一つの決まりだ。
寝ていては意味がないとも思うだろうが、大目に見てくれ。」
「気にしないで休んでいて。」
「ああ。」
「ところで、僕の写真とは…」
知らぬうちに写真を。
それも、小さい頃から成長過程を見ていたとは、聞き捨てならない。
「その辺りの詳しい事情は、
わたくしは準備していたものを取りにまいります。
すぐに戻ります。」
まったく、
それなりに年を重ねていることは明らかだが、
「
すっかり親戚の気分になるくらい。」
「ぼくにとって
「そうね。
一緒に生活したことが大きいんじゃない?」
「そう、ですね。」
「あなたが生まれた時、私はここに居た。
だから、
弟子が生まれた!ってね。
その話は知っているでしょう?」
「はい。
まさか、
「はっきり話したことはないけれど、
「はい。
最初にこちらを訪れた時に。」
「そう、最初からだったのね。
「そうでしたか。」
「結構頻繁に送ってくれたから、私もだんだん楽しみになっていたわ。
携帯電話でやり取りをするようになってからは、一層頻繁になってね。
だから、
両親からは、そんな話を聞いたことがなかった。
「え。」
「まさか、
それほど頻繁に
「あれは僕じゃなくて
おおげさな例え話だが、母親の方ばかり子供と過ごす時間が長く、必然的に仲が良くなる。
父親としては、自分も子供と仲良くしたい。
だが普段接する時間が短いから、どう接していいかよくわからない。
そんな気持ちを向けていたのではないか?
「
部屋に戻ってきた
「この者はわたくしの息子です。
同席をお許しいただけますか。」
「
書記としてお邪魔したいのですが、よろしいでしょうか。」
「構いません。よろしくお願いします。」
「感謝します。
吉岡様、どうか楽にしてくださいね。
少々…いえ、長くなりますから。」
正座の姿勢で身を固くしている
「お心遣いありがとうございます。
僕は正座が楽ですから。」
「これから吉岡様には
「はい。」
「よろしくお願いします。」
「これは、代々伝わる秘術について記された巻物。
江戸の末期に書き記されて以来、現代語訳しないまま、ずっと保管しておりました。」
秘術の巻物は、長い間保管されている倉庫から持ち出されたことがない。
「この機会に、現代語訳を記録したいので、わたくしが同席して書き記します。
このパソコンはネットワーク機能を一切持っていないものです。
パソコンというより、ワープロの方がイメージとしては近いかもしれません。
プリントアウトする時には、SDカードを使用します。
冊子にまとめ終わりましたら、引き続き
「秘術に関しては、外部へ一切漏らしたくありません。
ですから、本は一冊だけで管理します。
データは出力後に破棄します。
もし、今後確認したいことがありましたら、ご足労をお掛けしますがこちらにおいでください。」
「わかりました。」
「この秘術を知っていただく事は、大変重要な意味を持ちます。
野良への対抗手段としてかなり有効な内容が含まれていますから。」
──────
この書に記す秘術は、動植物の絆が捉えられる能力者に限り使用可能。
◇秘術一覧
・
・絆を第三者からの攻撃などによる損傷を受けないよう保護する、絆保管の術。
※これは、同時に絆の状態を固定する事でもある。
・他の
・動物や植物の間にある絆の操作を行う、人外の絆操作。
・家族の絆を意図的に構築する、和合の術。
・絆が繋がっている相手を引き寄せる、絆寄せの術。
◆禁忌の術<神の御技として禁忌であるため総じて神術と言う>
・
・
※上記二つを組み合わせれば、無尽蔵に
・絆の繊維へ損傷を与えずに繋がりを解消する、
※リスクなしに絆を断ち切れるということ。
・絆を生み出す、絆生成の術。
※言葉のあやでなく本当に無から有を生む。
──────
秘術の書として巻物になっているくらいだから、他にも諸注意は記載されていたが、
「吉岡様の妹さんについては絆が見えないとの事でしたね。
恐らくそれは、無意識に秘術を行使されているのです。」
(絆隠しの術を自分でかけて見えなくしているということか。)
「恐らく吉岡様は歴史上で誰よりも能力量の多い
幼いころは大変なご苦労をされたでしょうね。」
あらゆる絆が捉えられる。
絆の繊維は肉体と精神と霊魂それぞれに存在している。
概ね精神から出ているのだが、厳密にいうとそうとは言い切れない。
エネルギーが循環しているため、明確に一つの根源から発出していると言い切れないところがある。
切っても切れない絆は、精神と肉体で繋がっている事が殆どで、両方解いてしまえば解けることが多い。
だが、肉体的な繋がりというのが親子である場合これはまず切れない。
DNA判定をせずとも、親子関係がわかることもある。
何事にも例外はあるから、100%とは言い難い。
時折、肉体から生じた絆の繊維だけで繋がっている絆も
この際だから、と、
「これは、巻物の記述を現代語訳にするだけでは事足りないようです。
まさかここまでとは。
歴史的に見ても、記録されている限りは前例が皆無です。」
霊魂の絆は最も捉えづらいと言える。
肉体関係を持つと、絆が色づくのは
肉体関係を持ったと気が付いても、面と向かって確かめることなど出来るはずがない。
話をすれば、そこに触れなければならない。
霊魂から発している絆の繊維、精神から発している絆の繊維、肉体から発している絆の繊維。
精神というのは本心や潜在意識、無意識の領域だ。
本心では苦手な人を、表向きはそんなことはないと自分自身に言い聞かせてしまえば時に本心すらも変えてしまう実に不安定なもの。
だからこそ絆は両方の端をとらえた状態で行う必要がある。
それは
全て微弱な光を発している白のような黄金色のようなもの。
この世と繋がる絆を捉えられる場合と捉えられない場合があるのは、霊魂が動き回るためだ。
芯のある絆の芯の部分は霊魂から発している絆だ。
精神から発している絆と肉体から発せられている絆は根源が重なって見えるため、通常は区別がつかないが霊魂から発せられる絆については霊魂が重なって見える位置になければ区別がつく。
しかし、霊魂そのものが目に見えるものではないので、その絆がどこから発しているのかわからない。
ただし、霊魂と肉体、精神に繋がる絆。いわゆる命の絆は明らかに他の絆と違う。
虹色に輝いているのだが、
絆の繊維それぞれに異なる色があるし、霊魂をも捉えることが出来るからだ。
霊魂を捉えることができる
しかし、霊魂から発している絆の識別について、これまで
霊感があるという話をしたくなかったのか、それ以外に何か理由があったのか不明だ。
あえて記録に残さなかったのかもしれない。
いずれにしても、何もかもが今日に繋がっていたように感じられた。
病の絆というものがあるのなら、絆の操作で治せないだろうか。
特別な思いを抱いているとわかったからなのか、
しかし、病の絆を操作することは、禁忌の術ではないにしろ、師弟感でも教えていないことだ。
肉体に何らかの病が生じている場合、それは肉体という器が蝕まれている。
その病を治すために精神エネルギーが使用される時には病と絆が繋がるだろう。
精神と肉体、霊魂は三角形のような状態で絆が繋がっている。
最初は精神と霊魂の間にある絆が削られるが、やがて肉体が霊魂との絆を削り精神と肉体の絆を強化し始める。
これが、気力だけで生き延びている状態。
精神エネルギーで肉体を補修しようとしているのなら、その絆は果たして操作して良いものか?
肉体の絆の繊維は基本的に肉体そのものを動かす為に繋がって機能している。
外側に伸びるのは一時的な事でしかない。
だから、肉体関係を持った時に一時的に絆が繋がる。
肉体そのものの絆の繊維が病と繋がっている場合も、病を治すための絆だと考えると、操作して良いのか?
それは本当に病と繋がっているのか?
周辺の細胞を活性化させるために繋がっているのだとしたら、操作するのは問題がありそうだ。
これまでは、どういう理屈なのか判断ができなくて見て見ぬ振りをすることしか出来なかった。
これからは、もう一人で悩まなくてもいい。
話しても通じないと思ったのはいつだったのか。
自分で勝手に思い込んだのに違いない。
弟子が自分よりも能力がある事は何も問題ない。
師としてのプライドなどというものは、元より持ち合わせていない。
自分が
そんな無力感に苛まれていた。
「
「やってみた事はあるのだけれどね。
どうにも一定のところまでしか動かせなくてその範囲が徐々に増えているの。
一応、多少なり進行は食い止められていると思うわ。」
「僕に依頼をもらえませんか。」
今、
「今日、僕にだけ見えている世界があることが、よくわかりました。
見ているだけでは、わからないことがたくさんあることも、よくわかりました。」
わからないことは聞く。
そういう習慣は出来ている。
けれども、
「だから、これからも教えて下さい。」
一般的に
けれども、
絆の繊維は、その色で判別できるのだ。
恋愛感情、憎悪、嫌悪、憤怒、友愛など。
絆が一色の繊維で構成されることはない。
浮気や不倫はもちろんのこと、嫌いな人なのに好きな振りをしたり。
他に好きな人がいるのに、告白されたから付き合う人。
本当は同棲が好きなのに異性と付き合っている者。
誰に対しても恋愛感情を持たないのに、恋愛のことを他の誰かと楽しげに話している人。
「
「吉岡様の事は、ここに居る者だけの秘密という事で、くれぐれもよろしくお願い致します。
洗脳や催眠術などを用いて吉岡様の能力を悪用されてしまったら、とんでもない事になりますからね。
脅かすつもりはありませんが、
冗談のような言い回しをした
と、
「
吉岡様は、その中でも特別
何かしらあるだろうと予想していましたが、予想以上でしたね。
まさか、秘術の書にわたくしの手で加筆をする事になろうとは。」
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