吉岡冬色の宝物


帝事務所を出る前に、たっぷり準備をする時間があり、冬色としきはすっかりプライベートモードに変身してから事務所を出た。


所員は全員、ある程度の着替えを事務所に置いている。

防寒や空調対策も一部含まれるが、主な目的は変装。


工作に出かける時に変装出来るよう、中から鍵をかけられる更衣室があり、室内にはカバー付きクローゼットが設置されている。


みかどが男性の装いをする時には、冬色としきとサイズがほぼ同じなので、男性用の服は共用。

冬色としきが女性の装いをしたことはなく、今後も考えにくいが、みかどの服を着ることは可能だろう。


経費で精算できるものはしており、プライベート用と変装用の管理は個々に任されている。

完全プライベート用の服を更衣室に置いても良いし、わからない程度なら変装用の服をプライベートに使ってもいいよ、と言う意味だ。


帝事務所には、プライベートの服を経費で精算しようとする不届者はいない。

むしろ、プライベートで着るからと自腹で買ったものを決算時に冬色としき見つけて。

「経費で落とせますよ。

レシートがあるなら出してください。」

と、声をかけるほどだ。


共用の小物や、アクセサリー類も更衣室にあり、鏡台とメイクセットもある。


公永きみえは普段ほとんど化粧をしないけれど、ドレスコードのあるレストランに行く必要がある場合は着替えて化粧をする。

当然、靴も置かれているから、適切なものを選んで履く。


恨みを買うこともある仕事だ。

所員の自宅はなるべく特定されない方が良い。

それでなくとも、プライベートの時に外で依頼人から声をかけられるのは避けたい。


帝事務所の入っている建物の出入り口は1か所。

外から見ると、何階への出入りなのかわかりづらい。

建物の中に入った上、帝事務所のドアが見える場所で見張っていない限り、帝事務所への出入りとは特定できない。

だから、通勤時はなるべく違う格好をする。


冬色としきにしてみれば、帝事務所にいる時の方が、臨機応変TPOに合わせた格好にできる。

洋服の種類やアクセサリーなど、自宅に置いてあるものより事務所に置いてあるものの方が充実しているからだ。


常日頃、ジャケットとコートは事務所に置いたまま。

今朝出勤した時には、ボトムスのパンツこそ同じだったが、上は着古したトレーナー。

下にYシャツは着ていたけれど、マフラーでYシャツの襟を隠していた。

黒縁のダテ眼鏡をかけて、髪の毛はぼさぼさ。


さすがに、出勤時と同じ格好では、近所のコンビニへと部屋着のまま買い物に出てきた人にしか見えない。

同じコンビニでも、周囲に住宅街もないような都会の繁華街にある店舗に立ち寄ったら、明らかに悪目立ちする。


冬色としきは、いつも所内で着るために引き出しに保管しているグレーのファスナー付きパーカーをシャツの上に着てファスナーをしめた。

更に、更衣室に置いてあったブルゾンを着てパーカーのフードをブルゾンの外側へ。


ズボンからYシャツの裾を出し、一番上のボタンを外す。

そして、鏡の前でわざと髪の毛をボサボサにする。

机上のメガネケースに保管しておいた黒縁ダテ眼鏡をかけて、財布やスマートフォンなど忘れ物はないか確認した上で、みかどに挨拶してから事務所を出た。


意気揚々と最寄り駅へ向かうと、自然に歩幅は大きくなる。

通常7分のところ5分ほどで駅に到着した。

電車に乗り20分。

着いた駅から5分ほど。


余裕を持って移動できた。

まだ友達が一緒にいるタイミングで現れてしまうと、気まずいだろう。

と、カラオケ店の入り口が見える位置にあるコンビニで、甘い飲み物とお茶、水。さらには妹が好きなドライフルーツとのど飴を購入。

ブルゾンの左ポケットに入れてあったエコバッグを取り出し、商品を袋に入れて店を出る。


昨日、加藤かとうの事務所を訪れるために来たばかりの街は、金曜日の夜ということもあり別の街のように見えた。

21時まではあと10分。


大都会の繁華街は、道が一本違うだけでも大きく景色が違って見える。

全く同じ場所でさえも、時間帯や曜日によって本当に姿を変えている様に錯覚してしまう。


21時になったら、妹からも確認できる位置に移動する。

一先ずはコンビニを出たところ、人通りを妨げないようガードレールのそばで立ち止まった。

ブルゾンの右ポケットからスマートフォンを取り出し、近くまで来ている旨のメッセージを妹へと送信。


冬色としきの妹は、池秋ちあきという。

埼玉県にある自宅と、帝事務所と冬色としきの部屋がある駅の中間あたりにある高校の1年生。

16歳。


池秋ちあきは、乗り換え駅にある塾に通っている。

塾の前後に少し買い物をすることはあるが、学校帰りに寄り道をすることが珍しい。


塾の帰りは、自宅最寄り駅に両親のどちらかが、迎えの車を出す。

池秋ちあき自身、夜遅くまで出歩くのは危ないし、怖いと認識していた。


制服のスカートを短くする女子生徒は多いが、規定の丈のまま。

ある程度の美意識はあるけれど、流行には流されない。

周囲が、校則違反にならない程度に髪の毛を染めていても我関せず。

地毛のままだ。


まだ1年生とはいえ、11月ともなると学年行事を経て人間関係も大分出来上がる頃だ。

文化祭や2学期の中間試験を終えて一段落。

期末試験まではまだ少し余裕があるから、遊ぶにはちょうど良かったのだろう。


池秋ちあきの中では、髪がボサボサでなんの変哲も無い黒縁眼鏡をかけているのが冬色としきのイメージだ。

眼鏡をかけていなかった頃の記憶も、朧げにはある。


だが、高校生のころからプライベートでのイメージチェンジを始めていた冬色としき

池秋ちあきの年の差は10歳だから、もう今の冬色としきを10年見ていることになる。


元から、特別髪型や服装に気を使ったり、おしゃれを楽しむタイプではなかった。

極端に変わったのは眼鏡と髪型だけ。

周囲から見ても、眼鏡は目が悪くなったと思うだけだし、髪の毛は無造作ヘアとあまり変わらず気にならない。

冬色としきは、なるべく印象に残らない人物像を目指しているが、成功していると言っていい。


人混みに居ると、能力の制御をしていても絆が見えることがある。

人が多ければ多いほど制御するのは難しい。

だから、冬色としきが今訪れている都会の代表格のようなこの街には、用事が無ければ寄り付かない。

電車移動も苦手だ。


仕事を終えたら仕事のことは考えないように、みかどに度々指導され、今では切り替えられるようになった。


プライベートではソーシャルメディアを殆ど見ないし、地図などが必要な初めての場所にもまず行かない。

いわゆるガラケーで事足りるくらいなのだが、池秋ちあきと連絡を取り合うために必要なアプリはスマートフォンでのみダウンロード可能。

悩む余地などない。


せっかくスマートフォンを持っているのだから活用しよう、と、コンビニの支払いは電子決済。

電車に乗る時にもスマートフォンを使う。


今は、単なる暇つぶしでお得なクーポンがないかスマートフォンで探している。

探しながらも極めて頻繁に時刻を見ており、21時になったことを確認するとブルゾンのポケットにスマートフォンを収めた。


カラオケ店の入り口から少し離れたところ、肉眼で人の顔が判別出来るけれども、あまり目立たない位置に立つ。

カラオケから出てくる人を待っているとは悟られないように。


程なくして、池秋ちあきを含む団体が出てきた事には気が付いていたものの、そ知らぬふり。

解散して友達が去るのを見送った池秋ちあきが、更に数秒置いて。


「お兄ちゃん、お待たせ。

迎えに来てくれてありがとう。」


と、周囲を見回すでもなく、冬色としきの目の前に立った。


「うん。好きなの取りな。」


冬色としきは、先ほどコンビニで買ったものを池秋ちあきに差し出す。

エコバッグごと受け取った池秋ちあきは、中身を確認してドライフルーツを取ると、一度エコバッグの取っ手を合わせた。

が、思い出したように水を取り出してからバッグを返す。


「ありがとう。」


特に確認するでもなく、流れるように二人そろって駅へと歩き始める。


「カラオケ楽しかった?」


楽しく目いっぱい歌ったのならのど飴を取っただろうから、返ってくる答えは十中八九。


「うーん。微妙。」


そもそも、泊まる予定だったのが泊まれなくなったのだから、何かしらあったのだろう。


「カラオケ行き直す?

1時間位なら付き合えるよ。」


冬色としきが提案すると。


「え!いいよ。

お兄ちゃんカラオケ行っても歌わないじゃん。」


雑踏の中、自然にいつもより声が大きくなる。

人混みの中ではぐれないよう、池秋ちあきは自然に冬色としきが着ているブルゾンの裾を掴んだ。


駅に着き、数分電車を待っている間。

池秋ちあきは、ドライフルーツの袋を開封し小ぶりの一かけらを口に入れた。


途中で喉が渇くのではないか、と、気になる冬色としきの心を読んだかの様に、池秋ちあきは水を一口のんだ。


肩掛けの通学カバンに、附属のチャックを閉めたドライフルーツの袋と水のペットボトルを適当にしまうと、そのままカバンを胸に抱えた。

それほど混雑はしていないと思うが、電車に乗る時の癖なのだろう。


そうこうしているうちに電車がホームに到着して、人の流れのままに乗車した。

立っている人が、もれなくつり革につかまる事が出来る程度の混雑。

始発駅だから、運よく座ることができた。

冬色としきにとっては、来た時と逆方面に戻るだけの20分程の乗車。


「僕はこれからご飯だけど、もう食べた?」


冬色としきが履いているズボンは、ジャケットを合わせればかっちり見え、カーディガンを合わせれば柔らかく、パーカーを合わせればカジュアルに見えるような黒いパンツだ。

変装をしているときにも使えるため、5本同じものを持っている。


「ちょっとだけポテトとか食べた。」


カラオケではありがちな軽食だ。

他にポテトチップスや、ポッキーなどが思い浮かぶのは、10年ほど前に行ったきりカラオケに行っていないからだろうか。

未だにそうなのかもしれないが、最近のメニューはどうなっているのだろう。

冬色としきはあとで聞けたら聞こう、と思った。


「じゃあ、お店で食べようか。」


何度か二人で行ったお店がある。

ダイニングバーのような雰囲気だが、シンプルでスッキリとした明るい内装のおかげで入りやすい。


バーカウンターがL字型になっており、手前のフロア対して垂直な部分だけが少し大人の雰囲気。

全体的に柔らかい木の雰囲気とパステルカラーの緑が基調で照明は暖色系なのだが、垂直な部分だけは黒やシルバーが基調で、ブルーの照明だ。


「お兄ちゃん、今から作るの大変?」


池秋ちあきは、冬色としきがいつも自炊しているのを知っている。

お店でしっかり1食分の食事を摂るほどお腹が空いていないのか、何か別の理由があるのか、池秋ちあきはなんだか歯切れが悪い。


「どっちでも大丈夫だよ。

買って帰るんでも良いし。」


冬色としきはいつだって池秋ちあき優先である。


「うーん。

お店に行くとしたらいつものところ?」


新しいお店に入ってあまり美味しくないと、結果として池秋ちあきが悲しい顔をする。


池秋ちあきがどうしてもその店に行ってみたい!と望めば行くのだが、リスクは避けたい。


例え冬色としきの口に合わなかったとしても、池秋ちあきが気に入ってまた来たいと言えば、躊躇わない。


何度も通うようであればその度に違うものを頼み、自分の好みに合うものを探す。

見つからなくとも構わない。

池秋ちあきが満足していれば、良いのだ。


「そうだね。

あの店が間違いない。」


池秋ちあきが、美味しいと言った。

またあのお店に行きたい、と言った。

そうして、何度か行ったことのある店だから。


「お兄ちゃん、お酒飲まないもんね。

あ、明日もお仕事か。」


池秋ちあきなりに気を使い、思案しているらしい。


冬色としきは酒を飲まない。

みかどからも飲みに誘われたことがないので、飲みに行った事もない。


一緒に住んでいる間、共にしていた食事の際、みかどは晩酌する事があった。

けれども、自分のペースが乱れるからとお酌するのを断られた。

みかども嗜む程度だし、自分のペースを大切にするから付き合わされることがない。


20歳になった時に、少しだけみかどに分けてもらい飲んでみたが、よくわからなかった。

特に飲みたいとも思わず、今のところは飲んでいない。


もし、池秋ちあきが20歳になった時に一緒に飲むことを望むなら、飲み慣れておいた方が良いだろうか。


「僕の事は気にしないで良いよ。どうしたい?」


調理器具は一式揃っている。


夕飯は大抵ご飯を食べるから、5合炊きの炊飯器で4合炊いたご飯を小分けにして冷凍保管。

在庫が少なくなると、朝に夕方炊けるようセットして出かける。

4合炊きなのは、5合で炊くとうまく混ぜられないから。


「スーパーまだ開いてるかな。」


お腹は空いているかもしれないが、何か話したいことがあるのかもしれない。

と、冬色としきは思った。


「開いてるよ。

結構遅くまでやってる。」


池秋ちあきは162cm。

体重が標準よりもあるらしいが、本人は気にしておらずよく食べる。


「じゃあ、スーパーのお惣菜。

あと、1品だけお兄ちゃんが作ってくれたら嬉しいな。」


話しているうち、あっという間に最寄り駅。

冬色としきにとっては、行きと体感時間が違う。


話した通りに、スーパーでお惣菜と一品作るための材料を購入。

既にコンビニで買ったものが入っているエコバッグは割と大きめだ。

スーパーで買ったものを追加し、冬色としきの自宅へと向かう。


高校に入学してからというもの、池秋ちあき度々冬色としきの家に泊まりに来ていた。

池秋ちあきの私物を置くスペースは引っ越し直後から設けられていて、今では冬色としきのエリアも侵食している。


帰宅後、ブルゾンを脱いでハンガーにかけ手洗いを済ませると、早速キッチンで一品づくりに取り掛かった冬色としき

その脇で、カバンを置いて手洗いを済ませた池秋ちあきが、手早く総菜を食器に移しかえたりごみをある程度まとめたあと。


「先にお風呂入っちゃうね。」


と、バスルームへ。

池秋ちあきが入浴している間、冬色としきは黙々と夕食作りに勤しむ。

30分程で風呂から出てきた池秋ちあきが、制服をハンガーにかけながら。


「お兄ちゃん。洗濯物、今出てる分だけで回しちゃっていい?」


と、濡れた髪を拭きながら尋ねる。

脱いだ下着があるから、すぐに洗濯機を回したいのだ。


「タオルだけ替えてくれる?」


「はーい。」


キッチンや洗面所、トイレのハンドタオルを回収して洗濯機に放り込む。

洗剤と、複数ある柔軟剤の中から選び取った一つを所定の場所へ流し込んだ。

柔軟剤は池秋ちあきの好みのものがいくつか置かれている。

洗濯機のスイッチを押すと、慣れた手つきでタオルが入った引き出しをあけ、必要な分を持ちセットして回った。


冬色としきの部屋は1DK。

都内、駅徒歩6分の物件にしては広い方だ。

小ぶりだがカウンターキッチンになっており、椅子を2脚置いてある。

出来上がった一品や、器に移された総菜は一時的にカウンターへ置き、順番に電子レンジで温めていた。


「先に髪の毛乾かしちゃいな。」


8帖のフローリングには、こたつ、ベッド、本棚やカラーボックス。

テレビは置いていないが、池秋ちあきは事情を知っている。

何か見たければ自分のスマートフォンを使って動画サイトを見るから、不満に感じる事はない。


ドライヤーは冬色としきも使用する。

最初に買ったものは、3,000円程度の手ごろな商品だったが、2年前に壊れた。

現在のものは買いなおしたものだ。


壊れて新しいものを買っていないまま、正月に実家へ帰った時に話したところ、池秋ちあきが次に買うドライヤーを選ぶことを希望。

一緒に買いに行き、15,000円程で購入した。


池秋ちあきは肩の下あたりまであるセミロングヘア。

髪の毛の量が多いため、乾かすのに時間がかかる。

そのため、いつも洗面所に置いてあるドライヤーを洋間で使う。


自宅にいる時は静寂を好む冬色としき

実家にいた頃もテレビや、ゲームの類にも一切触れなかった。

映画は、観る時には映画館で観る。


新聞や本は読んでいたけれど、新聞社にこだわりはなく、本も趣味嗜好の類ではない。

勉強として読んでいる。


人に対してもおおよそ執着せず、実家にいる頃はもちろん一人暮らしするようになってからも誰かを家に招いた事は一度もなかった。

そんな中、唯一執着しているのが池秋ちあきである。


ちょうどドライヤーをかけ終わったタイミングで夕食の準備が整い、池秋ちあきがすぐに食べ始められるようにしたい。

今、冬色としきの頭にあるのは、それだけだ。


池秋ちあきがドライヤーのスイッチをオフにした瞬間、最後の皿をテーブルに置き、冬色としきは内心ガッツポーズをした。

冷凍にしてあったご飯も、電子レンジで温めて茶碗に移してある。


「なんだか、とてもたくさんになったね。」


池秋ちあきの目はキラキラして、嬉しそうだ。

冷蔵庫にはデザートのプリンも入っている。


「残ったら明日の夜僕が食べるから、食べたいだけ食べてね。」


お腹がいっぱいなのに無理して食べなくて良いんだよ、と、言う意味。

調理し直せば明日くらいまで食べられる。

多分残らないだろうけれど。


「うん。いただきます。」


池秋ちあきは目だけで何から食べるか物色している。


テーブルに並んでいるのは…

冬色としきが作った、蒸した鳥のささみに刻んだネギを乗せ、その上から熱したごま油と塩をかけたもの。

ついでに作ったほうれん草と油揚げのみそ汁。

スーパーで購入したポテトサラダ、きんぴらごぼう、ひじきの煮物、卯の花、ホッケの塩焼き、枝豆。

ホッケ用に、冬色としきが大根をおろした。


池秋ちあきは結局、みそ汁を最初に一口。

続いて鳥のささみを取り皿へ。


冬色としきは電気ケトルで沸かしたあと水筒に入れた白湯、池秋ちあきはスーパーで購入した2リットルのペットボトルに入ったお茶が飲み物。


冬色としきは、池秋ちあきが自分の作った品から手を付けた事実を噛みしめながら、白湯を二口。

続けてみそ汁を一口。

枝豆一さやの実を食べ、空のさやを用意しておいた皿へ入れた。


池秋ちあき、なにかあった?」


白湯をもう一口飲んだ後、水筒から注ぎ足しながら冬色としきは尋ねた。


「泊まることになってた友達の家、今日は親御さんが留守なんだって。

私、聞いてなかったから、驚いちゃった。」


吉岡家は、食事をしながらよく話す。

池秋ちあきが喋るようになってからというもの、実家では話題の中心は池秋ちあきになった。


「そりゃあ、驚くね。」


二人とも食事を進めながら、しかし口に物が入っていない状態でタイミングよく話す。


「それだけで、もう泊まれないじゃない。

親御さんが知らない間に勝手に泊まるなんて。

その上、男の子まで泊まる話になってた。

もう、ビックリなんてものじゃないよ。」


不満そうではあるものの、口調はあくまで穏やかだ。

興味を持つ年ごろとは言え、池秋ちあきの友達のだまし討ちみたいなやり方は、犯罪にも繋がりかねない。

池秋ちあきも、思うところがあるのだろう。


「それで、お母さんに電話して相談したら、うちに泊まれって?」


冬色としきは、いつでも抑揚の少ない話し方だ。


「お母さんには、私からお兄ちゃんの家に泊まるって連絡しただけ。」


言われるまでもなく、そんな状態では泊まれないと判断し冬色としきの家に泊まる選択をした。


「そうか。」


(偉いぞ!池秋ちあき。)


「それで、お兄ちゃんに友達の目の前で電話したの。」


留守番電話に残されたメッセージは、その時のものというわけだ。


「そうだったんだ。」


しばらく沈黙が続いた後、池秋ちあきが決心して尋ねた。


「ねえ、お兄ちゃんは…したことある?」


話の流れを考えれば、それがセックスの事だろうと検討がついた。

敢えて確認するのも野暮だと考え。


「ないよ。

恋人もいたことがない。」


次に質問されそうな内容も併せて答えた。


「したいと思う?」


冬色としきは少し驚いた。

けれども、敢えて食事をしたまま話を続ける。


「うーん…。僕は興味がないんだ。

小学校高学年にもなれば、知ってる人がほとんどになるよね。」


冬色としきは話をしながら食事をしつつ、池秋ちあきの動きを観察している。

だから、同じものを同時に取ろうとすることは、ない。


「うん。」


一方の池秋ちあきは、思うままに箸を運ぶ。


「僕は、周りの話についていけなかった。

まるで興味がなかったから。

中学になっても、高校になっても、大学になっても。

それはずっと同じ。」


それでも、自分をおかしいと感じなかった。

絆師きずなしのことで、自分が他の人と違うことがあっても変に思うことはないと、両親に言われ続けていたから。


「そっか。

私は、興味はあるよ。

だけど、早く経験した方がえらいみたいな空気なんだろう?って思うの。」


けれども、人は違うことを受け入れられないことが多い。

だから、話さない方が良いこともある。

決して恥ずかしいこととか、隠さなくちゃいけないわけじゃない。

ただ、理解できないことを人は怖いと感じてしまうことがある。

怖いと感じれば、一緒にいることが難しくなってしまう。

人それぞれ、怖いものは違うけど、知らないものを怖いと思う人は多い。


「そうだね。」


池秋ちあきにも、両親は教えてくれた。

僕のことを理解できるように。

怖いと感じないように。

でも、他の人は冬色としきのことを知ったら、怖いと思うのだと言うことを教えてくれた。


「私はね、結婚してからするものだと思う。

だって、高校生に子供は育てられないじゃない。」


池秋ちあきとって冬色としきが大好きなお兄ちゃんでいられるのは、間違いなく両親のおかげだ。


「…高校生の年齢で子供を産んで育てている人はいるけど、高校を退学するもんね。

確かに、高校生には子育てできない。」


それにしても、池秋ちあきは良い子に育った物だ。

と、冬色としきは感じた。

もっとも、最愛の妹が結婚する日を想像したくはない。


「お兄ちゃんは、付き合い始めてからどれくらいとか考えてたりする?」


(その立場で考えられないからな…)


「僕は、結婚しないと思うし、したいとも思わないから。

でも、理想を言えば結婚してからするのが良いと思うから、池秋ちあきと同じ意見かな。」


(他人事でしかなくて、申し訳ない。)


「確かに、お兄ちゃんが結婚って…ちょっと想像できないな。

なんか、お兄ちゃんはずっとお兄ちゃんとして、ずっと変わらずに居てくれるようなイメージ。」


間違いなくそうだろう。


「それは、僕から見た池秋ちあきもそうだよ。」


池秋ちあきの結婚など、想像しただけでも涙が出そうだ。


「そうだよね!お兄ちゃんは結婚するというか、誰かと付き合うことがこれからもないと思ってる?」


「うん。

恋人関係や、夫婦関係がこの人とならって言う人が、この先現れない限りは。」


(まあ、現れないだろうけど。)


「誰かを好きになったこともないの?」


「好きになる…の感覚が、恋愛とは結びつかないのかなぁ。

好きって言ってもらっても、よくわからなくて。

君が僕に向けてくれている好きと、同じ好きを僕は君に返せないから、って断ってきたよ。」


(毎回、不思議な顔をされたな。)


「お父さんとお母さん、結婚とかうるさく言わない感じで、よかったね。」


全くその通り。

ある程度の年齢になれば、結婚だの見合いだのと言われることが少なからずあるだろう。

だが、冬色としき池秋ちあきの両親は、結婚が全てではないと思っている。


世の中には一夫多妻制や一妻多夫制の地域がある。

複数の相手と同時に付き合うことを互いに了承しているような関係性もある。


それぞれの文化や生き方があるのだから、他人がどうこう言うことではない。

そんなのはおかしいと思うのは、思う側の勝手だ。


冬色としきはかつて、表向き不倫はいけないことだと言っているような人が、不倫をしている事実を目の当たりにして絶望した。

よくよく考えてみれば両親はどうなのか。


もしお互いに別の相手と関係を持ったことを知っているのなら、それは冬色としきが失望するようなことなのだろうか。


夫婦にしかわからないことが、ある。


急に両親に対しての見方に変化が起きたように感じたが、元々それほど失望はしていなかったのかもしれない。


時期が重なり、問題の根本は違うのに、表面上で起きていることだけを捉えて囚われていたのではないか。

各々が幸せならそれで良いのではないか。


「彼氏がいて、もう経験している子が妙に先輩面してくるの、あれはなんなのかな。

優越感に浸りたいのかな?」


池秋ちあきの年頃にはありがちなことだ。

冬色としきにも覚えがあった。


「もしかしたら、罪悪感の裏返しなのかもしれないよね。

自分を正当化したい、とか。」


「ああ。そうかも!!」


そんな話をしているうちに、テーブルの上にあった食べ物は残り少なく。


「プリン、すぐに食べる?」


冬色としきは空いた皿をまとめながら尋ねた。


「うん!」


食器を片付けるために冬色としきが席を立つと。


「お兄ちゃん、アイスも食べたい。」


池秋ちあきは既に入浴を済ませている。

外に出したくない。

時刻は0時近く。

いずれにしても一人で行かせるわけにはいかない。


「コンビニで買ってくるよ。」


「洗い物は、任せて!!」


冬色としきは思わず笑みを漏らした。


「バニラアイスな?」


「さすがお兄ちゃん。」


食いしん坊な妹のことを兄はよくわかっている。


「それと?」


「…チョコのやつ!」


バニラアイスはプリンと一緒に食べる用。

チョコのアイスは今日はもう遅いから、明日の朝か?

あるいは、食べるタイミングを逃して置きっぱなしにして、僕が食べることになるか。


「行ってくる。」


冬色としきは、他にも何か好きそうなものをいくつか買う算段をしながら

コンビニへと向かう。

さっき買ったのど飴は、冬色としきには不要のものなの。

池秋ちあきが持って行かないのなら明日事務所への差し入れになる。

これから買うものも、池秋ちあきが食べずに残したものは、持っていけるもであれば事務所への差し入れになる。


そんな調子だから、帝事務所の所員は、お菓子などの冬色としきがおおよそ口にしないものを持ってきた時には、妹が来ていたのだなと気がつくのである。


新商品を見かけると、池秋ちあきが喜ぶかも、と手を伸ばす。

アイスは勿論だが、お菓子や飲み物も。

くまなく見て回るので、冬色としきがコンビニに行くと最低でも15分はかかる。


池秋ちあきをカラオケ店まで迎えに行った時には出先だから控えていた。

家から近所のコンビニへの往復なら本領発揮だ。


コンビニから帰った冬色としきは、例によって頼まれてもいないたくさんの商品を携えていた。

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