信じるもの

帝事務所は、出退勤の時間を厳格に定めていない。


タイムカードで管理しており、規定の労働時間は週6日、1日あたり7時間。

超過分は10分単位で残業扱いになる。


何もなければ、皆おおむね9時前後に出勤し、1時間半の昼休憩を挟んで17時半前後に退勤する。

昼休憩が1時間半なのは、みかどの方針。


日曜祝日は休みだが、その通りに行くことはほとんどない。

場合によっては、24時間勤務になることもあるし、日曜日や祝日に出勤して代休を取るケースも少なくない。


依頼に関しては正確な所要時間を出すため、仕事に取り掛かる際ストップウォッチで測るようにしており、兼務中もしっかり分けている。


吉岡よしおか冬色としきの目の前で、一人の人が亡くなった翌朝。


8:41

一番早く出勤したのは、アルバイトの成川なりかわ公永きみえだ。


公永きみえは、通信制大学に在籍して2年目。

アルバイトとはいえ、高校3年生の頃から働き始めて約3年。

事務所の鍵を預けられている。


高校生の間、平日は毎日1~2時間。

土曜日は7時間勤務をしていた。

大学生になってからは、平日9:00~16:30の6時間勤務となり、土曜日は高校時代と同様。


学生である公永きみえだけは、勤務時間を厳守出来るよう主に冬色としきがなるべくフォローしている。


公永きみえは、言霊師ことだまし

絆師きずなしとはまた別の能力者だ。


言霊使いという言葉は広く知られているが、できる事は、誰もが実現可能な範囲にとどまるだろう。

真の能力者である言霊師ことだましが耳元で「制止」と言えば、10人中10人が間違いなく制止する。


依頼内容によっては、まったく絆の繋がれていない人同士に、絆を作らねばならないことがある。

しかし、無から絆を生み出す行為は絆師きずなしにとっての禁止事項。

最初の絆を作るきっかけとして、公永きみえの存在が重要だ。


仮に、一方的に知っている相手に片想いしている者から、相手と知り合うきっかけ作りを依頼されたとする。

その場合、まず最初に行うのは、対象の行動パターンを調査・分析。


その後、対象者の視界に入る場所や日時を選定。

依頼者と事前に打ち合わせを行い、示し合わせて、対象の目の前で目を引く行動をする。


例えば、買い物した物品などが入った袋へ故意に穴を開けておき、依頼者の前でタイミングよく中身を落とす。

それを依頼者が拾う、と言うような事だ。


「大丈夫ですか?」


この声掛けを、敢えて大きな声で行うだけでも、注目度は上がる。

しかし、まだ確実とは言えない。


「あ、すみません。ありがとうございます。」


おおむね、対象ターゲットが男性の場合は冬色としき、女性の場合はみかどがこの役を担当する。

けれども、物を落とした方も少なからず目を引く。

だから、最終的には対象ターゲットの恋愛対象となる性別や好みの顔を考慮し、決めている。


より確実に近づけるために、対象ターゲットが手伝うよう促したり、少なくとも対象ターゲットが依頼人を見るよう仕向けるのが公永きみえの重要な役割だ。

そうして、絆の繊維が僅かでも結ばれれば、あとは絆師きずなしの仕事。


とはいえ、絆の種類が選べるわけではないから、恋愛関係に発展させられるか否かは依頼人次第。


絆は、根本的に全て同じ。

関係性を決めるのは、個々の感情だ。


日本古来の術者や能力者同士は、ある程度の繋がりがある。

絆師きずなし言霊師ことだましは、昔から協力関係にあった。


絆師きずなしに禁忌があるように、言霊師ことだましにも禁忌がある。

だから、古くから互いに補い合ってきた。


帝事務所は、絆師きずなしを統括している桃院とうのいん家のお墨付きをもらい営業している。

言霊師ことだましだけでなく、他の術者や能力者が実践的な修行を行う場として、紹介される事も多い。


帝事務所から、必要としている人材を提示する事も可能。

おかげで、依頼に応じた人員の補充も容易。

公永きみえも、公苑くおんの紹介だ。


「おはようございます。」


8:54

冬色としきが出勤し、公永きみえに挨拶した。


吉岡よしおかさん。

おはようございます。」


公永きみえは、高校生の頃から浮いた感じがない。

同じ年ごろの同性に比べれば、大分落ち着いて見える。

それでも、帝事務所では華やかで明るい雰囲気を放っていた。


少し大きめの柔らかい目元。

すっと通った鼻筋に、どちらかと言えば薄く小さい唇。

茶色い地毛、白い肌を見れば少し色素が薄いのだと感じる。

身長は、あと5mmで160cm。


公永きみえは、ひだまりに咲く花。

みかどは、月明りに照らされた花。

そんなイメージだ。


二人と比較すると、冬色としきは、温室育ちのトゲなしサボテンあたりだろうか。


公永きみえは昨日に引き続き、加藤かとうからの依頼について必要な情報を集める予定だと、既にホワイトボードに書かれている。

歩き回る事が多いため、特別指定がない限り、いつも履きなれたスニーカー。

どこに居ても違和感がない服装は、他に形容しようがなく唸る程だ。


今回の依頼人である加藤かとうは、妻子との縁切りを希望している。

仮に、絆師きずなしが直接依頼を受ければ、依頼された通り可能な範囲で絆を調整するだけだろう。


しかし、その依頼の背景には必ず何か理由がある。

時には問題さえ解決すれば、そもそも依頼が不要という事もあるのだ。

故に、必要がなさそうな情報までも徹底的に集めるのが、帝事務所流。


9:13

みかどは、昨夜髪を上げたままで帰宅したため、珍しく髪を上げた状態で出勤した。


「おはよう。」


自分のタイムカードを機械に通しつつ、二人のタイムカードに打刻されている時間を確認しながら言った「二人とも早いわね。」は、二人から返ってきた「おはようございます。」でかき消えた。


「3人揃っているから、ミーティングをするわね。

10分後に始めましょう。」


みかどは、自分の席に向かいながら二人に伝える。

冬色としき公永きみえは、返事をしつつも既に準備を始めていた。


現在、帝事務所の正式な所員は3人。

それ以外は、短期のアルバイトを雇う事があるだけ。

長期のアルバイトは冬色としきが最初で、公永きみえが2番目だ。

アルバイトは、いずれも何らかの能力者か術者である。


これまで、首都圏の依頼はみかど冬色としきでこなしてきた。


冬色としきがアルバイトとして働き始めるまでは、絆師きずなしが正式な所員として働いた事はない。


手伝ってもらい、謝礼を支払うという形は何度かあったが、帝事務所が営業を開始して以来、20年間に両手で数えられる程度。

遠方の依頼や手に余る仕事は、公苑くおん家に一任している。


それでも、強い要望があり対応可能と判断した場合のみ出張した事はあるが、こちらに至っては片手で数えられる程。

何しろ、出張費が別途発生するのだから、依頼する方が大変だ。


みかどは、元より『禁忌の一族』という異名や当主との個人的な関係があるから、桃院とうのいん家を訪れる際には他の絆師きずなしが居ない時を狙っている。

それ故に、冬色としきが直接会った事のある絆師きずなしは、みかどだけ。


だが、短期でアルバイトを頼む術者や能力者とは一緒に仕事をすることは何度もあった。

中には度々手伝ってくれる者もあり、冬色としきが友人関係を築いている者もいる。


小中学生の頃には、絆師きずなしの能力制御は不完全だった為に、体調を崩すことが多かった冬色としき

人間関係では特に苦労し、みかども両親から度々相談を受けていた程。


覚悟が決まるのと、限界に達したのが、ちょうど同じくらいのタイミングだったのだろう。

14歳からみかどに直接教わるようになり、能力制御が上手くできるようになると、一般的な高校に通う事に前向きな姿勢を見せるようになった。


それでも、人間不信や疑心暗鬼に襲われる事は度々あり、冬色としきは未だに人間関係を積極的に広げる方ではない。


何とかしてやりたかったが、同年代の絆師きずなしは遠方におり、引き合わせてやることも叶わなず

だから、冬色としきが別の術者や能力者と友人関係を築いているのを見た時、みかどはとても喜び安心した。


ミーティングは、常に表の応接室で行われる。

奥の会議室には専用の鍵が取り付けられている。

その鍵はみかどだけが管理しており、公永きみえはもちろん、冬色としきですらあまり入った事がない。


応接室は、業務スペースとの間をパーテーションで仕切り、4人掛けのテーブルにキャスター付きのパイプ椅子を4脚置いた簡素なもの。

秘匿性は低い。


事務所の掃除は公永きみえが担当しており、10分ほどで奥の会議室を除く床全体に掃除機をかける。

その後、応接室の机を水拭きする。

冬色としきが出勤した時、ちょうど水拭きを終えたところだった公永きみえは、雑巾を片手に挨拶していた。


「どれほどの範囲を調べる必要があるのかまだ不明なので、今のところは私一人で大丈夫です。」


公永きみえが、昨日調査した内容の報告と、今日の調査予定を話し終える。

みかどが、いくつか指示を返してからひと呼吸おき、昨日冬色としきの身に起きた事を差し支えのない範囲で説明した。


「それはお疲れ様でした。」


公永きみえが労うと、冬色としきは軽く頭を下げた。

3年ほど仕事を共にしていても、この二人の距離は微妙である。


冬色としきは、警察からの呼び出しがあった時にいつでも対応できるよう、事務所で待機していて。」


「はい。」


「じゃあ、手が足りなくなった時のヘルプ要請は、所長へとご連絡してよろしいでしょうか。」


公永きみえは幼い頃より、常に美しい言葉を選び、陽の気を持つ言葉と陰の気を持つ言葉を正しく使うよう教育されている。

意図せずとも、言葉に霊が乗り、力として発せられることがある言霊師。

他者にとって脅威となりうるから、言葉に注意するのは必定。


「ええ。お願いね。」


「かしこまりました。」


公永きみえの声には不思議な響きがある。

女性と判断できる声域ではあるが、比較的低音域で心地いい雰囲気。


「私は、公苑くおん経由で警察関係者に加藤かとう様に何かないか探りを入れておきます。

公認会計士なら、何かしら仕事がらみのトラブルが原因で妻子と縁を切ろうとしている可能性があるから。」


公認会計士とは、厄介な仕事だ。

いかに気をつけようとも、知らぬ間に粉飾決算の片棒を担がされることがある。


他人を信用する性格であれば、より巻き込まれやすいと言える。


「僕は、ネット上で調べられる交友関係、トラブルの洗い出しで良いですか?」


「ええ。

これは、昨日私が調べておいた分よ。」


「ありがとうございます。」


ミーティングは15分ほどで終わり、公永きみえは手早く準備を済ませ。


「いってきます。」


と、元気よく出かけて行った。


「昨日は、ちゃんと眠れた?」


みかど冬色としきは、まだ応接室でいくつか確認作業をしていた。


「はい。

思っていたよりも疲れていたようで、いつもより良く眠れました。」


冬色としきが一人暮らしをするようになってから、5年。

なぜ一人暮らしをしようと思ったのかを、みかどは一度も尋ねていない。


一緒に暮らしていた時には、みかどが食事作りを当番制にしていたから、食事は何があっても一緒に食べた。

冬色としきは、一人で生活するようになってからと言うもの、食事の時間がとても寂しいと感じている。


みかどと暮らしている間、個室を与えられプライバシーは守られていた。

窮屈だと感じたこともないし、嫌なこともない。

むしろ心地よかった環境を、今でも恋しく感じることがある。


そんな思いを吐露しそうになるのを、この5年間、冬色としきは度々堪えていた。


当時一人暮らしをしようと決めたのは、いつまでも師匠のお宅に居候するのは甘えているし、いつかは出て行くことになると理解していたから。


更には、休日前の晩から必ず留守にするみかどが、おそらく桃院とうのいん家に通っていると察していた。

自分が一緒に住んでいることで、桃院とうのいん家へと移り住むことが出来ずにいるのかも知れない。

そう感じたから。


誰かと肉体関係を持つと、絆が赤く色づき、その色の変化は2〜3日で元に戻る。

休日明け、みかどの絆はいつも赤みを帯びていた。

その絆は、あまりに特徴的だから当主との間にあるものだとわかる。


絆の見え方は能力の制御を覚えれば調整できるから、目の前にいる人から伸びている絆だけを、周囲1mくらいのイメージで見ることが可能。

伸びている絆を追いかけて相手を探すこともできるが、恋人同士だとて普段生活している家同士が異なればその距離は様々。


更に、絆の絡まり方は、些細な事でも変化する。

身体を重ねれば、絆の絡まり方は当然変わる。

日々変化するものだし、突然太くなったり細くなることだってあるのだ。


印がついているわけでもなし、誰と繋がっている絆なのかは、その場に二人揃っていなければ通常わからない。

それでも、一見してわかるほどに特徴的な絆が、桃院とうのいん当主とみかどの間にはあった。

その絆は、冬色としきみかどを信頼する理由の一つでもある。


冬色としきが小学生の時には、友達同士のいざこざと絆の状態の不一致で人間不信になった。

悪口を言ったり、喧嘩をしたり、子供同士とはいえ色々ある。

そんな中で、絆師きずなしの能力がある者は、表面的な言葉がどうであれ絆の状態を見てしまう。


高学年にもなれば、なんとなく性的な知識がついてくる。

教員の浮気や不倫が目に見えてしまい、大人に対する不信感を抱いた。


同時に、気がついてしまった。

自分の両親の間にある絆が赤みを帯びたのを見た記憶がある。

夫婦なのだから当然のことだ。

だが、両親の間にある絆ではない、父から他の誰かと繋がっている絆が赤みを帯びたのを見たことがある。

母の方にも、あった事だ。

それが何を意味するのか、理解してしまった。


中学になると、こんどは生徒同士の間にさえ、色恋沙汰のあれやこれやが見えてくる。

大人同士の間はもちろんのこと、生徒と教師の間にも赤みを帯びた絆を見たことがある。

表面上はどう繕っていても、裏では何をしているかわからない。

もはや誰を信用して良いかわからなかった。


みかどの絆には嘘がなかった。

言動と絆の有り様が一致している。

そして、当主との関係は揺るがない。

当主に妻があるのは、名家故に避けて通れなかった結婚なのだろうと理解していた。

なにより、当主と妻の間にはかろうじて繋がっている程度の絆があるだけなのだ。


自分が本当に思っている、思い合っている相手がありながら、結婚しなければならなかった。

そんなことがあれば、多少なり歪むだろう。

当主の威嚇が、可愛くさえ感じられる。

桃院とうのいん当主とみかど

二人とも、とても正直だ。


冬色としきには、10歳年下の妹がいる。

自分が絆師きずなしだったことで、両親が二人目の計画を変更した為に10歳も離れた。


冬色としきは、両親がきちんと自分と向き合い、絆師きずなしという特殊な能力を持つ子供を育てることに注力してくれたことを感謝している。

だから、妹が6歳の時に家を出られた事は良かったと思った。

妹に、自分がそうしてもらったように両親の愛情を一身に受けてほしい。


妹の世話を手伝うことができたことも、良かった。

自分にとって、初めてできた守るべき存在。

必要とされているようで、自分がほんの少し実際よりも大きく感じられた。


しかし、妹との間に絆が見えない。

両親から、冬色としきから、確かに妹へと向かって絆が伸びている。

にも関わらず、妹の周囲1mほどは絆が見えないのだ。


どうやら妹は特異体質で、絆師きずなしの能力を持ってしても絆が見えないらしい。

その事は、みかどにも確認済みで、公苑くおんにも報告されている。

昔から、ごく稀にそう言う者はいたらしい。


そんな風だから尚更、冬色としきは妹にべったりだ。

どう頑張っても絆が見えないのだから、妹が何を言っても絆と一致しているか否かを確認しようがない。

不信感も抱きようがない。

冬色としきは、妹に対してだけは無条件にすべてを許容している。


両親には感謝しているし、大切なことを教わった。

けれども、信頼という意味ではみかどの方が厚い。


冬色としきにとって、妹は絶対的な正義。

その次にみかどなのだ。


だから、わだかまりは解消したい。

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