第8話 名前は?

「‥どうぞ」

不機嫌そうな声とは裏腹に目の前に置かれたのは紅茶の入った紙コップだった。


それに僕は「どうも」と一言お礼を言って口に運ぶ。

口一杯に広がる紅茶の香りと冷たさが心地よく染み渡っていく。

ファーストコンタクトは間違いなく失敗したが、全く歓迎されていないわけではないのかも知れない。

そう思うと緊張も少し和らいで、周囲を見る余裕が出てきた。


通された天文部の部室の中には色々な物が置かれていた。

綺麗に整頓された望遠鏡やら、色褪せて所々テープで補修された星座のポスター。

それとは別に、机やら棚に乱雑に置かれた私物。


一見雑多なのに掃除が行き届いてるおかげで不潔さは無い。

まるで、そういう雑貨屋みたいだ。


見ているだけで色々と面白い場所だが、キョロキョロするのもどうかと思って視線を正面に戻す。

正面に座る先輩はそんな僕の様子をパイプ椅子を揺らして興味深そうに見ていた。



「それで一年生が何の様。もしかして相談?」


「相談?いや、僕は別に顧問の先生にこれを渡されて」


そう言って職員室で渡された一枚の紙を取り出す。

先輩は意外そうな顔でその紙をじっくりと見る。


「‥本当に入部希望じゃん‥物好きねこんなとこに来るなんて」


「‥まぁ、北野先生に勧められたんで‥」


「北野?‥あぁ名ばかり顧問ね。一度も部室に来たことないくせにようやるわ」


あの人来たこともない部活に僕を誘ったのか。

生徒想いの先生みたいな雰囲気出していたくせに‥少し感動してしまった自分が恥ずかしい。


「へぇ、というかアンタ只野って言うの‥下の名前は、咲月?やば似合わなすぎ。なんか面白いから咲月って呼ぶわ」


先輩は紙と僕の顔を交互に見て笑う。


余計なお世話だ。

自分だって、あんまり似合っていないとは思っているけど、他人に改めて言われるのはむかつく。


「じゃあ先輩はなんて言うんですか」


「私?私は‥番原。‥番原優」


「ゆう?もしかして優しいって書いて?」


「そうよ。なんか文句ある?」


僕以上に名で体を表していない。こんな優しさのかけらも見当たらない人が優とは。

まぁ、そんなことは口が裂けても言えないが。


「いえ別に‥そういえば、番原先輩以外の部員って今日は来ていないんですか?」


「そうよ‥今日は私1人。まぁそろそろ、相談者が来るかもだけど」


「相談者?何ですかそれ」


「何って、咲月はうちの本業も知らないできたの?」


「えっ、だって天文部でしょ?あの天体観測とかをする‥」


「まーそれもあるけど‥何故か知らないけどウチには別の活動があるのよ。それで相談者っていうのは——」


番原先輩が呆れた様子で、何も分かっていない自分に教えてくれようとした時、ドアの向こう側から廊下の軋む音が聞こえた。

そして、すぐにドアをノックする音が部室の中に響く。


正式に部員になったとは言えないものの後輩である自分が出るべきかと思いながら、先輩を見ると

「咲月ー」と僕の名前を呼んで、片方の足を軽く上げてドアの方を指した。


僕に行けってか‥

早速できた後輩をこき使う気満々だ。


本当に自分が応対して良いのかと思いつつも、逆らうこともできないので渋々ドアを開ける。

するとそこには見慣れた2人に姿があった。


◆◇


Side:早乙女


何でもない学校での1日が終わる。

特別な事など何1つとしておきず、ただ日捲りカレンダーを捲る様に過ぎる。

でもそれで良かった。それが良かった。

何事もなく、ただいつもの様に彼と話して、揶揄って、一緒に帰る。

彼を異性として意識づけられたあの日からそれが普通で特別になった。

でもそれが、年輪の様に‥深々と降る雪のように積み重なっていき、掛け替えのないものになっていく気がした。


でも、今日は違った。




放課後に響いた校内アナウンスは、確かに只野を呼んでいた。

ちょうど掃除当番だった私は、黒板消しを持ちながら珍しいこともあるものだと思った。

呼び出した先生は、社会科の北野先生だけど、只野クラスは受け持ちではなかった。


なんだか、嫌な予感がする。

これが女の感というものだろうか?

でも、この間の中庭騒動の時はそんなの全然働いてやくれなかった。

じゃあ、なんでこんなにも騒つくのだろう。


逡巡する思いは、深緑の色の前で手を止めさせた。


「手伝うよ‥貸して」


そう後ろから覆い被さる様に掛けられた声は手に持っていた黒板消しをスーッと奪い取って行った。

振り返ると、自分よりも10センチ以上高い身長の男子が立っていた。


「ごめん、届かなくて困っているのかと思ってさ」


そう言ってその男子は人好きのする笑顔をこちらに向ける。


確か‥常盤くんだっただろうか。

朧げな記憶を頼りに、目の前のクラスメイトの名前を思い出す。


仲の良いクラスメイト達がよく話に出していた気がする。

正直、まともに話した事のない異性なんて煩わしいだけで興味が無かったから

適当に流していた。


「ありがとう‥常盤くん」


「常盤くん何て他人行儀なのやめてよ、廉でいいよ。クラスメイトなんだしさ。その代わりと言ったら何だけど俺も早乙女さんの明さんって呼んでいい?」


戯ける様に常盤くんが言う。

只野が言ったら吹き出すような言葉だったが、常盤くんが言うと不思議としっくり来る。

それは彼の容姿が優れていることや、彼が醸し出すカーストの上位にいるという自負、自信からそう思わせるのだろう。


あぁこれはモテるだろうな。


男女の機微に疎い私でも分かった。

周りが彼の話題を出すのも納得だ。


でも同時に、私はこちらに向けられた眼にどうしようもなく欲を感じてしまった。

男女の差異を感じさせられ始めた頃から幾度となく向けられてきたものだった。

私の嫌いな眼だった。


「ごめんね。私、下の名前で呼ばれるの好きじゃないんだ」


「え、何で?」


拒絶されるとは思ってもいなかったのか、常盤くんの声は少し低くなる。


「だって、私の名前ってどちらかと言うと男の子ぽいでしょ?」


適当な言い訳だ。

同じクラスに居て美菜が私の事を呼んでいるところ見ていればすぐにバレる様な嘘。


「そうかなぁ。俺は、そんなこと無いと思うけど。寧ろ、早乙女さんって凛とした感じだから似合ってるよ」


言外に伏せられた想いも、常盤くんには通じなかったのか、優しげな言葉が返ってきた。


「常盤くんは優しいね」


「そうかな?これくらい普通でしょ」


優しいよ。

優しくて中身が無くて薄っぺらい。

自分のために出す優しさそのものだった。


優しいという言葉はいつから褒め言葉にならなくなったのなぜだろう。

それ以外褒められそうなところが無い言葉に貶められたのは。

すぐに剥がれる薄皮よりも価値が無くなったのは。


きっと、それは本当の優しさが希少なものになったから。

世にある優しさは返報性の原理に縛られた、見返りを期待したものが溢れている。


私がこんな風に考えてしまうのはきっと出会えたからだった。

自らの気持ちや利益を考えず、他人の事だけを思う賢者の贈り物に。


早く会いたいな‥。




◇◆


扉を開けるとそこにいたのは、見知った顔が2つ。

1つは、中学時代に散々に河上さんとのゲロ甘空間を見せ付けてきた山内。

そして、もう1つは、何故かこちらを睨みつける早乙女だった。


山内が何故ここにという疑問も、その隣にいる早乙女を見れば吹き飛んでしまう。

何でコイツこんなに不機嫌なの?


「何で2人が?」


俺が2人向かって聞くと、山内が横を気まずそうにひと目見て答える。


「たまたま本校舎のとこで会ってさ‥天文部に行くって言うから俺もココに用があったから一緒に」


「そうなんだ。なんかすごい偶然だな。じゃあ‥あの早乙女‥さんは?」


山内の天文部への用も気にはなったが、それよりも早乙女を無視してまで話を広げる度胸がなかった。


「‥あきら」


常に明朗快活といった様子の早乙女には珍しく、ボソボソと呟いた。


「あき‥ごめん何?」


思わず聞き返すと、早乙女の顔が夕日にあてられたように茜色に染まっていく。そして、息を吐くような小さな苦悶の声が上げてこっちをキッとした目で睨みつけた。


「だから!あきらって呼んでって言ってるの!」

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