こうちゃん
沖 一
こうちゃん
旧友たちと5年ぶりに会うために出席した同窓会はすでに主目的を達成していた。軽い近況報告を済ませて皆元気そうなのも確認したし、連絡先も交換したし、それに見たい顔も見る事ができた。それでもまだ座敷の端の方で適当な相手とだべっているのは、もう少し飯と酒が欲しかったからだ。
だから旧友と呼ぶに相応しい人間のうちの一人である瑛士がぐるりと一週し終わって僕の隣に腰を下ろしてくれたのは行幸だった。
「もう他はよかったのか?」
「あぁ、大体回ったよ……溝永さん見た? あんなんなってるって知らなかったからさっき見た時にクソビビった」
「そんなに? 溝永さん見落としてたかも。気づいてないな」
「5年で何があったんだろなって感じ。こうちゃんの反応も見たかった、あいつ確か好きだったはず」
「…………たっぴーは大分お熱だったからな、まぁショックだろうよ」
「そっか! そこの二人か! ふふ、二人並べて溝永さんの前にもっていきたいな……」
「……なぁ、“こうちゃん”って“たっぴー”の事じゃねぇの?」
「え? いや、違うけど。たっぴーは多比岡 宏太郎だろ?」
「あぁ」
「ほら、なら違う。男テニのこうちゃんだよ」
あぁ、そっか、なんて生返事を返したが、全く覚えが無かった。それに、もし本当に男テニだったなら……
「お前、男テニじゃなかったっけ」
「……あぁ」
瑛士の怪訝そうな視線が僕の視線とぶつかった。
「なぁ本当に中学の男テニか? 高校のじゃなくて」
「いや絶対にここだ……こうちゃんエピソードなら、2年の時に京都に行く班決めでクジになってさ」
「僕らで細工したんだよな、箱の内側に3番と4番と」
「9番と11番のクジを貼っつけたんだよ、米粒で」
「9番? 3と4と11だろ」
「いや、絶対に3と4と9と11だ。それで僕らの中でたっぴーが一番初めに引いて」
「11番を引いた」
「11番を引いた」
僅かな沈黙。続きを切り出したのは瑛士だった。
「その後に3番を引かなきゃいけないのに」
「僕が4番を引いた」
「僕が4番を引いた」
お互いを見る目は怪訝なものから明らかな異物を見るものに変化していた。
二人の記憶の中でほんの僅かなズレを除いて一致している。しかしそのほんの僅かなズレが歯車に挟まった小石のように致命的な不具合を生み出している。
別に大した事ではない、と口にしてしまうのは簡単だった。けれど5年ぶりにあった旧友に対し、もしかすると本当にいて僕が忘れているだけかもしれないかつての友人を存在しないという結論のままちゅうぶらりんにする事はあまりにも気持ちが悪かった。
そばの水を飲んだが、ぬるくなった水は喉を潤してくれても清涼感は欠片も訪れない。
「ビール、よくなかったかも。トイレいってくる」
「……あぁ」
トイレには先客がいた。鍵がかかっていて待つしかない。僕は壁にもたれかかって他の事を考えようとしたが、頭の中はどうしても“こうちゃん”の事でいっぱいだった。そもそも大して用を足したかった訳ではない。膀胱の中がおしっこでいっぱいではないのだから頭の中だって他の事で満たされるに決まっていた。けれど部活での記憶を振り返っても“こうちゃん”なんていなかったし、瑛士と二人で話し合った思い出の中にも記憶違いがあるとは思えなかった。
思わず片手でこめかみを揉んだ時に長く閉じていたトイレの戸が開いた。たっぴーだった。
渡りに船だ。
「お? どしたん? 話聞こか?」
「たっぴー、聞いてくれ。こうちゃんって誰か分かるか?」
「こうちゃん……俺の事じゃなく?」
「違うんだ。瑛士が男テニいただろって。それと! 2年の頃に京都のクジでさ」
「えーと、俺が11番を引いて、その後にお前が3番を引いちゃって瑛士が目当ての4番に入れなくなったんだよな。瑛士はしょげて機嫌直さないし、お前は謝るのと元気付けるのに疲れてすねちまって」
「だよな、だよな!」
「あん時はすげぇ面倒臭かったもん、忘れんよ」
「その折は本当に悪かったと思ってる」
だけどこのエピソードがこんなにも僕を安らがせてくれる時が来るとは。少し酒が入ってるせいもあってもう涙が出そうだった。おまけに尿も少々。
「そういや溝永さん見た? 俺あんなんになってるって知らなくってもうマジで本当に……あぁトイレ来たんだったな、悪い悪い。俺はちょっと瑛士探してくる」
「あぁ、頼むよ」
胸のつかえが取れた気分での放尿はまた格別に清々しいものだった。身体の中に溜まっていた澱みがスッキリと体外へと流れ出ていくのを感じる。ノブを捻ればその澱みは渦に巻き込まれて下水道へと流れていく。サヨナラだ。
ペーパータオルで手を拭いてトイレを出る。早くたっぴーと共に瑛士の記憶違いを正しておかないと、また時間が経って一対一で詰められたりしたら敵わない。
僕がさっきまで座っていた場所を見れば、そこには残念な事にたっぴーしかいなかった。
「よ、瑛士は?」
「戻ったか。こうちゃんがようやく駅に着いたらしくってな、迎えにいったよ」
「誰って?」
「こうちゃんだよ。着くのが遅れるって言ってただろ」
「こうちゃんってどのこうちゃんだよ」
「男テニのだよ」
「お前さっきは男テニにこうちゃんはいないっつったじゃねぇか!」
思わず張り上げた声に周囲数メートルが静かになった。だがヒートアップしているのは僕だけで、たっぴーが僕を宥めようとしていると見るや周囲の喧騒が感染するようにまたガヤガヤと賑わいは戻っていった。一方でたっぴーは「落ち着けよ」と胡座を組み直して僕に向き直るも、何を言うべきか見つからないようだった。
だがやがて口を開く。
「こうちゃんとなんかあったのか?」
聞きたかったのはそんな言葉ではなかった。こうちゃんなんて確かにいなかった。さっきのくだりは冗談だと言って欲しかったのに、瑛士に続きたっぴーまでこうちゃんなる奴の存在を認めている。
「僕もこうちゃんを迎えにいくよ」
「え?あぁ、瑛士が出てから少し時間も経ってるからもしかするとすれ違うかもしれないけど」
「いやいい、待ってられない」
「俺も行こうか?」
「一人でいいよ」
迎えに行こうと思ったのはここで来るか分からないこうちゃんをただ待っているのはじれったかったからでもあるし、言う事がまるっきり変わってしまったたっぴーといるのがどうしても気味悪く感じてしまったからでもあった。
靴を履いて店を出れば夜の街が広がっている。店と駅を繋ぐ一番大きな通りは街灯や他の店からの光で照らされていて、ここを通る二人組がいればまず見落とす事は無いと思えた。
上着の要らない秋の夜の涼しい風が今日は冷たい。寒さに身震いしてポケットに手を入れて歩き始めた。
瑛士がこの道のどこかにいるはずだった。駅まで歩いて5分かそこら。それまでに必ずかち合う。一人ぼっちか、僕の知らないこうちゃんとやらと一緒にいるはず。
こうちゃん。何者なのだろうか。どうやってか瑛士の思い出に入り込み、いつの間にかたっぴーの記憶にも滑り込んでいた。僕には男テニの部員としての心当たりはもちろん、京都のクジの9番の記憶もない。だが瑛士はこれらの情報を上げてきたし、それに確か、たっぴーと同じで溝永さんに気があったらしい。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。得られた断片的な情報は、それだけ。次に尋ねた時にはこれらは全部冗談だったと言ってくれる方が余程すっきりするのに。
駅に着いていた。
ふと目の焦点が合えば、もう駅の目の前だった。先に行っていたはずの瑛士の姿はもちろんなかった。こうちゃんの有無はともかくとして瑛士とすれ違っていたなら気づかないはずは無いのに。
僕は駅に背を向けてスマホを取り出し、今日知ったばかりの瑛士のラインに電話をかけながらまた歩き始めた。だけど繋がらない。もはや質の悪い冗談なのではと思えてきた。
なんなんだ、こうちゃんってのは。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。瑛士にもたっぴーにも、もう一度聞いてやる。確かに二人の口から聞いた情報なのだから。男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
店に着いていた。
ふと目の焦点が合えば、もう店の目の前だった。やはり瑛士の姿はなかった。もちろんこうちゃんの姿も。一体どこにいるんだろう。男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
ともかく店に入ろう。入れば分かるはずだから。店に入り、同窓生の集まる座敷を目指す。早く見つけよう、瑛士とたっぴーとこうちゃんを。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
店を出る前に僕が座っていた辺りに向かって歩いていた時のことだった。トイレにでも行くのだろうか、ひょっこりと僕の進路の前に現れた女子とぶつかりそうになった。
「わ、ごめんごめん」
「いや、こっちも……溝永さん?」
「そうだけど」
すんなりと彼女の口から現れた肯定は耳に入っても脳みそが易々と受け入れはしなかった。かつての溝永さんは肩まで伸びる真っ直ぐな暗い茶髪にスラリとした体つきに利発そうな態度で同い年とは思えない大人びた雰囲気をもった少女だった。だが目の前の女子は違う。金髪は度重なるブリーチで元の色と髪質がすっかり損なわれている。かつてのスラリとした印象も中学3年生の僕らからの視点であって、高校生を経て20歳も迎えてすっかり背の伸びきった僕からはむしろ……これ以上は言うまい。ただ一つ付け加えるなら左手の薬指には指輪があった。
なるほどこれはかつての恋心を寄せていた連中にはかなりショッキングだろう。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
そうだ、こうちゃんが溝永さんを好きだったはずだ。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
溝永さんに呼び止めた事を謝ってまた座敷を歩き始めた。ぐるりと一週するように歩いてようやく瑛士が胡座をかいて座っているのを見つけた。どうやら誰かと話をしているみたいだった。あぁ、早く、男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
話のキリがよかったのか相手の会話が終わって僕の方に向いた。
「もう他はよかったのか?」
「あぁ、大体回ったよ」
そっか、と言ってビールを飲んでいる。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
僕は口を開く。
「溝永さん見た? あんなんなってるって知らなかったからさっき見た時にクソビビった」
「そんなに? 溝永さん見落としてたかも。気づいてないな」
そうかまだ見ていないのか。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
「5年で何があったんだろなって感じ」
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
男テニ。3・4・9・11のクジ。溝永さん。
「こうちゃんの反応も見たかった、あいつ確か好きだったはず」
目の前でビールを飲んでいた顔が、僅かに眉をしかめた。
こうちゃん 沖 一 @okimiyage
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