第5話

 俺は営業マンにこの辺を歩いてみたいからと言って、物件の前で別れた。それが失敗だった。不動産屋とばったり出くわす可能性があるから、明るいうちに家に帰れない。一応財布とスマホは持っていたけど、近所だから薄着で出て来てしまった。薄着と言ってもダウンジャケットは着ているけど、外出の時は中にもっと着こんで暖かくして出かけるのに。外を歩いているとやはり寒かった。


 暗くなるまで近所のカフェで時間を潰さなくてはいけなかった。スマホはバッテリーがなくなりかけていた。


 俺は日が暮れてから家に帰った。すると、友山さんの家の駐車場に車が止まっていたのである。車種はレクサスだった。世界に誇る優秀なハイブリッド車。維持費の高いベンツより合理的な選択だ。金持ちは車種なんて特にこだわらないのかもしれない。


 今、家の中に友山さんがいるんだ。何だか怖い。奥さんと娘を殺害した野郎だ。品のいい皮を被った狸おやじ。高級住宅街に住みながら、反社がらみとは恐れ入る。車体に十円玉で傷を付けたい気持ちを抑える。誰かやって欲しい。


 県外ナンバーだった。そう言えば自転車がなかった。早速捨てたのか。彼が家庭を捨てたように。


 俺は友山さんが出てきたらどうしようと言うのと、見てみたいという欲の両方に引き裂かれていた。


 俺は不自然に見えなくように、友山さんの家の前を通り過ぎて、暗がりで鍵を取り出した。鍵を鍵穴に差し込んでくるっと回す。ドアノブを引いて、ドアを開ける。無意識の動作が目の前に繰り広げられるつもりでいた。


 ガタン。


 え?俺ははっとした。ドアが開かない!あれ、あれ?やば!俺、鍵を閉めてなかったのか!俺はぞっとした。


 どうしよう。空き巣に入られていたら!


 俺はパニックだった。玄関に通帳を置いているんだ。出かけた時に、さっと持って記帳できるようにしている。慌てて通帳の入っているバッグを見たら、すべて元通りだった。取り敢えずほっとした。次は誰か隠れていないか家中を調べた。カーテンを開けてベランダを見て、クローゼットも開けたが、誰もいなかった。


 俺はほっとして風呂に入ることにした。うちの脱衣室は寒いが、暖房は置いていない。金がもったいないから、寒くても我慢している。浴室乾燥はあるから、スイッチを入れて服を脱いだら、そのまま浴室に移動する。まずはシャワーが冷たいまま、手を濯ぎ石鹸で洗う。コロナウィルスが蔓延してからは手洗いが欠かせない。ちょっとシャワーが暖かくなって来たと思った頃だ。

 

 ガツン。

 いきなり、頭をハンマーで叩かれたような衝撃があった。

「うっ」

 俺は前のめりに倒れた。バスタブの淵にあばら骨をぶつけて、激痛が走った。パニックになる間もなく、シャワーを浴びたまま俺は気絶してしまった。


「大丈夫ですか?」

 若い男の声がした。

「あい」

 なんだか言葉がうまく喋れない。口が閉まらない感じだ。

「手を握れますか?」

 俺は手を動かしてみたが、動かなかった。それより裸で恥ずかしかった。水色の服を着ていて、どうやら消防隊の人らしい。何で俺が倒れてるってわかったんだろうか。


 消防隊の人が、傍にあったバスタオルで体を拭いてくれ、俺を担架に乗せた。そして、救急車に移動すると、すぐに鼻に綿棒を突っ込まれた。コロナの検査だ。しばらくして、隊員の人の声がした。


「陽性です」

 しーんと静まり帰る。俺、コロナに感染してたのか?まったく症状がないのだが。それから、救急隊の人が病院に電話をかけまくっていた。俺は再び気を失った。


「搬送先が見つかりませんでした」

 俺は無常に家の中に戻された。すごく親切だと思うが、三階の寝室のベッドまで運んでくれた。俺はその人たちに感謝した。


「どなたかご家族は?」

「いません」

「では、ネットでコロナの陽性患者の登録をしてください」

 救急隊の人たちはあっけなく帰ってしまった。誰が通報してくれたんだろうか。あ、でも、一階の鍵開けっ放しじゃ。そう思ったけど、閉めに行くこともできない。俺は道端で寝かされているような状態になった。俺はその時、全てを失った。俺は深い眠りについた。


 暗がりで目が覚めた時に俺は思った。取り敢えず往診してもらおう。救急隊の人が俺の枕もとにスマホを置いて行ってくれたから、俺は何とかネット検索して近所の病院を調べた。内科、往診、〇〇区。往診っていくらかかるんだろう。しかも、財布に現金が入ってないじゃないか!俺は電話で窮状を訴える。コロナで救急搬送してもらえなかったこと、今は現金を持っていないから、払えないけど後日必ずお支払いしますと伝えた。俺は本当に頼れる人が誰もいない。


「いまげんきんがないんですが、おうしんをたのめないでしょおか」

「いいですよ」

「ありがとうございまうす!」

 うまく喋れなかった。俺は脳梗塞だったんだろうと思う。一階は開けっ放し。こういう時は助かった。俺はほっとしてまた眠りについた。


 しばらくして、階段を上がって来る音がした。医者だとわかっていても怖かった。

「どうも」

 誰かが入って来た。70歳以上の人の声だった。ちょっと安心した。


 その人が俺の枕もとを覗き込んだ。白衣は薄汚れていて、髪は白髪交じりでぼさぼさ。汚れた眼鏡をしていた。不織布のマスクが大きすぎて、全く意味を成していない。


「あ」


 この人…俺ははっとした。

 あの人じゃないか。

 友山さんの家に往診に来ていた人だ。

 そうだ。

 友山さんの家から出て来て、2階にいる俺と目が合った、あの人だ。

 友山さんも往診を頼んでいたのかもしれない。


「脳梗塞ですね。顔に麻痺がありますな」

「はい」

 その人は脈を取って言った。

「注射を打ちます。麻痺が取れますよ」

 俺は安心した。これで一安心だ。でも、入院しなくて大丈夫だろうか。体に注射が染み渡る感覚がした。俺の血液の中を何かが駆け巡っている。

 だんだん体が暖かくなって来た。あれ。何だこれは。頭が痛いけど、手を動かそうと思っても動かない。さっきまで手は動いていたのに。


「ご臨終です」

「はぁ?」

 俺は慌てて起き上がろうとした。しかし、体がまったく動かないし、声も出ない。

 その人はベッドの上にカバンを置いて、紙に何か書いて印鑑を押していた。ずいぶん適当だ。


「じゃあ、これは大事な書類ですからなくさないでください。今は葬儀会社に連絡すると死亡届を出しに行ってくれますから」

 俺に言われても!自分で自分の死亡診断書なんて出しに行けるわけないじゃないか!馬鹿野郎!


「はい。急で申し訳ありませんでした」

 後ろから知らない男性の声がした。首を何とか持ち上げてその人を見ると、友山さんだった。

「なぜ?」

 友山さんは俺の方を全く見ようともせず、その死亡診断書を受け取った。

 2人は一緒に部屋から出て行った。


 俺は先日あったことを思い出していた。

 救急車が来て、サイレンを鳴らさずに帰って行った。

 そして、医者が来て、しばらくして帰って行った。

 往診なんてそんなものだろうと思っていた。 


 その後に寝台車が来るんだ。

 患者を迎えに。

「俺は死んでない!」

 心の中で何度叫んでも声にはならなかった。


 インターホンが鳴った。  

 俺が全身全霊の力を込めて体を動かそうとして、声を張り上げた。


「助けてくれ!」


 がやがや音がして階段を上がって来る人がいる。


「こっちです」

 男の声がした。ドアをガチャっと開けて水色の服を着てヘルメットを被った人がやってきた。本物の救急隊の人のようだった。

「やめてくれ!」

 俺は叫んだ。騙されないぞ!お前たちは俺を連れて行って殺すつもりだ。

「やめろ!」

 何度も何度も声を張り上げた。俺は気が狂いそうだった。

「うぉぉぉぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 叫び続けた。救急隊の人たちはうんざりしたような顔をして、「怒鳴らないでください」と声を張り上げていた。

 俺は喉がかれた。体を押さえつけられて観念した。

 それっきり意識を失った。


***


 気がつくと俺は真っ暗な場所にいた。箱に入っているみたいで、体が痛い。


 外からゴーだと言う音が聞こえた。

 そして、上、左右から熱風が箱に吹き付けていた。俺は叫んだ。


「助けてくれ!俺は生きてる」


 全身で壁を叩いた。まだ死にたくない!やめてくれ!火を止めてくれ!知ってる。ここは火葬場だ。俺が何をしたって言うんだ?殺人現場を見たわけでもない。証拠がないんだ。俺は何もしない。約束する。


 死にたくないんだ。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 人の家なんか覗かなければよかった。


 俺は泣いた。

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