第四章 運命の淵

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 一夜明けて、昨夜の狂乱滲む熱気は冬の冷気に紛れていったようだ。

 ひりつくような休日を捨てて戦場の最前線へ赴いた仙堂にとっては、英梨花から送られてきたさくらとのメッセージ動画は挨拶程度だったとしても心の支えだった。

「吉野の行動はちぐはぐなんです」顔を洗いに行っていた鶴巻が眼鏡を片手にそう言い始めた。「昨夜のあの狂気的な暴れ方に、感情的な動機が見当たらないんです」

 洗面所もないのに歯を磨き出した三田村が口のまわりを泡だらけにして応える。

「そんなことないだろ。妹のことを持ち出されて逆上したに違いない。宇和島への態度を見れば、奴が妹にご執心なのは手に取るように分かる」

 鶴巻は化粧をしながら首を振った。

「そう思わされているように感じるんです。あんなに暴れ回っていた吉野が、部屋に入ってきた私の存在を確かめるようにこちらを向いた……あの空隙が途轍もなく平坦で客観的な一瞬だったように感じられてなりません」

「わざとやったというのか? あんな怪我までして」

 寺田は疑いの目で鶴巻を見つめた。

「普通はああいう痛みを生じる状況になれば、気持ちが萎えて思い留まるものです。でも、あれは、怒りを怒りであるように見せるがための、パフォーマンスとしての行動だったと思います」

「だとしたら、なぜそんなことを? お前の考えでは、吉野は妹のためにやったんじゃないということになるだろう」

 仙堂が問いかけると、鶴巻は沈思黙考の体になる。

「何の話してるの……」

 寝ぼけ眼の宇和島が目をこすりながら現れた。ひどい寝ぐせだ。髪の色と相まって樅の木のようになっている。軽く化粧を終えた鶴巻が宇和島の髪を撫でつける。

「昨夜の吉野がどうして暴れたのか考えてるのよ」

「あいつ……なんか、ちょっと冷静だったよね……。怖かったぁ……」

 宇和島がボソリと言うと、鶴巻が仙堂たちに目をやった。寺田は腕組みをして、思考を巡らせる。

「何か狙いがあったのか。でも、あれは逃げ出そうという感じではなかった。暴れることが手段だった」

「それを確かめるのは難しくないですか?」三田村が言う。「奴に聞いても大人しく教えるかどうか……」

 仙堂がうなずく。

「そうだな。今は次の犠牲者を見つけ出すことが先決だ。だが……」

 時計は午前八時半。逆さ吊りにされた次の犠牲者がいたとしても、丸一日ほどその状態のままということになる。宇和島の髪を鎮めた鶴巻はタブレットに目を通しながら口を開いた。

「通常、犯罪を犯した人間が公に罪を告白する時、進行中の事件を未遂に終わらせるように運ぶことはありません。完結したものを提示しなければ意味を成しませんから。吉野は警察は無能だと言っていました。警察が無能だから犠牲者が出たんだ、と。万が一、私たちが誰かを救出できたとしたら、警察が無能だという自分自身の主張を自分で否定することになります。そんなことはしないはずです」

「すでに誰かが死んでいると言いたいのか」

 仙堂が訊くと、鶴巻は静かにうなずいた。三田村は首を捻った。

「でも、井戸のことを話したのは、ヒントを出すためだろ? 見つけてほしがってる」

「井戸は全国に七万くらいあるんだぞ。ヒントにすらならない。あいつは警察を嘲笑ってるんだよ」

 忌々しそうに寺田が言い放った。自分のデスクに戻っていた宇和島が言葉を加える。

「井戸っていうのも嘘かもしれないっすもんね」

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