10

 その夜、仙堂は深い溜息と共に自宅の玄関で靴を脱いだ。リビングに入ると、テレビドラマを食い入るように見つめる英梨花えりかの姿がある。その手でワインを入れたグラスを傾けながら。

「おかえりなさい」

「やってるな」

 英梨花は悪戯っぽい笑顔でグラスを持ち上げた。

「さくらは?」

「もう寝てるよ」

 壁に掛かった時計は午後十時を回っている。シャツのボタンに手をかけながら自室に戻る仙堂の背中に英梨花の声が掛かる。

「ここのところ忙しそうだね」

 そう言って立ち上がり、ダイニングの方へ向かっていった。

 部屋着に着替えてダイニングに戻って来た仙堂の前に温め直した手料理が並べられる。英梨花が仙堂の向かい側の椅子に腰を下ろす。

「順調そうだね」

「そう見えるか?」

「疲れてそうだからね」

「なんだよ、その判断基準は」

「ワイン飲む?」

「少しだけ」

 白身魚の香草焼きが載る皿の隣に、白ワインの入ったグラスが置かれる。

「皐月ちゃんはうまくやってる?」

「ああ、問題ない」

 素っ気ない返事に、英梨花は微笑んだ。

「色々やることがある方が、あの子にとっては良いのかもね」

「髪の色以外はな」

 英梨花は小さく笑った。

「でもまあ、鶴巻さんも寺田くんもいるなら、大丈夫か」

「三田村を忘れるな」

「京介、三田村くんとはなぜか馬が合うよね」

「あいつはシンプルだからな」

「また寺田くんが怒りそうなこと言う」

「そういう意味で言ったんじゃない」

 料理を口に運び、ワイングラスを傾ける仙堂に、英梨花は尋ねる。小首を傾げて探るような目をする。

「それで、何か聞きたいことがあるって言ってたよね」

 仙堂はポケットからスマホを取り出して操作すると、被害者の胃から検出された例の本の一ページの画像を表示させて英梨花に見せた。

「被害者の胃の中にクシャクシャになった状態で入っていたらしい。こっちが裏面だ」

 仙堂は手にしたスマホの画面をスワイプして絵の裏側の文章を表示した。

「フランス語だね。もう一回絵見せて」

 英梨花はじっと画面を見つめる。

「確か、鶴巻が言っていた。スピンドルなんとかだとか」

「ああ、アナンケーね」

「アナンケー?」

「運命とか宿命といった必然が形になった存在で、ギリシア神話の女神だよ。紡錘はアナンケーのシンボルでもある」

「これが?」

「アナンケーの下にいる三人は運命の三女神。これはきっとプラトーンの『エルの物語』の一節を表したものね。アナンケーが運命の糸を垂らした先にある天球の軸に紡錘がくっついていて、そのまわりに運命の三女神……モイライがいるの。もともと、モイライは運命の糸を紡いで測って断ち切るという役割を持っているんだけど、それが寓意的に表現されているわけ」

「なぜそんなものが……」

「モイライは運命の糸で人間の寿命を決めていると考えられていた。もしかしたら、犯人は被害者の命運を握っているということを示したいのかもしれない。胃の中に物を入れるには口を開けさせて手を突っ込む必要がある。口の中を自由にさせるなんて、生殺与奪を委ねているようなものでしょ」

「俺たちはこいつが警察へのメッセージだと考えてる」

「鶴巻さんが言ったの?」

「ああ。俺もそうじゃないかと思ってる」

「じゃあ、彼女の判断を信じた方がいいんじゃないかな。私なんて、もう刑事辞めてずいぶん経つんだからさ」

 仙堂は画像に目を落とす。

「運命……」

「何か気になるの?」

「犯人は、偶然の連続によって犯行を完遂した。今の話を聞くと、まるで運命を司っていると言わんばかりだ」

 英梨花はキョトンとした表情の後で、おかしそうに吹き出した。

「京介ってそんなにオカルト好きだったっけ?」

「そういう意味で言ったんじゃない。寓意的だと言ったんだ。犯人はそういう偶然性をお膳立てして意図的に引き起こしていた節がある」

「じゃあ、犯人は言いたいのかも。自分には力があるって」

 遅い夕食を終えて、自室に戻った仙堂はドアを閉めて、ふーっと深い息をついた。スマホのカメラロールを過去にさかのぼっていく。一枚の写真が現れる。どこかのレストランで英梨花が不意に集まった面々を写真に収めたのだ。笑顔が溢れる光景だった。

 その中の一人に、今回の事件の被害者・島原光明の姿があった。

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