猫のご主人様と飼い主のわたし
秋月大河
ゆきとマキ
「もうこんな時間。急いで帰らないと」
午後八時、わたしはスーパーの袋を片手に、帰り道を急いでいた。
大学から徒歩十分のところに、わたしのアパートがある。
都内の大学に進学してひとり暮らしを始める時、女の子ひとりで暮らしていけるかと心配したものだ。最初は慣れない生活に戸惑うことも多かったけれど、大学二年生の夏となった今では、ひとり暮らしにもすっかり慣れてしまった。
でも、実は両親にも内緒にしている同居人がいる。
「ただいまー」
いつものように小さな学生アパートに帰宅すると、
「遅い!」
いきなりリビングから怒鳴られてしまう。
部屋のリビングには、同居人の女の子がいた。
外見は十代前半くらいの小柄な女の子。カーペットの上であぐらをかいている。わたしのTシャツを着ているけれど、サイズが合っていなくてだぼだぼだ。
この子がわたしの同居人なのだけど、ただの女の子ではない。
なんとこの子の頭には猫耳がついている。
決してかぶりものではない。本物の猫耳がつんと頭から生えているのだ。
「お腹減った減ったー! 死んじゃうー!」
猫耳少女は小さな子どもみたいにバタバタと暴れる。
「ゆき、暴れないの。バイトがあったんだから仕方ないでしょ」
「マキがおやつを何も残していないのがいけないんだ」
『マキ』というのは、わたしの名前だ。
「今からごはんつくるから待ってて」
仕方なく買ってきた材料で肉じゃがをつくる。
「おー、肉じゃが」
急にゆきは機嫌がよくなって、くんくんと鼻を鳴らす。
『ゆき』は三ヶ月前に、わたしが拾ってきた子猫だ。
白い子猫がわたしの後をついてきたので、かわいそうになって拾ったら、翌朝なぜか人間の女の子になっていた。
目を覚ました時、隣で裸の女の子が寝ていたから、思わず悲鳴を上げてしまった。
子猫がなぜ人間の女の子になったのかわからない。ゆきに聞いても「知らない」と答えるだけ。しかも、この子は自由に猫に戻ることもできた。
『マキが拾ったんだから、責任取ってゆきを育てるの』
そう言って、ゆきはわたしの家に居候することになった。
ゆきは本物の猫さながら、わがままだ。お腹がすいたらひっきりなしに、ごはんをねだるし、退屈だと言っては部屋を散らかして、外に散歩に連れて行かせる。
なによりも生活費がふたり分になったせいで、わたしのバイトも掛け持ちになった。
これでは、どっちがご主人様かわからない。
「ごはんできたよー」
「いただきまーす!」
ゆきは肉じゃがをかき込んで食べる。
「ふみゃっ! マキ、熱いー!」
猫舌なのも元々猫だったせいなのだろうか。
「ほら、こぼしてるってば」
ハンカチを取り出して、ゆきの口元を拭いてあげる。
「マキって、いいママになれそうだよね」
「なんでよ。わたし、恋人もいないのに」
わたしがふくれっ面になって文句を言うと、ゆきはいじわるく笑った。
「じゃあ、ゆきがマキの恋人になってあげる」
「子どもが生意気言わないの。ってか、今日こそお風呂入るよ」
お風呂と聞いて、ゆきが「ええー」と露骨に嫌な顔をする。
「お風呂、嫌だー! 絶対に入らないー!」
「あんたがお風呂入らないと、部屋が匂うんだから入るの」
わたしが決意を込めて言うと、ゆきはごはんをかき込んで食べてから、
「ごちそうさまー。おやすみー」
「こら、待てー! 逃げるなー!」
「ふにゃー! 離せー! 誘拐魔―!」
わたしは嫌がるゆきを捕まえてお風呂に連れて行った。
「ふにゃー、マキがゆきをいじめるー!」
ゆきの服を脱がしてお風呂に入れる。
この子は本物の猫と同じくお風呂が嫌いで、何日も平気でお風呂に入らない。年頃の女の子を汗臭くさせるわけにもいかないので、強引に捕まえてはお風呂に入れる。
「近所の人が誤解しそうなこと言わないの」
体も自分で洗おうとしないから、仕方なくわたしが洗う。外見だけは、自分と大差ない女の子の体を洗うのは、なんだか変な気分になってくる。
「にゃん。そこくすぐったい」
「もう、変な声を出さないで」
髪から体までわしゃわしゃと洗って泡だらけにして、シャワーでしっかり洗い落として、ついでにわたしも体を洗ってからバスタブに入れる。
「さあ、しっかりとお風呂に入りなさい」
「ふう。すっきりしたー。気持ちいいー」
「わたしはめっちゃ疲れたよ」
ゆきはすぐに逃げるので、わたしはゆきを抱きかかえるようにお風呂に入る。
「まったく。自分の体くらい自分で洗いなさいよ」
「飼い主なんだから、マキがゆきの体を洗うのは当たり前でしょ」
「なんでわたしがあんたのごはんも用意して、体も洗ってあげなくちゃいけないの。マンガだと人間になった猫の方が恩返しをしてくれるもんでしょ」
「ゆきと一緒に暮らせるだけで、マキは幸せでしょ」
ゆきが濡れた手でわたしの顔を撫でてくる。
「だから、マキはこれからもゆきのお世話をするの」
「それじゃあ、あんたの方がご主人様みたいじゃない」
「そうだよ。ゆきはマキのご主人様なの」
にゃはは、とゆきは無邪気に笑う。
「あんたなんか拾わなければよかった」
「マキはやさしいからゆきを捨てないでしょ」
ああ言えばこう言うで、本当に腹が立つ。
わたしはゆきを抱えながら、ため息をついた。
そんなある日、わたしは失恋をしてしまった。
大学の先輩に、わたしは片思いをしていた。
同じゼミの先輩として親身に面倒を見てくれて、そんな先輩に恋をしていたのだけれども、いつの間にか恋人ができて腕を組んで大学の校内を歩いていた。
その姿を見たわたしはさすがにショックを受けて、大学を早退して寝室に閉じこもり、ベッドの上で膝を抱えて泣いていた。
そんなわたしの部屋にゆきが入ってくる。
「マキ、お腹すいたー。ごはん早くつくってー」
「今そんな気分じゃないの。見ればわかるでしょ」
八つ当たりだとわかっていても、乱暴な口調で言う。
しばらくゆきは黙っていたけれど、わたしの側に近づいてくる。
それからわたしの顔に頬ずりして、舌先でわたしの目元を舐める。
ざらざらしている舌がなんだかやさしい。
「マキが元気じゃないと、ゆきが困る。マキが倒れたら誰がゆきのごはんを用意するの?」
「何よそれ。こんなときまで、わたしに世話をしろって言うの?」
「ゆきはマキのご主人様だって言ったでしょ。ゆきを幸せにするために、マキは元気に働く。ゆきをいっぱい楽しませてれば、つらいことも忘れられる」
本当に勝手なことばり言う。
この猫はわがままばかりで、自分の都合を押しつけてくるし、好き勝手なことばかり言う。飼い主のわたしよりも、自分の方がご主人様だと思っている。
それでも、ゆきがわたしを心配して抱きしめてくれたのだとわかる。
この子がいるから、わたしはひとりぼっちで悲しまずにいられる。
わたしはゆきに抱きついて泣いてしまう。
ゆきもわたしを抱きしめて頭を撫でてくれた。
ひとしきり泣いたところで、ようやく落ち着いてきた。
「ありがとう。すっきりした」
わたしが鼻をすすりながら言うと、ゆきはまた目元を舐めた。
「礼ならいらないよ。ゆきはマキのご主人様だからね」
これからもわたしは、この猫のご主人様と一緒にいるだろう。
飼い主はわたしなのに、いっぱい迷惑ばかりかけられるし、わがままに振り回されるし、世話をさせられるだろう。
きっとその毎日は、とても幸せなんだと思う。
でも、それを口にするのは悔しかったから、一言だけ言った。
「ほんとむかつくご主人様」
わたしが強く抱きしめると、ゆきはにゃははと笑った。
猫のご主人様と飼い主のわたし 秋月大河 @taiga07
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