第6話 第一の試練『宝探し』――③


 薄暗い森の闇を、真っ白な閃光が引き裂く。


 放たれる光の奔流の中で、刻印ルーンが刻み込まれた指輪が――その姿形を変えて。


 新たな姿、否――本来の姿へと戻った魔道具デバイスが、僕の手の中に出現したのを見て、目の前の獣は、にたりと笑った。


「——それが、テメェのぶきか」


 凶悪じゃねぇか、と――獣は。


 己のぶきである、その――両手を。

 輝く腕輪と指輪だけを施しただけの、何の装備も施していない剥き出しの両手を、唸るようにボキボキと鳴らしながら。


 僕の『牙』を認めても尚、まるで恐れず、ただ唾を垂らすだけで。


「…………」


 そんな飢えた猛獣へ――僕は。


 猛烈な勢いで、こちらを殺害せんと向かってくる野生へ――僕は。


「…………っ!」


 安全装置セーフティたる、最後の躊躇を、放り投げて。


 僕の牙を――そのを、真っ直ぐに対象へ向ける。


 白く輝く猟銃——『白獅子』。

 我がノヴァーク家に代々継がれてきた、その伝統の魔道具を――僕は発動した。


 獣を狩る為の牙を――人間へと、魔法使いへと向けながら。


「——狙撃ショット


 その明確な意思表示たる、引鉄ひきがねを――引いた。


 魔法の森の中に。

 恐ろしい程に乾いた音が――人工的な命を奪う響きが轟く。






 ◆ ◆ ◆






 レオンが生まれたノヴァーク家は猟師の家系だった。


 無論、ただの猟師が魔法使いになれるわけもない。

 猟師は猟師でも――彼らは魔法生物を専門とする猟師であり、魔法生物と共に暮らす一族だった。


 いうならば、レオンはずっと、こんな森の中で生まれ育ってきたのだ。

 生まれた時から魔法生物に囲まれ、物心ついた頃から魔法生物に触れて育った。


 故に、レオンは知っている。

 魔法生物という存在の凄まじさを。そして、美しさを。


 しかし、それと同時に、レオンは誰よりも知っていた。

 魔法生物という存在の強さも。そして、恐ろしさも。


 だからこそ、だろう。

 本来ならば間違いなく、三百人の新入生の誰よりも優位な、圧倒的な得意分野である試練内容であった筈なのに――彼はきっと、誰よりも怖がっていた。


 この魔法生物の森マジカルフォレストにて行われる『宝探し』という試練に、きっと誰よりも怯えていた。


 まぁ、そんな風に内心のドキドキを隠せていない様子が可愛くて、ついついそんな不安を煽ってしまった私もいけないのだけれど。


 それでも、本音を言うと、そこまで私は心配していなかった。

 というより、もしこの試練内容でレオンがクリア出来ないようなことがあれば、他の新入生も誰一人としてクリア出来ないだろうと、そう断言できるくらい、彼にとっては容易い試練だと思っていた。


 だけど、そこまでというだけで、完全にその可能性がないと断言できなかったのは――レオンが、余りにもという点にある。


 レオンは誰よりも知っている。

 魔法生物の凄まじさも、美しさも、強さも、恐ろしさも。


 生まれた時から魔法生物に囲まれ、物心ついた時から魔法生物に触れて育った彼は。


 森という野生の中で、誰よりも命というものを肌で感じながら育った彼は。


 それを失うということに、それが奪われるということに、誰よりも感情移入してしまう。


 生殺与奪に、弱肉強食に、誰よりも心を動かしてしまう。


 命を奪う形の魔道具を受け継ぎながらも、その引鉄を引く重さを、きっと彼は誰よりも知ってしまっている。


 だからこそ――私は拭いきれなかった。

 レオンがこの試練をクリアできないかもしれないという、その僅かな危険性を。


 魔法生物ではなく、魔法機械生物の撃破が求められる試練内容。

 私も既に何体か倒したけれど、流石は魔法学校、彼の実家を何度か訪れて、実際の魔法生物に触れた経験もそれなりに豊富な私でさえ、その挙動に違和感を覚えることが出来なかった。


 機械ならば大丈夫だと思っていたけれど、もしかしたら例え機械でも、レオンが傷つけるのを躊躇うレベルの再現度かもしれない。流石に大丈夫だと思うけれど。


 それに、もし仮に彼が魔法機械生物を撃破することが出来なくても、最悪はポイントが稼げないというだけだ。試練のクリアだけなら宝玉を見つけさえすればいい。彼ならば例え目を瞑ってでも、魔法機械生物の縄跳びを潜り抜けながら森の中を探せといわれても可能だろう。実際にそんな真似をしている姿を見つければ全力でビンタするけども。


 だけど――もし。

 機械ではなく、生身の命が。

 その命を剥き出しに晒しながら、問答無用に――レオンに襲い掛かるようなことがあれば。


 レオンは――果たして撃つことが出来るのだろうか。

 命に向けて、命を奪う武器を、向けることが出来るのだろうか。


 その引鉄を――引くことが、出来るのだろうか。


「…………」


 でも、魔法使いならば、いずれは必ず挑まなくてはならない通過儀礼だ。


 現代において、魔法使いとは――すなわち国家戦力。

 科学兵器の代用品。このまま魔法学校を卒業することを目指しているのならば。魔法使いを目指し続けるのならば――必ず来るのだから。


 命に向けて魔法を使う日が。命を奪うべく魔法を放つ時が。


 例え、レオンが既にそれを経験していて――もう、二度と。どれだけ、心と体が、それを忌避していたとしても。


 魔法使いである限り。魔法使いを志す限り。


 私たちは、命と向き合い続けなければならない。


 だから、レオン―—と、私は天を見上げる。


 薄暗い森の中で、僅かに覗ける空を見上げた時——それは、響いた。


 乾いた空に響く音。何処かより轟く――鈍い、衝撃。


 魔法の世界に似つかわしくない、命を奪う――銃声が。


「…………レオン―—っ!」


 考えるよりも先に足が動いていた。


 聞き慣れた猟銃の銃声が聞こえた方角に体を向けて――私は魔法を発動する。




 


 ◆ ◆ ◆






 白く輝く銃口から放たれた銀色の弾丸は、そのまま虚空を切り裂くように真っ直ぐ突き進んだ。


 そして――そのまま銃口を向けられた獣のような少年に、


 薄暗い森の空の彼方へと、乾いた音と共に消えていく。


 足を止めた黒銅竜ブロンズドラゴンの少年は、一度、弾丸が消えて行った方向へ振り返ると。


「…………どういう、つもりだ?」


 ぐるりと、再び俺の方へと振り返り、その決して太くない腕を振りかぶって、ぎちぎちに固めた小さな拳を向ける。


「————っ!」


 僕は立ち上がり、移動しながら再び奴に銃口を向け、そして素早く引鉄を引く――が。


 ダァン! と乾いた銃声と共に放たれる弾丸は、少年の頬を擦過し、小さな傷を生み出すだけで――今度は少年の動きを止めることすら出来なかった。


「嘗めてんじゃねぇよ!! 俺をそんな銃声だけでビビッて逃げるようなこものだと思ってんのかッ!!」


 獣のような少年は、まるで銃弾よりも拳の方が速いといわんばかりに、向けられる銃口きばにまるで臆さず、僕が再び移動する間もなく――そのきばを怯える狩人ぼくに向かって放つ。


 くそっ――間に合わないかッ!


 僕はその手を引鉄ではなく――己の首に巻いた首輪ネックレスへ伸ばす。

 ネックレスに吊るされる緑色の宝石いし、僕の故郷で採掘された魔力の籠った魔石を握り締めて――僕は呪文を唱える。


「——『守護』せよ!!」


 これもまた刻印ルーン魔法だ。

 魔力の籠った物質に、予め刻印を刻んでおき、己の魔力を流して簡単な呪文を唱えることによって即席インスタントに魔法を発動する。巻物や石板、そしてアイツらジャパニーズ陰陽師が術符を使って行うのと基本構造は同じ魔法だ。


 無論、この場合、刻み込む術式や施す下準備、触媒とする物質によって術式効果はピンキリだが――今回の僕の守護魔法は、使用した宝石は『守護』に適した魔石だったとはいえ、その施した守護の解釈は曖昧で、今回のような衝撃から身を守る効果の他にも呪い除けや厄除けなども込めた、文字通りの『御守り』だった。広く浅くの効果しかない。


 だからこそ、僕が魔法学校に入学する際に贈られた『御守り』は、怒れる獣のたった一発の拳で砕かれてしまった。


「——ぐ、ハァッ!!?」


 何とか右方向に跳ぶことで、衝撃を真正面から全て受けることだけは回避した。


 だが、無論、その全てを完璧に避けることは出来ず――結果、気が付けば僕は、逃げに逃げて、避けに避けて、初期ポジションとは入れ替わるような立ち位置で獣と相対していた。


 僕は何とか反射的に、片手で猟銃を持ち上げて引鉄を引くが、狙いすらまともに定められていない銃弾は、見当違いの方向に飛んでいき――再び、空へと消えて星となってしまう。


「…………がっかりだぜ、狩人。その立派な猟銃きばは見かけ倒しか?」


 湧き上がる苛立ちをぶつけるように、獣は太い樹の幹に拳を叩き付ける。


 バキバキと悲しく倒れていく樹に目を向けず――僕は、真っ赤に染まる少年の、その細められた眼から目を逸らさない。


「獣を殺せねぇ奴に、命を奪えねぇ男に、狩人たる資格はない。その御立派な銃から潔く手を離し――さっさとオレにくになれ」

「……生憎、これはノヴァーク家うちの家宝なんだ。似合わないのは百も承知だが、あっさり手離せるような代物でもない」


 僕の血反吐を吹き捨てながらの言葉を、けっと吐き捨てながら――獣は。


「そうかよ。なら、ソイツも俺が奪い殺してやる」


 テメェにそれを背負う――狩人たる資格はねぇと、見下げ果てるように言って。


 僕は、震える膝に拳を叩き込みながら、背筋を伸ばして、その容赦の無い言葉に対し、はっ――と、笑った。


「——確かに、僕に狩人の資格はないかもしれない」


 ああ、そうだ。——僕は、怖い。


 命を奪うことが怖い。命を殺すことが怖い。


 殺し殺されの――野生が怖い。


 狩るか狩られるか――そんな殺し合いが、何よりも恐ろしくて堪らない。


「だけど、僕は狩人じゃない――だ」


 真っ向から獣に立ち向かうなんてことはしない。

 互いの命を晒し合い、奪い合い、殺し合うなんてことは――しない。


 誇り高き狩人ハンターにはなれなくとも。

 きたなく、姑息な――猟師ハンターとしての、ちっぽけな誇りプライドくらいは、ある。


 ずっと、見てきたんだ――そんな、でっかい背中を。


 悪いな、戦闘狂ケモノ

 戦闘を楽しむなんて、生殺与奪を楽しむなんて――御法度なんだ。


 獣の動きを読み、習性を学んで。

 罠を張り――確実に仕留めるのが、猟師プロの仕事だ。


「————『設置トラップ……完了セット』」


 小さく呟いた呪文と共に――僕の手の中の猟銃が、


「——っ! テメェ……ッ!!」


 何かを感じた獣が動き出すよりも前に、僕は引鉄を引く。


 弾丸は込められていない。銃口を持ち上げてすらもおらず――地を向いたまま引かれたそれは、銃弾を放つ為の挙動ではない。


 


「——『網罠トラップ・ネット』」


 空に放った三発の銃弾が――星座を描くように三本の直線で繋がり、空に三角形を描き出した。


「何だ――ッ!?」


 その美しさに獣すら目を奪われたのか、思わず振り返る。まぁ、実際には突然に膨れ上がった魔力を感じたからだろうが。


 当然だ。

 星座じゃなく――それは魔法なんだから。


 それは、お前を捕らえる為のネットだよ。


 さぁ、大人しく、檻に入れ――猛獣。


「——『照準ロック』」


 僕は空を仰いで隙だらけの獣に銃弾を放つ。


「——ッ!! (速ぇ――!? さっきまでとは段違いッ! 猟銃を片手で早撃ちだとッ!? 拳銃じゃねぇんだぞ――だが、――!?)」


 胴体に叩き込まれた銃弾に痛みがないことに戸惑っているようだが、それも当然だ――僕が撃ち込んだそれは、非殺傷ペイント弾。


 獲物ターゲット捕捉マーキングする為のものだ。


「この期に及んで――俺を嘗めるなとッ!!」

「嘗めてなんかいない。心から恐れているさ。だからこそだ」


 おまえらが、怖くて怖くて堪らないから。恐ろしくて恐ろしくて仕方ないから。


 猟師にんげんは常に必死なんだ。真正面から向き合わないように。


 その牙が、爪が――拳が、届かないように。


 安全圏から、一方的に――猟師ぼくおまえを、駆逐ころしたいんだ。


「その猟銃は飾りかよ! 狩人!!」

「狩人じゃない猟師だ。そして、これは――


 僕は獣の大振りの拳を、最小限の挙動で躱して。


「——ッ!!?」


 瞠目する獣の眼前に、その銃口を突き付ける。


「魔法の道具——『魔道具デバイス』だよ」


 そして僕は、銃弾の込められてない銃の、その引鉄を引く。


 放たれるのは、銀の弾丸ではなく、白く輝く――だった。


「な、なんだ――!?」


 白く輝くのは、僕でも、『白獅子』でもなく――空に浮かぶ三角形の星座と、そして獣。


 ペイント弾によってマーキングされた獣は、そのまま空の三角形へ――魔法の網へと吸い寄せられていく。


「——くっ、動けねぇ! ふざけるな、俺がこんなもので――ッ!!」


 網に囚われたその姿は、獣というよりはまるで魚のようだと思って、僕は小さく笑ってしまう。


「やってることは、猟師というより漁師だな。だが――」


 野生に踏み込み、命を奪い、糧とする仕事。

 そういう意味では――やることは何も変わらないと。


 僕は今度こそ銀の銃弾を取り出し、手の中でそれにゆっくりと魔力を流す。


 ただでさえ時短重視で『三点トライアングル』でしか編めなかった『ネット』だ。足場のない空中とはいえ、あの獣はすぐにでもトラップから脱け出すだろう。時間はない。


 罠に掛けるのは、あくまで獣よりも優位に立つ為だ。


 より安全に、より確実に――より一方的に、命を奪う為の下準備に過ぎない。


「…………『装填セット』」


 銀色の光を放つ銃弾を装填し、今度は銃が白く輝くようにその全体に魔力を流す。


 ゆっくりと、丹精込めて――殺意を込める。


 そうだ。これは野生。ここは森。

 殺し殺され、食われ喰らう生存競争――弱肉強食の世界。


 敵は――獣。


 戦わなければ――生き残れない。



―—……殺し!!



 そうだ――殺せ。殺せ。殺さ、なくちゃ。

 

 銀光を膨れ上がらせ、しっかりと頬でそれを固定しながら、銃口を天に向ける。


 左腕を、左足を、右足を――既に戒めから解放し、罠そのものを破壊しようとしている少年に、向ける。


 僕は――猟師だ。未だ狩人にすらなれていない未熟者だ。


 だから――殺すんだ。


 その為に――僕は。



―—人殺しッ!!



 息が上がる。心臓が荒れ狂う。


 手汗が滲んで、喉が渇く。


 これ以上、酸欠になる前にと、僕は素人のように――呼吸を止めて、片目を瞑って。



―—どうして……お父さんを殺したのよッッ!!



 耳を塞ぐように、僕は轟音を求めた。


 命を奪う音を。魂を奪うような――鈍く、乾いた、銃声を。


「——狙撃ショット


 そうだ。


 僕は――命を奪える、魔法使いひとごろしとなる為に、魔法学校ここへ入学したんだ。


 ゾッと、まるで僕の魂が抜かれたかのような、脱力感に支配された身体を――衝撃が襲う。


 花火のように美しい爆発が空を彩り、一体の獣が業火に焼かれた。






 ◆ ◆ ◆






 どさっと、黒焦げの肉の塊が落下する。


 ただでさえボロボロだった衣服は剥がれ落ち、最早なんとか下半身が隠せている程度だ。


 しかし、そんな状態でありながらも――獣は健在だった。


 息がある。身体が動いて――あろうことか、ゆっくりとだが、立ち上がった。


「……しぶといな」


 威嚇射撃や非殺傷攻撃ではない――間違いなく、今の僕の渾身の決め技フィニッシュブローだった。


 僕の故郷の森でも、あの攻撃を受けて立ち上がるのは――いるにはいるが、ほんの一部だろう。


 それをまさか、僕と同じ――十二才の少年が、耐え得るとは思わなかった。


「……ああ――お陰様でな」


 全身をこんがり黒く焦がした獣は、それでも未だに爛々と赤く染まる双眼を僕に向けて、その右の親指を、蟀谷こめかみに、次いで胸の中央に置いて。


「頭か心臓か。急所をしっかりと撃ち抜いていれば、それでお前の勝ちだったろうによ」


 そう吐き捨てながら、大きくその右腕を振るう。


 からんからんとその挙動で飛ばされてきたのは、彼の右腕に巻かれていた――刻印ルーンが刻み込まれた腕輪。


 僕がさっきの決め技で――狙い澄まし、撃ち抜いてみせた魔道具だった。


「つくづくあまいな。獣に手心を加えるようじゃ、半人前もいい所だぜ」

「…………」


 全くもって、その通りだった。


 どれだけ場を整えても、罠に嵌めても、最後の締めをしくじれば、待っているのは――ただの――。



―—どうしてッ! ッ!! 



 ――


 僕は未だ、狩人でもなければ、きっと一人前の猟師ですらない。


 半人前の、魔法使いでもない――、人殺しのままだった。


「…………」


 僕は俯き、瞑目する。


 唇を噛み締め、銃を持つ手を震わせる――が。


「だが、気に入ったぜ――お前」


 お前は――と、黒く染まった獣は、瞳だけを赤く、血のようにあかく輝かせながら。


「俺様の名は、ヴェルグ! 黒獣のヴェルグ!!」


 そう雄々しく叫び、べっとりと、己が血でよごれた手を、僕に向けて問うた。


「お前の名は、何だ――白き獣」


 どこまでも獰猛に、未だ些かも衰えることのない――煮え滾る殺意と共に、名を問う獣に。


 黒獣のヴェルグに対し、僕は――白き獣の王の名を冠する銃を向けながら、静かに返す。


「悪いが――命を奪う獣には名乗らない主義だ。下手に愛着が湧くと殺し辛くなるから」

「俺は愛玩動物ペットかよ。動物好きが猟師やってるとか、やっぱ罪深ぇなぁ、お前」

「自覚はあるよ」


 軽口を叩き合いながらも、一歩、ヴェルグが近づき――銃口を向けながらも、一歩、僕は後退する。


 そして、背に樹が当たる感触に観念して、僕は「……まだ、やる気か?」と、愚問を口にした。


 案の定、黒い獣は、口から真っ赤な殺意を零しながら言う。


当たり前たりめぇだ。――俺の牙はまだまだ折れちゃいねぇ」


 そう漏らしながら、ボキボキと、その両の手を鳴らす。

 未だ健在の左手の腕輪。黒く耀く十指の指輪。


 何より――そのぐつぐつと滾る、真っ黒な殺意。


 黒き獣の『牙』は、まるで折れていなかった。


「————ッ!」


 僕は奥歯を食い縛りながら銃口を向ける。


 ヴェルグもまた、見せつけるように、その黒い光を纏う拳を構えた。


 …………クソっ。


 やるしか――ないのか。


 どちらかが死ぬまで殺し合う――この世で最も不毛な行いをッ!


「さらばだ――名無しの狩人さんよぉ!」


 飛び出してくるヴェルグに、僕の指が引鉄に添えられた――その瞬間。



 黒い殺意に支配されていた戦場が――



「…………え?」


 突然、塗り替えられた視界に、僕の思考すら凍ったかのように硬直する中。


「——レオン!!」


 肌に馴染んだその寒さと、耳に馴染んだその響きが染み入る。


「エヴァ……」


 白銀の世界に相応しい銀色の髪と白磁の肌。

 見慣れた美貌に浮かんでいるのは、長い付き合いになる僕ですら、殆ど見たことのないような、大きく見開れた蒼色の瞳で。


 僕は、そんな彼女を見て――思わず力が入っていた身体が緩んでいくのを感じた。


 安心——してしまったのだろうか。

 だとしたら、なんと情けないのだろう。


 もしかしたら、彼女も同じようなことを思ったのかもしれない。

 大きく一つ息を吐いた後、彼女は凍った地面を踏み締めて、僕とヴェルグとの間に立ちながら――氷のような無表情で言い放った。


「——そこまでよ。これ以上の暴虐は、私が許さない」


 銀髪の美女は、黒き獣と対峙する。


 ヴェルグは、目の前の美女が、たった一瞬で辺り一面を凍り付かせた存在だと悟っているだろう――そして、だからこそ、烈火の如き怒りを、乱入者たるエヴァへと向けていた。


「なんだ――テメェ」


 それは、ヴェルグらしからぬ静かな呟きだった。


 だからこそ――伝わる。

 それは、次の瞬間、暴発する爆弾なのだと。


 あのエヴァも、思わずといった風にその身を固める。僕も遅まきながらエヴァの前に立とうとするが――それよりも早く、獣は咆哮した。


黒獣オレ狩人コイツ殺し合いケンカに――女が割り込んでしゃしゃり出てんじゃねぇよ!!」


 ヴェルグは掲げた左腕の――その手首に巻かれた腕輪を、自ら破壊した。


 そして、まるで押さえつけられていた本来の力を取り戻したが如く、その細い腕を、体躯に見合わぬボリュームへ膨れ上がらせる。


「な、なんだ――!?」


 僕は思わず足を止めてしまった。

 肩を並べるエヴァも、その表情が少ない整った顔に一筋の汗を流す。


 左腕に続いて右腕をも巨大化させたヴェルグは、唸りながら俯いていたその顔を上げる。


 開かれた真っ赤な瞳は――まるで獣のように不気味に輝いていて。


 そして、開かれた口には、まるで獣のような牙が――。



「————うん。ここまで、かな」



 地面に向かって振り下ろされた巨大な腕を―—オッサンの細腕が受け止めた。


 ちゃらちゃらとした男だった。

 年齢は恐らくは三十代から四十代の、間違いなくオッサンである筈の男が。


 後ろ手に、観光地に売っている土産物のオモチャみたいな―—小さな十字架で。


 黒き獣の丸太が如き両腕を、あっさりと、癇癪を起す子供をあやすように受け止めていた。


「駄目だよ、ヴェルグくん。今の君じゃあ、それ以上外したら――殺し合いになる」


 人じゃなくなる、と。本物の――ケダモノになる、と。


 その男は、片手でヴェルグを受け止めながら、もう片方の手で器用に煙草を取り出し、口に咥え、火を着けた後で。


 ようやく僕たちの存在を思い出したかのように「あ。いやぁ、ごめんごめん。怖い思いをさせたね」と、胡散臭い笑みを浮かべて言う。


「僕は今年度の黒銅竜ブロンズドラゴンの新入生を預かっている、オリオン・ヴァンプ・メイザースというおじさんだ。寮は違うが、仲良くしてくれ」


 楽しくやろう、若人——と。


 その男は、オッサンの定型句のようなことを、ニヤニヤと笑いながら言うのだった。

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