第5話 根と幹

 以前、小説であれ絵画であれ、作品には作者の人となりがにじみ出る、と誰かが言っていた。その人がそれまでの人生で見聞きしたこと、考えてきたことは、その人の血肉となり、作品にもそれが自然とにじみ出るのだそうだ。

 また一方で、作品と作者は切り離して考えなければいけない、というのも聞いたことがある。作品は現実そのままではなく、何かしらの形で作り手の創作が加わっているのだから、と。

 そうだ。どちらの話も、現代文の先生が言っていたことだ。授業で志賀直哉の「城の崎にて」をやった時に、そんなことを言っていた。この作品を執筆した頃、志賀直哉は療養のため城崎に滞在していたらしい。だけど、作中にあるようなグッドタイミングで事が進んだかというと、どうもそうではないだろう、彼の創作が入っているだろう、と先生は言っていた。


 この二つの考え方を踏まえると、パパのこれまでの人生は、どれぐらいが本当の出来事なんだろう。私にはこの世のものとは思えないようなできごとが、パパの小説にはたくさん描かれていた。


 恐らくはパパが書いたであろう小説は、その多くに地方出身の男の人が登場する。隣町とさえほとんど交流がない閉じた環境で育てられた子どもが、人生の色々な節目で家族に苦しめられ、あるいは社会の中での生きづらさを感じ、その場から逃げ出そうとする。そういう話だった。彼らの故郷は離島であったり山深い集落であったりと、一作一作の設定は様々だ。だけどその根っこにあるもの、作者が表現したかったであろう根幹の部分、登場人物が抱える陰の部分は、どの作品も似通っている。何の思い入れもなく、これだけの作品で作者が同じ要素を盛り込むとは思えない。そこには作者自身のこだわり──恐らくは作者自身の過去──が反映されているんだろう、と当然私は解釈した。

 それぞれの作品にパパの過去が反映されているとして、じゃあ、本当にパパの身に起きたのはどれだろうか。親に言われるまま県庁のエリート職員になったものの、人生の意味を見出だせなくて失踪した人。実家を継いで世間的には満ち足りた人生を全うした人。親の許さぬ相手と駆け落ちして、ささやかだけど幸せな家庭を築いた人。毒親の下から逃げ出したけれど、自らも子を苦しめてしまう人。とても、現実の一人の人生には収まりきらない内容だ。間違いなくキャパオーバーだ。


 もっと何か掴みたい。パパのこと。他に何かないか。そういえば、と思って本の最後のページを開くと、作者の名前の横にSNSのアカウントが書かれているのが目に入った。ここなら、パパが本当のことを何か言っているかもしれない。そう思って、私はネットでそのアカウントを探し始めた。

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