ヴェルヌスの首:あの日の戦場でみたもの

 ヴェルヌスについては、首を切られる以前のことをカーンは知らない。刻印を持つ魔術師が一同に会した二百年前のあの戦場で、カーンは初めて彼を見た。

 瘴気が立ち込め、人肉の焼けた匂いでむせ返る戦場。槍が刺さったまま動かなくなった歩兵を踏みつけて、進軍する騎士隊。その騎士隊を射殺す弓兵を、魔術師が燃やし尽くす。

 命が惨めに踏みにじられる戦場で、誰もが人間らしい心を失っていたあの時、戦場を見下ろす高い崖の上に、白銀の髪の娘が立った。

 氷のエレメントを掲げ、歌を歌うように呪文を唱える彼女の姿に、その場にいた全ての魔術師たちが手を止め、彼女を見上げた。

 白い衣の女神。刻印の血統に深く刻まれた、祖の姿。

「メティス……?」

 誰かがそう、口にした。師から弟子へとその名が伝えられてきた、魔術師の始祖メティス。全ての魔術師が彼女の血を引いている。その中でも一際力のあるものがわかるようにと、彼女が記した薔薇の形のアザが、刻印の魔術師たちの誇りだった。

 魔術師の誰もが祖の姿を見上げ、愛おしみ、涙したその時、辺りが白く光った。

 天地もなくなるほどに白く、音も消え失せ、カーンは知らぬ間に地面に突っ伏していた。頭を酷く打ったらしい。周りの者たちも皆、地面に倒れていた。

 何があった?

 身体を起こして辺りを見ると、煙のように燻っていた瘴気が全て消えていた。息がしやすい。

 そして、崖の上に女神の姿はなかった。

 あれは幻だったのか。

 疑問を抱えながら立ち上がろうとした時、遠くから土煙が上がる。

「逃げろ!」

 悲鳴。白い甲冑を纏ったアイリーン国の騎馬隊が、波のように押し寄せていた。

 カーンが次に気づいた時は、救護班の天幕が見えた。

「目が覚めたかい」

 パベルが、カーンの近くに座っていた。

「外へ出るのに、手を引いてもらえるかな」

 彼は目元に包帯を巻いていた。

「何があった」

「あの白い光で目がやられたんだ。君は、何ともないの?」

「ああ、私はなんとも……」

 カーンはパベルの手を引いて、天幕の外へでた。辺りには天幕の中へと入りきらなかった負傷兵が、地面で呻いている。救護兵はあたりを駆け回るも、もはや手当てのための物資が不足し、ただ嘆きを深めるばかりだ。助からなかった兵士の遺体はまとめられ、燃やされていた。

「あの白い光の後、アイリーン軍の騎馬隊が来て、それで……」

二人が天幕から出てきたのを見て、状況を説明したアンナの声が震えていた。

 どうやら戦争は、勝敗がついたらしかった。

「目がやられてしまって、よかったよ」

 自嘲気味に、パベルが呟く。カーンは何も答えられなかった。

 パベルを座らせてやり、カーンはサマルを探した。魔術兵団の指揮官が彼だったからだ。

 サマルは陣の端で、メティスの立っていた崖を見上げていた。

「サマル、この後……」

 崖の上に、誰かが立っていた。サマルはそれを、食い入るように見つめている。そこにいたのは、ゆるく波打つ亜麻色の髪が風に揺れる、儚げな青年だった。

「あいつを捕まえろ!」

 突然、感情をむき出しにして、サマルが号令をかける。しかし誰も動かない。普段声を荒げるようなことなどないサマルの様子に、カーンはもちろん、近くにいたアンナも驚いてしまった。

 更に驚くことに、崖の上に立っていた青年が自らサマルの前に現れた。彼のいた崖からティタシア陣営までは当然ながら距離があり、到底サマルの声が聞こえない筈だったが、青年はどこからともなく花の香りをまとって現れ、静かに着地した。

「私が、何かしました?」

 サマルが己を糾弾して指をさすのがさも疑問だと言うような態度で、彼は尋ねた。優雅で、落ち着き払っていた。言われてみれば確かに、その場にいた誰にもサマルが彼を捉えようとしている理由がわからなかった。

「ヴェルヌス、お前だろう。我にはわかる。お前でなければ、他に誰がいるというのだ」

「久しい再開の挨拶もないのですか、サマル。私たちが会うのは数百年ぶりでしょう?」

 アイリーン国の王族や貴族に特徴的な正確な発音のアイリーン語だ。それがサマルを更に苛立たせたようだった。

「挨拶などしている場合か。お前が……!」

 サマルは怒りに震え、その先の言葉が続かないようだった。

「サマル様、落ち着いてください」

 部下がそう声をかけるも、サマルの耳には届かない。ヴェルヌスを見据え、殺気を放っている。

 怒るサマルと、優雅に笑うヴェルヌスの対照的な様子に、周りの者たちは困惑し、どうすることもできずにいた。

「ねえカーン、サマル様と、あの、ヴェルヌスって人、ちょっと似てない?」

 恐れ知らずのアンナが、耳打ちしてくる。

 確かに、ヴェルヌスの顔にはサマルに似ているところがあった。目元のあたりが似ているのだろうか。

「ええ、私とサマルは血の繋がりがありますから」

 にこりと笑って、アンナの疑問にヴェルヌスが答えた。ここが戦場であることを忘れ、春の園にいるのだと思わせるような柔らかな笑みだ。

「やつは我のいとこだ」サマルが続けた。

「へえ、いとこなの!」

 アンナはまるで喫茶店で話しているかのような呑気な声を上げた。

「それで、サマル様はそのいとこ様に、どうしてお怒りなんです?」

 その場にいる全ての者が抱いている疑問が、ようやく言語化された。

「あの娘の姿、大おばあ様の姿を真似させているな」

「メティスの真似? いいえ、サフィアは、元からあの姿ですが。……もしかして、知らないのですか?」

「何をだ」

「アイリーンに流れる『青の血統』ですよ。あなた、あれから一度も、アイリーンに帰っていないのですか」

 サマルの出身は古代のアイリーン国だ。刻印の魔術師の祖であるメティスのひ孫。古から生き続けている大魔術師。ティタシアに根付き、その地で育った全ての魔術師たちの敬愛なる御師匠様。叡智の源。

 その大魔術師が、うろたえていた。

「サマル、あの時、私があなたを振って国に残ったのは花園のことだけではないのですよ。メティスの血はいまでも濃く、アイリーンの家に流れ続けている。サフィアはそのひとりなのです」

 サマルがよろめき、カーンは慌てて駆け寄って彼を支えた。

「なにが、どういうことだ?」

 サマルに問いかけた。

 彼は何かを振り払うように首を横に振り、「あれは、我らが祖メティスではなかったということだ。メティスを騙り、我々魔術師を油断させ、騙し討ちにしたのだ」

 サマルはまっすぐ、ヴェルヌスを指差して叫ぶ。

「こいつを捕らえろ! 我らが軍を陥れた仇敵だ!」

 魔術師たちが、ヴェルヌスを捉えようと魔術を放つ。

「まあ、弱い魔術がたくさんで面白いこと」

 ヴェルヌスは自分に向かって放たれた真術をひとつも避けたり、弾き返えしたりすることもなく、易々と捕縛された。

「それで、私を捕まえてどうするつもりなのです?」

 ヴェルヌスは、捕まっているにも関わらず、穏やかに笑っている。この時になって初めて、その場にいた者たちがヴェルヌスの異常性に気づき、恐怖し、震えた。彼はこの穏やかさで、ティタシアの軍を壊滅させたのだ。

 サマルは戦場に転がっていた大斧を手に取り、振り上げた。

「こうするのだ」

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