ヴェルヌスの首:北の城にて
「サマルさまぁ、ここに朝食置いておきますからね」
そう声をかけるも、扉の内側からは何の返答もない。ソコルは持ってきたばかりの新しいワゴンと、全く手が付けられていないワゴンとを取り換えて、扉の前を去った。
「サマル様、食べなくて死んじゃわないですかぁ……?」
ワゴンと共にとぼとぼと戻って来たソコルは、カーンにそう愚痴をもらす。
「魔力が多いから、死なんだろうが……。今回はいつから食事を摂っていないんだ」
「もう一週間です……」
サマルの身が心配なソコルは、その目に涙を浮かべている。
まあ、一週間くらいならまだ大丈夫だろう。ソコルの返答を聞いたカーンは、少し安堵する。問題は食事よりも、部屋の中での様子だ。食事を摂らなくなった原因が知りたい。
カーンは水晶を呼び寄せ、そこにサマルの部屋の中を映し出す。
地平線から太陽が顔を出そうが窓かけがそのままになった陰鬱な部屋の隅で、サマルは床に直で横たわっていた。その近くには新聞が落ちている。
ああ、なるほど。と、カーンは納得した。
「ソコル、ついて来い」
カーンはソコルを従えて、サマルの部屋へと向かう。城の北部にあるサマルの部屋は窓が南に向いており、寒さが厳しいティタシアにとっては一等良い部屋だ。しかしサマルは窓かけをひいて日光を遮断してしまう。彼こそ陽を浴びねばならないとわざわざその部屋を配したのに、とカーンはいつも悩ましく思っていた。
「サマル、入るぞ」
声をかけて、扉に触れる。鍵がかかっていた。その上、魔術で開かないように強化されている。
カーンはため息を吐いた。
「すごく難しい術式ですね……。これを解除しないと、お部屋、入れないんですか?」
「いや、そんなことはない」
魔術師は、魔術に頼り過ぎるところが愚かだ。
カーンは手に魔力を込めて、扉を押した。大きな音を立てて、扉が外れる。鍵に魔術がかけてあるならば、扉ごと壊せばよい。物理は時に、魔術を圧倒する。
カーンが手を横に動かすと、それに合わせてカーテンが開き、端にまとめられた。
「サマル、ソコルのために食事を摂れ」
カーンが、サマルを足の先でつついた。彼は身をよじって、ダンゴムシのように更に身体を縮める。
サマルが、身体を丸めて横になっている傍の床に台座が置かれ、その上に『首』が置かれていた。
ヴェルヌスの首だ。その瞳は閉じられ微動だにせず作り物のように見えるが、この首は生きている。
古代魔法ならではの、膨大な魔力に頼った力押しの方法で、ヴェルヌスは首が落とされても生命を維持していた。彼の身体はアイリーン国の刻印村にあり、首だけがここ、ティタシア国にある。
カーンは転がっていたドーム型のガラスカバーを拾い上げた。普段は、ヴェルヌスの首の台座にかぶせられているものだ。それから、首が乗っている台座に手を伸ばす。
「触るな!」
低い声。サマルが、カーンの腕を掴んだ。いや、掴んだなんてものではない。ありったけの魔力が込められ、カーンの腕は万力で押しつぶされるかのように形を変えていく。
カーンは痛みに痛みに顔をゆがめ、言葉を発することもできず、うめき声をあげる。額に、脂汗が浮かぶ。
「やめて! サマル様、やめて!」
ソコルが真っ青な顔でサマルの腕にすがりつくが、まだ幼い彼の力では到底やめさせることなどできない。
「サマルさまああ!」
己の非力さに、ソコルが涙を流す。
カーンは気を失いそうな痛みの中で、ソコルに「この、ドームを」と指示をする。このドームを受け取れ。カーンはもう、ガラスドームを落とさないように持っていられなかった。
「はいっ」
慌てて、ソコルはガラスドームを受け取る。
その時に見た、サマルの正気を失った目。ソコルはガラスドームを持ったまま、石のように固まってしまった。
「ソ、コル」カーンは必死に声を絞り出す。「離、れて、いろ。決して、こちらを……見る、なよ」
カーンが魔法で、ソコルを部屋の隅に動かす。ソコルはガラスドームを抱えたまましゃがみ込んで、耳をふさいだ。
カーンはそれを確認すると、己に活を入れるために叫び声をあげ、自らの腕を切り落とした。
辺りに鮮血が広がる。カーンの右肩から、とめどなく血が流れていく。
カーンは無事な左手を動かして、傷口を抑えた。魔力を注ぎ込み、止血を行う。部屋の中に、カーンの荒い息遣いが響いている。
「……カーン」
正気を取り戻したサマルは己の左手にあるカーンの腕を見て、困惑していた。そして、その困惑の答えを、求めていた。
「おい、私の腕を寄越せ」
サマルは慌てて、腕を差し出した。カーンはそれを左手で受け取る。握られていた箇所はひどく変色していて、骨が粉々に砕けているだろう。
「サマル。あなたは、その新聞記事を読んで正気を失っていた。そして私が手荒な真似をした。それだけだ」
カーンは話しながら、右腕を魔術で氷結していく。
「……それは、よくあることだ。しかし、今回は……」
凍り付くカーンの腕を見て、サマルは己のしたことを徐々にわかり始めていた。
「記事の内容が、辛かったのではないのか?」
カーンの問いかけに、サマルは黙ったまま、床に転がった新聞を見つめた。
『聖女降臨 アイリーン国賢者を得る』
隣国アイリーン国にて聖女サフィアが、王子ラスターに『賢者』を授けたという記事だ。そのこと、いや、そのことから思い出された過去のことにサマルは非常に動揺し、閉じこもり、正気を失っていたのだ。
カーンは部屋の隅に行って、魔石通話機の受話器を手に取る。
「オリガ、すぐに来てくれ。サマルの部屋だ。……。ああ、まあ、少しな。ソコルを連れて行ってもらいたいんだ。かわいそうな目に合わせてしまった。……。怪我はしていない。……ああ、そうだな、カーシャがいるなら、それがいい。送った方が早いか? ……。わかった。頼む」
カーンが受話器を置いた途端、部屋の隅からソコルが姿を消す。オリガが、早速ソコルを呼び寄せたのだ。それから直ぐに、オリガが部屋に現れた。
「カーン様、ソコルはエカテリーナ様にお預けしました。カーン様も早く治療を」
カーンはそれには応えず、床に座り込んだままのサマルから一番近い椅子に腰をかけた。
「サマル、その首をヴェルヌスに返さないか」
その言葉に、サマルは驚いて顔を上げる。
「お前、何を言っている……」
「あなたのためだ、サマル。あなたが救われるために首を返すべきだ」
サマルは言葉なく、カーンを凝視していた。
「ヴェルヌスの首をあなたが落としてから、もう二百年が経った。充分なのではないか。最近のヴェルヌスの身体は、菜園と花園に水をやり、食事を作り、サフィアの世話をして過ごしているそうだ。これほど平和で無害なことがあるか。あなたの心配するようなことには、もうならない」
「……カーン、お前は僕を買いかぶりすぎだ。僕が真に心配しているのは、ヴェルヌスが再び企てをすることではない」
サマルは項垂れて、自分の顔にかかったカーンの血を拭う。
「僕がヴェルヌスの首を落とすと決めた時、今思えば、怒りの中に喜びがあった。仄暗い喜びだ。ヴェルヌスを自分のものだけにできると、期待したのだ。あやつの罪を口実に、己のために首を落としたのだ。……僕が心配、いや、恐れているのは彼が手に入らないことを再認識することだ」
「それならば尚更、首を返そう。あなた方は長く生きているのに、お互いに話し合うことをしていなさすぎる。サマル、十分に話した後でなら、選ばれなくとも受け入れられはしないだろうか」
カーンの説得に、サマルは静かに耳を傾けていた。
「彼に首を返せば、少なくともあなたはこのことで罪の意識を感じることはなくなる。それだけでも、楽になるのではないのか。これまで幾度もあなたにカウンセリングを勧め、すべて失敗してきた。皆、あなたよりずっと年若く経験が浅いからだ。あなたと対等に話せるのは、この世にはもはやヴェルヌスしか居ない。サマル、あなたはヴェルヌスの首を返し、彼と話をするべきだ」
サマルは、返事をしない。項垂れたまま、黙っている。
カーンはしばらくサマルの返事を待ってみたが、彼は一向に黙ったままだ。その間、オリガがサマルの腕の氷結を解いて、彼の肩へ当てると、魔術で腕を治していく。少ししてエカテリーナも合流し、オリガを手伝った。
オリガとエカテリーナの治療により、カーンの腕は元の通りに治った。カーンはふたりに礼を言うと、つながった右腕を確かめ、手のひらを閉じたり開いたりと動かしてみた。どこにも問題はないようだった。
サマルはまだ床に座ったまま、答えを出さない。ヴェルヌスの首を見ようともしない。自分の殻の中に閉じこもってしまっている。その殻の中で色々と考えていることがあるのだろう。
この二百年で、サマルはすっかり衰えてしまった。見かけの話ではない。刻印の魔術師は歳を取らない。サマルから覇気や気力が、すっかりなくなってしまったのだ。
カーンはエカテリーナとオリガを連れて、サマルの部屋を出た。
「カーン様、昔、サマル様に何があったのか、教えてくださいませんか」
それはオリガはもちろんソコルや他の年若い者たちが知らぬことだ。
カーンは首を横に振った。
「若い者は、知らなくても良いことがある」
「ですが!」
食い下がるオリガの腕を、エカテリーナはそっと掴んで止めさせた。
「カーシャ、アイリーンの村へ行ってくれるか」
カーンの要請に、エカテリーナは静かに頷いた。
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