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「岩崎くんは、もしかしてあれからずっと、こんな感じ?」

 千波の問いに何も返せない。その通り、あの事故から僕はずっとこうだ。部屋から出るのは食事とトイレと風呂、そして月に一度通わされている精神科への通院日。それ以外はずっとこの部屋にいる。雑然という言葉では済まされない散らかりようの自室。掃除もろくにしていなければ、簡単な片付けすら最後にしたのはいつだっただろう。こんな場所で、こんな有様でいる僕を、千波はどう思って見ているのか、絶対に知りたくないと思った。

「まあ、人間いろいろあるよ」

 からっとした言葉が続いて、気付かないうちに俯いていた顔が上がる。

「岩崎くん、捨て猫みたいな顔してるね。あれ、なんかそんな歌あったよね、古い歌で。タイトル全然思い出せないな。まあいっか」

 笑いを含んだ声に、冗談めかした言葉。彼女はこんな風に人と話をするタイプだったのだと、ただ遠くから見ているだけではわからなかった。「捨て猫みたい」と言われて、一体どんな顔で千波の前にいるのだろうと、自分の顔に手を当てる。かさついた頬の感触。シャワーを浴びた時に、いくらなんでもみっともないと思いつつ剃らなかった髭が指先に触れる。

「事情はどうあれ、その髪と髭はどうにかした方がいいと思うよ」

 先ほどとは違う意味で返す言葉がなかった。元々薄い方だった髭も自分で気になるほど伸びているし、視界を半分ほど隠している髪は最後に切ったのがいつのことだったか考えたくもない。

「髭だけ剃ってくる」

 僕は親に怒られた子どものように立ち上がって部屋を出た。

 二階の自室から一階の洗面所へ向かう。古い家の廊下も六月ともなれば快適な温度になっていて、裸足に伝わるほんのりとした冷たさが心地いい。両親がテレビを見ているのであろう居間の前をそっと通っていき、鏡の前に立つ。

――ひどい顔。

 「捨て猫みたいな顔」と評した千波の気持ちもわからなくはない。僕が他人の立場だったらとてもではないが関わり合いになりたくないような、惨めな青年の姿が目の前にある。

 この期に及んで、自分の惨めな姿をどうこう思いたくない。努めて無心になってシェービングフォームを顔に塗りたくる。T字カミソリで髭をあたっていくと、敏感肌気味の皮膚が少しひりひりする。

 髭はどうにかできても、伸び放題の髪は自力ではどうすることもできない。久しぶりに手入れのされた顔とはアンバランスな、やや癖のある髪の束を手でつまんで溜め息をつく。

「留めちゃえば?」

「うわっ」

 突然横から飛んできた声に驚いて、数歩後ずさる。見ると、悪戯っぽく笑った千波が自分の前髪のあたりで右手を横向きのチョキにして、二本の指をぱちんとくっつけた。洗面所の横の棚へ反射的に視線を向ける。母が使うブラシと髪ゴムに、いつ使っているのかわからない化粧品の類。その中に、黒くて細長いクリップのようなものを見つける。歳の離れた姉が昔使っていたものだったはずだ。

「いいものあるじゃん。前髪留めとくだけで違うと思うよ」

 千波の目も同じものを捉えているようだ。言われるがままにその髪留めクリップを手に取り、先ほど千波がジェスチャーで示した通りに前髪を挟んでまとめる。そうすると、視野が一気に広がったような気がした。姉が使っていたものを拝借するのに抵抗がないとは言えないが、家を出て久しい姉の目を気にする必要はない。

 気配を消して居間の扉の前を再び通り過ぎ、部屋へ戻っていく。後ろをずっと千波がついてきていたが、万が一両親と鉢合わせたとしても、両親に千波の姿が見えるかどうかはわからない。

「まあ、捨て猫から保護猫くらいにはなったかな」

 千波がまじまじと僕の顔を見てそう言う。結局僕も千波も部屋を出る前と同じ構図で落ち着いてしまった。

「それはどうも」

 思ったよりランクアップしていないなと思い、そっけない返事を返してしまった。髭を剃ったくらいで血統書付きの飼い猫などにはなれるわけがないのに。

「髪、切りに行けば?」

 眉間に皺を寄せる千波。

「やっぱり、汚らしい?」

 当たり前だとは思いつつ問うと、千波は慌てたように胸の前で両手を振った。

「違う違う。汚らしいとかって話じゃなくて。いやまあ、清潔感があるかって言えばそうは見えないけど。でもそうじゃなくて」

「何?」

 千波は困ったように首を傾げた。

「岩崎くんって髪が短いイメージだったから、なんかしっくり来なくて気になる」

「えっ? ああ……」

 そういえば、高校時代の僕は月に一度は馴染みの床屋へ足を運び、可もなく不可もない短髪に整えてもらっていた。髭や顔の産毛を剃ってもらうついでに、敏感肌の人にいいと教えてもらった化粧水をつけてもらっていたから、肌の調子も今よりずっと良かった。通院のついでに寄るドラッグストアでは取り扱いのないその化粧水を切らして三年ほど経つから、肌がこんなにカサカサになってしまったのかもしれない。そう考えると、高校時代と今では生活だけでなく見た目までもずいぶん変わってしまったようだ。

「だいぶ痩せたみたいだし。うーん、やっぱり違和感がある。すっごく」

 千波の言う通り、食事がまともに喉を通らなくなった僕の体重は引きこもっている間にかなり落ちた。元は中肉中背だった身体がだんだんもやしのようになっていくことには自分でも気付いていた。

「とりあえず、元の岩崎くんを取り戻そう」

 決意表明のように、千波はその場に立ち上がってはっきりと告げた。

「えっ、ちょっと待って。どうして」

 どうして今更、そんなことをしなければいけないのか。そう顔に書いてあったのか、千波は真剣な顔つきで僕の方へと一歩近づいた。

「私はもう死んでるから時間なんて関係ないけど、岩崎くんは違うよ。今まで見てきた同級生の中で、岩崎くんがダントツで立ち止まってる。立ち止まったままでも生きてさえいれば時間は進むけど、後からつらいのは自分だよ」

 優しく諭すような千波の声。立ち止まりたくて立ち止まっているわけではないのだ。どうして立ち止まらざるを得なかったのかもわからずに、途方に暮れて三年と五ヶ月が経ってしまったのだ。

「そんなこと、わかってるよ」

「わかってない」

 精一杯の反抗の言葉を、千波はぴしゃりと否定する。

「金山さんに、僕の何がわかるっていうのさ」

 強い口調で言いたかった言葉は弱々しく震えた。

「わかるわけないじゃん」

 きっぱりとした言葉を受けて、つい黙り込んでしまう。

「岩崎くんの事情なんて私の知ったことじゃないけど、一つだけ私にもわかることがある。足が動かなくなった時、誰に手を引いてもらってもどうしても歩き出せないこともあるんだよ。それでも、そういう人の腕を引っ張り続ける人がいないといけないの。岩崎くんのために言ってるんじゃないよ。どうしても動けないところを誰かに引っ張り出してもらった人は、その分誰かを引っ張り出してあげないといけないっていう、それだけ」

 千波の口から出る台詞のすべてが、僕に一切の反論も言い訳も認めないという意思を示していた。自分の言いたいことを言い終えて、再びベッドの上に腰を下ろす千波。

「せっかくの誕生日じゃん。新しいスタートにはちょうどいい日だと思うよ」

 精悍な顔つきの千波が優しい口調で言う。高校時代の三年間、僕が人知れず思い続けた顔だ。涙が出たわけでもないのに、その顔がほんのわずかだけ滲んだ。

「ん? なんで誕生日だって知ってんの」

「そりゃ知ってるよ」

 この場にふさわしくない言葉選びとわかりつつも口にした疑問に、わざととぼけたような口調の千波は笑った。

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