君と僕と質量保存の法則
ひつじ
1
今から三年と五ヶ月前、猛吹雪の日だった。僕の住む町から市街地の方へと出ているバスが横転する事故があった。その日は奇しくも大学入試センター試験の日で、その事故での死傷者の中には受験会場へ向かう高校三年生も含まれていた。大学進学を希望する高校三年生だった僕は、その日のそのバスに「乗らなかった」せいで、引きこもりになった。
あの事故を経験して、それでも大学へ進学した同級生は、今は就職活動で一生懸命らしい。事故の影響で浪人した同級生も大学生活は順調らしい。この地域に住んでいた当時の受験生の中で、僕は唯一あの事故に遭っていないのに、知り得る同級生の中で僕だけがあれから部屋に閉じこもり続けている。
夕食を終え、数日ぶりに気が向いたシャワーも終え、僕はベッドにごろりと横たわった。煌々とついた部屋の蛍光灯が、荒れ果てた室内を僕に見せつける。足の踏み場もない、と表現できる一歩手前の惨状で、どこに何が放置されているのかも思い出せない。なんだか嫌になって目を閉じてしまう。こうして目の前のことから逃げ続けて、三年と五ヶ月。二十二歳の誕生日を迎えてしまった今日は、特別に惨めで情けない気分だ。
「ずいぶん情けない有様だね」
耳に届いた声に、本当にその通りだ、と顔を伏せる。一瞬の間を置いて、僕は勢いよく起き上がった。実家とはいえ、一人きりの部屋に僕以外の声が聞こえるわけがない。
「は……」
間抜けな声が漏れた。目の前には、出身高校の制服であるグレーのスカートに黒のピーコートを着込んだ、かつての同級生が立っていた。
僕はとうとう頭がおかしくなってしまったのだ。「最近はどうですか」「眠れていますか」以外のやり取りをほとんどしなくなって久しい精神科の診察に、次に行く時にでも相談してみた方がいいかもしれない。再びベッドに倒れ込み、枕をたぐり寄せて顔を深く埋め、今見えたばかりの幻覚をなかったことにしようとした。
「いや、待って。絶対見えたでしょ、今」
何がおかしいのか笑いを含んだ声で、同級生の幻覚はそう言ってくる。この場合は幻聴と表現するのが正しいだろうか。枕に顔をめり込ませるようにして耳まで塞いだ。
「ちょっと、岩崎くん、聞こえてますか。聞こえてるよね。おーい。岩崎龍平くーん」
幻聴というのは想像以上にしつこい。睡眠薬を飲んで眠るのが一番いいと判断し、意を決して身体を起こした、その時。
「うわあ」
驚いてバランスを崩し、足側の壁に頭をしたたかに打ちつけてしまった。同級生の幻覚が僕のすぐそばまで迫ってきていたのだ。幻聴が大笑いを始める。
「ウケる、めちゃくちゃ間抜け。ヤバい、ツボった」
じんじんと痛む頭を手で押さえて幻覚を見やると、幻覚はお腹を抱えて笑っていた。自分の幻覚に貶されるなんて、僕もいよいよだ。机の引き出しから睡眠薬を取り出すために立ち上がろうと、体勢を立て直す。すると、幻覚は慌ててそれを制止してきた。
「待って。見えてるなら無視しないで」
無視して立ち上がり、床に散らばったいろいろなものを足でよけながら机の方へ歩く。
「聞こえてるよね。岩崎くんってそういうキャラだっけ」
引き出しを開けて、薬の袋を取り出す。錠剤をシートから取り出して机に並べ、袋を再びしまい込む。
「やっぱ、幽霊とか信じないか。まあ、そうだよね」
つい、声のする方を振り向いてしまった。幻覚は寂しそうな顔をして、先ほどまで僕がいたベッドの上に腰かけていた。
「マジで、金山さん、の、幽霊?」
今日になって初めて出した声は掠れてしまって、しかも壊れたラジカセのように途切れ途切れの言葉になった。幻覚――だと思いたかったもの――と初めてきちんと目が合った。僕の知っている、真面目で聡明な人柄をよく映した目だった。
「岩崎くん、お久しぶりです」
幽霊という存在をはっきりと肯定も否定もしたことはないが、その類の話を本気にしたこともなかった。三年と五ヶ月前にあのバスに乗っていた、あの事故での唯一の死者だった高校の同級生、金山千波。本当に存在しているかのようにはっきりとこの目に見えているのに、この世にはもう存在しているわけがない彼女。信じる信じないを越えて「幽霊」という概念でしか説明できない存在が、今の僕の目の前にはあった。
金山千波は目立たない女子だった。三年間同じクラスだった僕でも、女子の輪の中にいるところをほとんど見たことがない。しかし何かの折に同級生から話しかけられれば笑顔でそれに応えていた。所属している委員会は選挙管理委員会で、生徒会選挙の時にしか仕事をしない。部活には入っておらず、帰りのホームルームが終わってふと気付くとすでに教室から姿を消している。休み時間は読書ばかりしていて、ページをめくる速度は異様に速い。男女が別である体育のことはよく知らないが、定期テストのクラス順位は常に十位以内。ただし、学年順位になるとギリギリ名前が貼り出されないのだった。周りの同級生が交わす会話の中で彼女の名前が挙がったことは、三年間でも数回あったかなかったかだ。これらの情報をすぐに思い出せるのは、僕が三年間彼女に注目し続けていたからに他ならない。
二年生になってから、彼女がスカートをほんの少しだけ短くしたことにも気付いていた。彼女の黒くて艶のある真っ直ぐな髪が、ほとんど常に肩の位置で切り揃えられていることにも気付いていた。いつも右手でペンや箸を持っている彼女だが、バランスを崩した時に咄嗟に出す腕は左であることにも気付いていた。それなのに、三年間で僕と彼女が特別親しかった時期があったかと言われると、それは一切なかった。僕は三年間、彼女に片思いをし続けていたのだった。
友達は多くも少なくもなく、学年の中でも可もなく不可もない存在だった僕。浮いているわけではないが誰とも馴染まないように見えた彼女。ただ同じクラスであるというだけでは、僕達の関係はどうしても交錯しなかった。それを早々に悟った僕は、片思いのままで卒業式を迎えようと決めたのだった。あのバス事故があって彼女は亡くなり、僕は引きこもりになり、理由は違えど結果的に卒業式には二人とも出席していないのだが。
散らかり放題の部屋の中で突っ立って、あの日に亡くなったはずの千波と相対している。忘れかけていた千波の記憶が次々と蘇ってくる。ただ、その記憶の先にあるのは、甘酸っぱい感情などではなく、僕の人生を決定的に狂わせたバス事故だ。
「三年以上も経って、今更どうして」
声が喉の奥に擦り傷でも作ったように、自分の言葉に痛みを覚えた。ベッドに腰かけたままの千波は、最初に見えた時よりもわずかに輪郭が滲んでいるように思えた。やはり彼女はこの世のものではないのだ。
「彷徨ってたっていうか。クラスのいろんな人のところを転々と」
「転々と?」
オウム返しの僕の言葉に、千波は困ったような笑みを見せた。
「こういうの、チャンネルが合わないっていうのかな。死んでから今まで、いろんな同級生のところに行ってみたんだけど、誰も気付いてるふうじゃなくて。一生このままなのかなって思ったところでまさかの、この状態。あ、死んでるのに一生っていうのもおかしいか」
千波は自分で言って自分で笑った。一対一で話してみると、彼女はこんな話し方をする人だったのか、と思わされる。
「じゃあ、今までずっと成仏できずに幽霊として漂ってた、ってこと?」
「まあ、そうだね」
それを聞いて少しの安心を覚えてしまった僕は、なんて不謹慎なのだろう。僕はつい、あの事故で時間が止まってしまったのは僕一人ではなかったのだ、などと安堵してしまったのだ。ただ自分自身の気持ちの問題で立ち止まっているだけの僕とは違って、千波の時間はどうしたって再び進みはしないのに。
「とりあえず、座ったら?」
僕の内心に構わず、千波が自分の隣を手で軽く叩く。その様子はまるで生者のそれなのだが、彼女の輪郭は合成写真のようにわずかな違和感をもっている。僕の足はなかなか千波の方へ踏み出せなかった。その代わりに目の前の椅子を引いて、千波の方へ身体を向けて座る。片肘が机に、片肘が椅子の背もたれに当たるこの体勢をとるのは、高校時代の休み時間以来だ。
「それ、薬? なんの?」
黙り込む隙も与えずに、千波が尋ねる。指差している先には、先ほど僕が取り出した睡眠薬がある。
「眠剤」
「眠れないの?」
「まあ」
相手は幽霊なのだが、不思議と素直に返事をしている自分がいる。千波の方も、なぜだか当然のように僕と会話をしている。
「インフルエンザ、あの後大丈夫だった?」
瞬間、心臓がばくばくと胸を叩きつけ始めた。手のひらに嫌な汗が噴き出るのを感じる。「大丈夫だったよ」とでも返せばいいのに、どうしても声が出ない。
あのバス事故の日、つまりセンター試験の日、僕はインフルエンザで高熱を出していた。その前日に病院で診断を受けた僕は試験を欠席せざるを得なくなり、同じ地域に住む同級生にその旨を伝えていた。もしインフルエンザに罹っていなければ、僕も皆と同じようにバスに乗って、電車に乗り換え、三つ隣の市にある試験会場へ向かっていたはずだったのだ。
自分が乗るはずだったバスが事故を起こして、同級生に死傷者が出たが自分は無事だった。この事実がなぜ僕の心にダメージをもたらしたのか、自分でも未だに説明することができない。試験の欠席を伝えた同級生も両脚の骨折という怪我を負い、一年浪人することになったと聞いたが、たまに来るメッセージの文面は元気そうだ。
「原くんは一年浪人したみたいだね。坂本くんは軽傷だったみたいでよかった。奈央ちゃんは思い切って短大に行ったんだね」
黙りこくっている僕に、平然と千波が言う。
試験前日に連絡を取った原、軽傷で済んだおかげで志望校に現役合格が叶った坂本、怪我の治療中に心境の変化があり、それまでの志望校とは違う短大へ進学して今は社会人になっているらしい奈央。千波と一緒に事故に巻き込まれた同級生は皆、田舎町であるこの地域で小学校から知った仲だ。千波だけは高校からこの地域に越してきた生徒で、僕が初めて千波を意識したのは登校時のバスで一緒になり「見かけない顔だ」と思った時だった。
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