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 眠って起きてみれば、こんな突然の再会もすべて夢というオチが待っているかもしれない。薬の力を借りて眠りに落ちる前にそんなことを考えたのだが、目の前には午前の日差しを受けて微妙に輪郭が揺れる千波の姿がある。

「なんかすごく、居心地が悪いんですけど」

 よれよれの長袖シャツに高校の指定ジャージといった、千波と再会した昨夜から着替えていない服装で、昨夜は千波が腰かけていた位置に座っている。彼女はというと、昨夜は僕がいた椅子の上にちんまりと収まっていた。

「そう言われましても」

 困り顔の千波。半強制的に僕の人生の再スタートを宣言した千波は、いつもとそう変わらない時間に眠る準備をする僕に「明日は髪を切りに行くよ」と言い放った。僕は返事をしなかった。

「その格好で行くの?」

 髪を切りに、という意味だ。

「本当に、行かないとダメ?」

 答えのわかっている問い。即座に「ダメ」という千波の鋭い返事を食らってしまった。

 去年パートの仕事を退職した母と出くわさないように洗顔を済ませて、朝食も食べずに部屋へ戻ってきた僕は、体感で一時間ほどこうして千波の強い視線を受けている。幽霊とわかっていても、そこにいるのが見えてしまっている以上、無視してベッドに横たわることができない。かといって、僕をどうしても床屋へ行かせたいらしい千波に向かって下手に話を振ることもできない。にらみ合いというよりは、僕がほとんど負けている状態だ。

「察してくれてるとは思うけど、僕はあの事故があってから、ほとんど外になんて出てないんだよ。最後に床屋に行ったのだって、えっと、二年、いや、二年で済むかな。とにかくそういう状態で今日まで来てるんだけど」

「うん」

「昨日今日の思い付きで気軽に外出できるようなら、僕はこんな生活はしてないと思うんだよね」

「うん」

「それに」

 言葉を重ねようとして、頭に浮かぶ現実のあまりの情けなさにそれをやめた。思わず頭を抱えて、伸び放題の髪をくしゃくしゃにした。

「言いたいことは以上?」

 黙って首肯するしかない。千波の声は決して強い口調ではないのに、強く怒られているような気分になってしまう。

「ずっとこんなところにいたなら、そりゃ怖いに決まってる。私もそれは理解できるよ。でも、ずっとここにいちゃダメ。せっかくいい機会なんだから、ちょっと勇気出してみてよ」

 ね、という声に顔を上げた。体感温度に合わないコート姿の千波が笑う。まるで、駄々をこねる子どもに対する母親の顔だ。

「私の知ってる岩崎くんに、まず見た目だけでも戻そう。その先は、後からついてくるよ」

 千波が立ち上がって、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。手を伸ばせば届くくらいの距離までやってきて、千波はぐちゃぐちゃに乱れているであろう僕の髪に手を伸ばした。触れられる感覚を想像して、なんだかいたたまれなくなって瞼をきつく閉じた。しかし、髪に何かが触れる気配はない。

「えっ?」

 情けない吐息のような声とともに両目を開いた。目の前の千波は、両手を軽く挙げて苦笑していた。

「まあ、幽霊だからそりゃ生きてる人には触れないよね」

 心からほっとしてしまったのはなぜだろう。僕の顔にも同じような苦笑が浮かぶのを自覚した。

「なんのつもりで、こんな」

 千波を見上げる体勢になる。自分の声が想像よりも弱々しく響いた。

「なんのって、とりあえず髪だけは切らないと始まらないよ」

 口を尖らせる千波。

「いや、そうじゃなくて」

「あ、これ? ははっ、やだ」

 つい先ほど僕へ向けた手を自分で見つめて、千波は遅れて僕の言いたいことに気付いたようだった。

「クリップ落ちてきてるから、つい」

「ああ、はあ」

 何が面白いのかけらけらと笑う千波の声を聞きながら、前髪を留めていたクリップを一度外して留め直す。確かに、クリップが前髪の量に負けて落ちかけていた。

「邪魔でしょ?」

 昨夜の洗面所でそうしたのと同じように、千波が右手を額へやってクリップのジェスチャーをする。

「まあ、うん」

「切っちゃえ」

 おどけたように、しかし力強い声。

「もし、途中で無理だと思ったら、引き返していい?」

 かつては遠くからひっそりと思いを寄せていた相手を前にして、この上なく格好の悪い台詞だ。恥ずかしさを通り越して泣きたくなった。

「よし。この際、服装はなんでもいいや。決心が揺らがないうちに行こう」

 腰に軽く手を当てて、僕に勇気を与えようとしているように元気よく言う千波。ほとんど彼女に乗せられるような形で、僕はおよそ二年ぶりに馴染みの床屋へ足を運ぶことになった。


 六月上旬の外気温はこれほど寒く感じるものだっただろうか。だらしない格好をごまかすように羽織ってきた、クローゼットの中で丸まっていた薄手のカーディガン。暑いかもしれないと思ったが、カーディガンがあっても身体が少し震える。

 田舎町の住宅地を歩く足取りはひどく重い。アスファルトが波打っているかのように足元がぐらつく。ジェットコースターから降りた後のような軽い吐き気を腹の奥底に押し込めながら、この感覚に覚えがあるような気がして、しばらく歩きながら考えていた。泥水の中を漕ぐように足を進めていくと、無意識に呼吸が浅くなっていることに気付いて、立ち止まって深く息を吐く。

「大丈夫だよ。行っちゃえばなんてことないって」

 背後から聞こえた声に思わず振り向く。雪のない歩道に馴染まない厚着の千波を視界に入れてから、少し遅れて前へ向き直った。僕にははっきりと見えている千波だが、彼女が今まで彷徨っていた間にこの姿が見えた人はいなかったらしい。彼女を無視するのは心が痛むが、なるべく会話をしないように気をつけておいた方がいい。

 永遠に続いているのではないかとも思える、かつては何を気負うこともなく歩いた道を進み、赤と青、そして白が回転する看板が見えた。これほど足に力を込めて馴染みの床屋へ向かう日が来るとは思わなかった。最後に見た時とはデザインが変わっている店名の看板の下までたどり着いた時には、ほんの十分と少しの距離を歩いただけのはずなのにへとへとになっていた。

「あれ、龍ちゃんじゃないの」

 以前と違って声を出すこともなく、記憶より重く感じる扉を開いた途端、しばらく聞いていなかったよく通るバリトンの声が鼓膜に突き刺さった。客のいない店内を僕が進んでいくスピードよりも速く、床屋の主人は僕のすぐそばまで近寄ってきた。僕の二の腕を大きな手で掴んで、目尻の皺をより深くして嬉しそうにする。

「元気だったかい。いつぶりだろうね。いやあ、こんなに伸びちゃって」

 今度は僕の髪にわしゃわしゃと触れる。くすぐったくて懐かしい感覚に、ふうと息が漏れた。

 馴染みの床屋の主人は、僕が高校一年生の時に還暦を迎えたと聞いた記憶がある。薄くなってきたから潔く、と言ってスキンヘッドにしている頭は中学生の頃から変わらない。そう身長の変わらない僕を幼い孫でも見るような目で見る眼差しもずっと同じだ。すっかり落ちるところまで落ちてしまった僕の様子を気にすることもなく、主人は機嫌よく僕を椅子の上へと促した。

 床屋の椅子というのは、普通の椅子に腰かけるのとは違って少しの緊張感を与える。およそ二年ぶりのそれは、僕の全身に記憶よりも強い緊張を走らせた。

「龍ちゃん、そんなガチガチにならないの」

 主人が軽く肩を揉んできた。幼い頃から僕を知る、しかし親でもなければ血縁者でもない彼の手は、不思議と僕の緊張をほどいていった。

 目の前の鏡に映る、みっともなく伸びてしまった髪。主人は魔法のように鋏を動かして、みるみるうちにそれを見覚えのある可もなく不可もない短髪へと戻していった。心地よく鼓膜を震わせるバリトンの声は、僕がここへ顔を見せなくなってからの店の話を子守歌のように語った。その間に僕が何をしていたか、どう暮らしていたか、決して聞くことはしなかった。近所の人と付き合いの深い主人のことだ。聞かずとも察している部分はあるのだろう。

「ほら、男前の出来上がり」

 はっと顔を上げた。気付けば僕は、目を閉じて主人の仕事に身を任せていた。顔の産毛もきれいに剃ってもらい、肌にすっと馴染む化粧水もつけてもらった。鏡で見る自分が、短くなった髪からの印象以上にすっきりして見えた。

 小さな子どもを誘導するように椅子から降ろされる。伸び放題だったとはいえそれほど重さがあったわけではないのに、頭が軽くなったような気がする。

「二千円ちょうどね」

 いつもと同じように髪を切ってもらうだけだから、料金はわかりきっている。長いことろくな会話をしていなかった母に「床屋に行こうと思う」と言うと、目を丸くした母は間の抜けた声で「あら、そうなの」と言ってから千円札を二枚手渡してくれた。三年と五ヶ月もの間引きこもりを続けてきた僕には、床屋へ行くお金すら自力で出せなかった。

「またおいでね」

 主人の声が僕の心に染み渡るようだった。馴染みの床屋で髪を切り続けているのは、幼い頃からの習慣とか、ただの惰性とか、そういったもののせいだけではない。髪や顔だけでなく心までさっぱりさせてくれるようなあの主人だからこそ、流行を取り入れたお洒落な髪型にはしてもらえなくても通い続けているのだ。

 帰り道の足取りは、行きとは比べ物にならないほど軽かった。晴れた空の下、肺の中いっぱいに空気を吸って、吐く。平日の午前中、このあたりに歩いている人はいないし、車通りすらない。だからこそ、長い間家に引きこもっていた僕でも気兼ねなく歩くことができている。

 生まれ育った自宅へ戻ってくる。ずいぶん前から軋むようになっていた扉を開けて、身体を家の中へ滑り込ませる。その瞬間、脚の力ががくんと抜けてその場に崩れ落ちてしまった。自分でもわけがわからないほど、ぼろぼろと涙が溢れてくる。身体が震えるのは寒さからではない。身を縮めて土間で動けなくなっていると、降ってくる声があった。

「頑張ったじゃん、すごかったよ」

 母の声ではない。もっと若い声だ。

「本当に、よく頑張ったと思う。大丈夫、岩崎くんなら大丈夫」

 生前にはほとんど聞くことができなかった声が涙を余計に溢れさせ、僕の心の中に溜まった泥を洗い流していくようだった。返事もできずに嗚咽ばかりを漏らしていると、自分の声に混じってぱたぱたと足音が近づいてくるのがわかった。

「龍平、どうしたの、そんなところで」

 年齢を重ねた分だけ深みをたたえている声。それに続いて、優しく肩に触れる手を感じた。

「家に入ろう。お茶でも飲みなさい」

 二十二歳にもなって母にこんな風に扱われるなんて、どうしようもなくみっともない。そう思ったところで気が付いた。引きこもり始めてから初めての春、母に付き添われて初めて精神科へ行った日も、帰り着いた途端にこんな状態になってしまったのだった。よろめきながら靴を脱いで居間へ向かう僕に、母は言った。

「一人で、頑張って行ってきたんだね」

 千波の姿はやはり、母には見えていないのだ。

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