67 医師クリストフ・ロートナー (2)

 なぜ痩身の男は迎えの馬車で騎士団隊舎前まで乗り付けなかったのか。

 時間が時間だったから、最初は宿舎に迎えに行ったのかもしれない。

 実際に普段ならクリストフは宿舎に、グリエルも使用人棟に戻っている時間である。

 だが今日はいつになく怪我人が多く医務室は大繁盛。

 大量に消費された傷薬や包帯を用意をするために残業となったわけだが、そんなことは騎士団関係者でもなければ知る由もなく、迎えの男も知らずに宿舎を訪れたのかもしれない。

 そしてまだクリストフもグリエルも戻っていないと聞き、そう離れていない隊舎まで歩いてきたのかもしれない。


 だがどれもクリストフやグリエルにとって都合のいい推測に過ぎない。

 実際には迎えに来た男が案内した馬車は、隊舎とも宿舎とも離れた場所に停められていたのである。

 グリエルがいうところの 「先生は時々うっかりなさいますから」 でクリストフはすぐに気づかなかったが、そこが人目に付きにくい場所ということにグリエルが気づいた時にはすでに遅かった。

 馬車に乗り込む直前だったのである。

 そうして二人が連れて来られたのは、ウィルライト城最奥にある領主の屋敷。


 クラカライン家


 広大な湖と森に囲まれたその屋敷は、騎士はもちろん貴族であっても許しなく近づくことの出来ない場所である。


「先生、ここは……」

「まさか、ご領主様ランデスヘルのお屋敷……」


 暗闇の中でうっすらと浮かび上がる壮大な建物を前に、言葉を失うグリエルとクリストフ。

 そんな二人の驚きをよそに、正面の玄関扉が開かれ男が出てくる。

 まっすぐ二人に向かって歩いてきた男は、案内してきた男を一瞥し、すぐに二人を見てお辞儀をする。


「このような時間に恐れ入ります。

 わたくしは当屋敷の使用人頭しようにんがしらをしておりますマディンと申します」

「く、クリストフ・ロートナーです」


 大きな診察鞄を持ったグリエルに促されて慌てて挨拶を返したクリストフは、さらに慌てて 「こちらはわたしの助手のグリエルです」 と紹介する。

 すると大きく頷いた男は開いた扉から屋内を示し、「どうぞ、こちらへ」 と促してくる。

 いまさら拒否など出来ないとわかっているが、領主屋敷という場所に気持ちが尻込みしてしまう。


 だが呼ばれた場所がどこであれ、医師が必要ということはそこには病人か怪我人がいる。

 医師ならば行かなければならないだろう。

 それでもやっぱり領主の屋敷という思いもかけない場所に、クリストフには最初の一歩を踏み出すまで強い躊躇があった。

 医師としていかなければならないという強い責任感と、領主屋敷というとんでもない場所への躊躇の狭間に立ち尽くすクリストフだが、その背を押す声が後ろからかかる。


「どうかなさいましたか?」


 クリストフとグリエルを迎えに来た男である。

 止まったままの馬車とクリストフたちのあいだに立つ男は、先程と同じ柔らかな物腰で、けれど有無を言わせない強さで二人を屋敷の中へ押し込もうとしてくる。


「いえ、なにも……」


 喉を詰まらせながらもそう答えたクリストフはようやくのことでマディンに続いて屋敷に入り、それに大きな診療鞄を持ったグリエルが続く。

 そして最後に迎えに来た男が入り、扉を閉める。

 マディン、クリストフ、グリエル、そして男の順に、四人は明かりを落とした薄暗い廊下を進む。

 すぐ患者に会えると思っていたクリストフだったが、案内されたのはこぢんまりとした応接室で、室内には別の男が立ってクリストフたちを待っていた。


 窓のないその部屋には、中央にテーブルと椅子が四脚置かれ、壁際に置かれた花台に大きな花が飾られている。

 他にはなにもないと言ってもいいような部屋で、大人が四人も入ればやや息苦しさを感じるほど狭い。

 そこにクリストフとグリエル、使用人頭のマディンと先に待っていた男の四人が顔を揃える。

 馬車で迎えに来た男はクリストフたちの後ろを付いて来ていたが、外から扉を閉めて部屋には入らなかった。


「……あの、患者はどこに……?」


 どうにもおかしい様子に困惑を隠せないクリストフだが、黙っているグリエルもさすがに不安を覚え、しきりに狭い室内を見回している。


「このあとお部屋にご案内いたします。

 ですが、まずはお掛けください」


 マディンに言われ、クリストフはグリエルと顔を見合わせてから椅子に掛ける。

 この時、マディンではないもう一人の男がグリエルが持っていた診療鞄を預かる。


「不安に思われるのはごもっともと存じますが、これは一つの手続きとお考えください」


 そう言って机の隅に用意されていた紙とペンを、まずはクリストフの前に置く。


「これは?」

「よくお読み頂き、ご署名ください。

 もちろんお二人とも」


 再びグリエルと顔を見合わせたクリストフは目の前に置かれた紙に視線を落とす。

 それほど長くはない文章を読んでみれば、このクラカライン屋敷で見聞きしたことを口外しない、詮索しないという誓約書だった。

 医師として呼ばれたのだから、怪我人なり病人なりの治療をすればいいと思っていたクリストフだったが、こんなものを見せられると、もっと他のことに利用されるのではないかとさらに不安が強くなる。

 もちろん拒否出来ないことはわかっている。

 ここはクラカライン屋敷領主屋敷なのだから。

 そしてマディンは 「ご署名ください」 なんて言葉を使ったけれど実際は命令にも等しい。

 しかも彼はこの屋敷の使用人であり、この指示はクラカライン家から下されているもの。

 到底クリストフに拒否出来ることではない。

 それでも迷っていると、隣で紙を覗きこんでいたグリエルがマディンに尋ねる。


「怪我人か病人かわかりませんが、本当に医者を必要とする方がいらっしゃるんですか?」

「間違いございません。

 先にも申し上げましたとおり、これは手続きの一つとお考えください」


 ただの手続きというわりに約束を破れば厳罰と明記されている。

 少しもただの手続きではないとクリストフは思ったが、意外にもグリエルはあっさりしと了承した。


「わかりました。

 先生、お先によろしいですか?」

「え?」

「え? じゃございませんよ、患者さんが待ってるんですからさっさとなさいませ。

 ここでぐだぐだ思い悩んでももう手遅れってもんじゃございませんか」

「それはそうだが……」


 決してグリエルは言葉も声を荒らげはしなかったけれど、その勢いに押されてクリストフが言い淀んでいると、三人とは少し離れて立っていた男がクスリと笑う。

 グリエルから診察鞄を預かった男である。

 すぐさまマディンに睨まれ 「失礼いたしました」 と穏やかに詫びるが、自身の情けない姿を笑われて恥ずかしくなったクリストフは諦め、グリエルに続いて誓約書に署名することにした。


「確かに」


 手にとって二人の署名を確認したマディンは、誓約書を四人目に男に手渡す。

 恭しくそれを受け取る男から診察鞄を受け取ったマディンは、改めて二人を別の部屋へと案内する。

 やはり明かりを落とした薄暗い廊下を進んだ先にあったのは、先程の部屋とは比べものにならないほど広い部屋で、中央をカーテンで居室と寝室に隔てている。


 クリストフもグリエルも公邸にある宿泊部屋を見たことがある。

 以前に診た急患が泊まっていたのだが、同じ造りをしていたのでこれが貴族屋敷だと納得出来た。

 だが広さはまるで違う。

 先程までいた部屋がとても狭かったから余計に広く感じるのかもしれないが、あまりにもなにもなく、質素を通り越して使われていない部屋のようである。

 だからこそ余計に広く感じたのかもしれないが、ここは領主屋敷である。

 豪華に飾り立てられた部屋を想像したこともあって拍子抜けしてしまったのだろう。


 案内してきたマディンは二人に入室を促すと、自身は外から扉を閉めてどこかに行ってしまった。

 代わりに、少しだけ開けられたカーテンのそばに立っていた男が 「どうぞ、こちらへ」 と二人を奥の寝室へと促す。

 先程誓約書をマディンから受け取った男と同じ衣装を着た、同じような年齢の男である。

 促されるまま、だがなにかを探すように室内を見回すクリストフに気づいた男がクスリと笑う。


「なにかお探しですか?」

「なにかって……その、香を焚かれましたか?」


 かすかにだが、なにかが鼻をくすぐるのである。

 グリエルも気づいていたらしく、やはり部屋を見回している。


「ええ、少しだけ安息香を。

 今は焚いておりませんのでご心配なく」

「……わかりました」


 安息香に害がないことはわかっている。

 香を焚かれて困ることはもちろんないのだが、ただなんとなく確かめたかったのである。

 それにもう一つ、わかったこともある。

 もちろんまだクリストフの推測の域を出ないが、おそらくこのお揃いの衣装を着た男たちは魔術師だろう。

 促されるまま部屋を進むと、寝室には驚くほど大きな寝台が置かれていて誰かが横たわっていることがわかる。

 そばまで行って見ればほんの五歳、六歳……いや、ひょっとしたらもっと幼いかもしれない女の子が眠っていた。


 本当に小さな女の子だったがその眠りは穏やかなものではなく、息は荒く顔色も酷く悪い。

 もちろん珍しい黒髪にも驚いたが、それ以上に彼を驚かせたのはその痩せ細った体である。


「この子は……」


 驚きのあまりここまでは言葉が出てしまったけれど、辛うじて続きは飲み込む。

 言えるはずがない。


 この子どもは長くはない


 そんな言葉は決して言えない。

 言えるはずがなかった。

 ただとっさに口を噤んだのは医師としての判断だが、少し落ち着いて考えてみると言わなくてよかったと改めて思う。


(この子どもは何者だ?)


 そんな疑問が浮かんだのである。

 領主の屋敷に子どもがいる理由もわからない。


「ロートナー医師、どうかされましたか?」


 寝台の側に控えていた若い女性に促されて診察を始めるけれど、クリストフはずっと頭の中で子どもの正体について考える。

 この領主屋敷に住んでいるとされるのは領主のセイジェル・クラカライン一人だけ。

 子どもはおろか結婚もしておらず、婚約者すらいない独り身である。


 実父である先代領主も健在だが、息子に役目も家督も譲って引退してからは領都ウィルライトの外に別邸を建ててそちらで暮らしているはず。

 母親のレジーネ・ハルバルトは一人息子を産んでほどなく亡くなっており、現領主に兄弟はいない。


 だが今、クリストフの目の前には子どもがいる。

 そこでクリストフは、先程の誓約書と寝台の側に控えている若い女性からその正体を推測してみる。


 あの誓約書はこの子どもの存在を隠すためのもので間違いないだろう。

 そして寝台の側に控えるこの女性をクリストフは知っていた。

 おそらくグリエルも気づいているだろう。


 騎士団でも曲者揃いの教練師団を率いる特別顧問リンデルト卿フラスグア。

 この若い女性は以前に何度も騎士団を訪れたことがあり、そのリンデルト卿を 「お父様」 と呼んでいたのである。


 リンデルト卿家令嬢ミラーカ


 下級貴族ではあるが、リンデルト卿が領主の剣術指南役であったことは騎士団では有名な話である。

 領主は今も騎士団の修錬場を訪れては、リンデルト卿や曲者揃いの教練師団のメンバーと手合わせをする。

 日頃口も態度も悪い教練師団の面々だが、騎士団の中でも領主への忠誠は飛び抜けており、領主からの信頼も厚い。

 特に領主はリンデルト卿を師として敬っていることもあり、あるいはリンデルト卿家から頼まれれば子どもの一人くらい預かったかもしれない。


 そう考えるとリンデルト卿の隠し子……は絶対に考えられない。

 なぜなら彼は上に馬鹿が付くほどの愛妻家で、妻のために身分も親兄弟も、生まれ育った赤の領地ロホすら捨て、身一つで白の領地ブランカに帰属したほどの愛妻家である。

 浮気などするくらいなら赤の領地ロホに帰るだろう。

 ましてや妻は白の領地ブランカの名門アスウェル卿家の令嬢だ。

 浮気ですら許されないのに隠し子がバレた日には命が危うい。

 ますます隠し子を連れて赤の領地ロホに帰るだろう。


 このクラカライン家だって、アスウェル卿家が相手では決して安全な場所ではない。

 現アスウェル卿夫人は領主の叔母に当たるからである。

 それこそシルラスで獣狩りを楽しんでいる時ではない。

 我が身ばかりか子どもの安全も考えるなら、一目散に赤の領地ロホに連れ帰るべきである。


 仮に娘のミラーカが産んだ子どもだとすれば、そもそも隠す必要がない。

 彼女には婚約者がおり、その子どもだとすれば全く問題がなかった。

 もちろん婚姻前の出産となれば外聞はよくないが、やはり隠す必要はないだろう。

 万が一にも相手が婚約者のセルジュ・アスウェルではなかった場合、すでに子も彼女も命はないはず。

 両者が生きてここにいるということが、ミラーカの子ではないということだろう。


 だがおそらくこの子どもは誰かの隠し子で、あの誓約書はその存在を隠すため。

 このクラカライン家で暮らしているのだから、普通に考えれば領主の子どもだが、それならば隠す必要はないはず。

 未婚の領主だが、相手の女性に問題があって正式に婚姻を結べない事情があったとしても、子どもの存在を公にする方法はいくらでもある。

 一番手っ取り早いのが養子縁組である。

 それこそ隠して育てるくらいなら、さっさとどこかの家に養子に出してしまえばいい。


 なぜそうしないのか?


 一番クリストフが気になったのは、子どもが骨と皮ばかりに痩せ細っていることである。

 重い病に罹っていたとしても、昨日今日の発症でこんな状態になることはないし、いまさらクリストフとを呼ぶくらいならもっと早く医者に診せているはず。

 少なくともクリストフが……いや、おそらくほとんどの領民が知る領主は、子どもをこんな風に扱うような人物ではない。

 そう考えると、子どもをこんな風に扱いそうな人物が別に一人浮上してくる。


 ユリウス・クラカライン


 現領主の父親で、暗君と言われた先代領主である。

 今はこの屋敷で暮らしておらず、領都を離れたところに別邸を建てて自由気ままに過ごしているという。

 領主在任当時から派手に遊んでいた先代領主は、再婚こそしていないが、別邸でも女性をとっかえひっかえ派手に遊んでいるというから隠し子の一人や二人、いてもおかしくはない。

 つまり現領主の腹違いの妹の可能性である。


 領主と先代領主、この親子関係が険悪なのは有名である。

 だから領主はつい最近まで異母妹の存在を知らなかった。

 ここから先もクリストフの推測に過ぎないが、なんらかの理由で異母妹の存在を知った領主は父の所業を知って急いで異母妹を引き取った。

 それがつい最近、それこそ昨日今日のことだったとすれば、こんな形でクリストフが呼ばれたこともあの誓約書も納得が出来る。


 子どもが男児であれば少々問題はあるが、女児であればたいした問題もなく、妾腹として存在を公に出来る。

 だがこんな有り様ではすぐに公表出来ないのも無理はないだろう。

 先代領主はなにが気に入らなかったのか。

 それこそ珍しい黒髪だったことだろうか?

 確かにクリストフも初めて見る髪色ではあったけれど、こんな目に遭わせていい理由になるとは思えない。


 なぜ?


 わからない。

 わからないけれど、骨に皮が張り付くほど痩せ細った幼い体では、もうどれほども生きられないだろう。

 それだけはわかった。



【クリストフ・ロートナーの助手エリーダの呟き】

「最近先生とグリエル、なぁ~んか怪しいのよね。

 二人でコソコソどこかに出掛けてるみたいだし。

 なにしてるのかしら?

 まさかあの歳の差で……まさか、ね。

 いくら二人とも独身だからって、さすがに気持ち悪ぅ~い!

 でも、じゃあなにしてるのかしら?

 どこに行ってるの?」

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