66 医師クリストフ・ロートナー (1)

 ノエルを迎えるにあたって、屋敷の主人であるセイジェルがマディンに出した指示は部屋を用意すること。

 最初はこの一つだった。

 特にそれ以上の指示は出していないから、マディンがその部屋を選んだのはただの偶然だったのか。

 あるいは知っていて選んだのか。

 長く空き部屋だったその部屋は、かつてノエルの父クラウスが私室として使っていた部屋だった。


 マディンはクラウスが養子に出される前から屋敷で仕えており、その部屋を彼が使っていたことを知っていた。

 追放されたクラウスが戻ってこられないようにと、兄のユリウスがありとあらゆる物を、それこそ重くて動かせない寝台以外の全てを捨ててしまったことも知っていた。


 当時は寝台も廃棄しろと声を張り上げて命令していたけれど、取り壊さなければ動かせないと訊いてユリウスも面倒になったらしく、結果として唯一そのまま残されていたのである。

 以来ユリウスの気に障ることを恐れて使用人たちも掃除にすら近寄らなくなり、その部屋がうち捨てられてから二十年以上の歳月が経っており、あるいはマディンも忘れていたのかもしれない。


 わからないけれど……


 部屋の位置としてはセイジェルの部屋からそれほど離れておらず、日当たりもよく窓からの眺望もよい。

 その部屋をマディンはノエルの私室として決め、本当に寝台しかなかったその部屋を掃除し、寝室と居室を隔てるカーテンを設置。

 それから椅子やテーブル、花台などを運び入れた。


 唯一置かれたままになっていた寝台も骨組みしか無い状態だったから、マットレスから寝具を揃える必要があり、セイジェルからは特に何も言われていなかったけれど、ミラーカが言うところの 「超高価な寝具」 を用意した。

 天蓋から下げるカーテンも、じきに寒い青の季節になるが、白の季節に合わせた合い物を用意。

 浴室にも可愛らしい絵柄の描かれた浴槽を設置した。


 あとは内々に依頼していた側仕えの斡旋を待つくらい……と思っていたところに、ことの魔術を使ったセルジュの報告で、ノエルが身一つで連れて来られると聞いたセイジェルから、衣装や身の回りの品を最低限用意するよう追加の指示が出された。

 口頭で出されたその指示は本当に簡潔で、九歳の女の子と聞いただけでは、子どもを持ったこともなければ九歳前後の女の子と身近に接することのなかったマディンにはよくわからない。

 そこで片腕のノル・カブライアに意見を求め、本当に必要最小限のものだけを用意することにした。

 セイジェルには、女の子は十歳くらいになれば自分の好みを持つもの。

 足りない物などを含めて、それ以上の物は自身の好みで選んでいただきたいというノルの助言に従って上申し、認められた。


 そもそもセイジェル自身一人っ子で、九歳の女の子に必要な生活道具などわかるはずもなく、マディンに出した簡潔すぎるほど簡潔な指示以上のことがわからなかったのである。

 だからマディンの上申に対しても 「わかった」 とだけ。

 簡潔に答えた。

 そうして側仕えの採用も含めて準備を整えたのだが、結果として、マディンが準備したのは寝台だけということになってしまったのは非常に残念である。


 そのマディンに頼まれ、ヴィッターをお伴にしたミラーカの側仕えアスリンが町に買い物に行き、予定どおり夕方までには戻ってきた。

 当然のことながら使用人が使う馬車にクラカライン家の紋章はなく、装飾もない質素なものである。

 ヴィッターもアスリンも外出用の外套で着ている物を隠していたが、町に出れば貴族の側仕えがお使いに来るということも、店によっては珍しくはない。

 アスリンはジョアンとともにノエルを風呂に入れた時にその痩せ細った小さな体を見ているから、肌着などのおおよそのサイズを、出掛ける前にジョアンと相談。

 その時に必要な枚数なども相談していたから、無駄な時間を使うことなく、ほどよく丁度いいサイズを買って戻ってきた。


 その帰りを待つあいだノエルはセイジェルの寝台で眠っており、アルフォンソの勧めで、特にすることのなかったミラーカとジョアンはミラーカの部屋に戻り荷ほどきをすることに。

 アスリンが戻ってきたという報せを受けてセイジェルの部屋に戻ってみたが、ノエルは変わらずセイジェルの寝台で眠っていた。


 ミラーカの心情的にはすぐにでもノエルを着替えさせたかったのだが、部屋にはアルフォンソたちがいる。

 その存在にミラーカが視線をやると、彼らもなにか察したらしい。

 口々に文句を言い出したのである。


「先程も申し上げましたけれど、鶏ガラに興味はございません」

「わたくしたちは旦那様ほど悪食ではございませんので」

「そうそう、性格が悪いだけでございます」

「そう、旦那様よりも性格が悪いだけでございます」


 クスクスと笑いながら言い合うその姿に、ミラーカも 「口の減らない」 と言い返す。

 もちろん彼らにはなんの効き目もないけれど。

 結局掃除が終われば部屋を移動することになるから、何度も起こしては可哀相だからとノエルの部屋の掃除が終わるのを待つことにした。

 その掃除が終わる夕方まで、ミラーカにしては我慢したほうである。


 実際には九歳のノエルだが、見た目は五歳、六歳程度。

 しかも骨と皮ばかりに痩せ細っているのだが、抱え上げてみるとそれなりの重さはある。

 眠っている人間というのは子どもでもそれなりの重さになるもので、いくらノエルが軽いとはいえ、やはりミラーカには抱えて運ぶのは少し難しかった。


「ジョアン、ちょっと首が……こ、これは折れていなくて?」

「大丈夫ですわ」


 もちろん抱えられるし運べたけれど、ミラーカ自身が小柄なため、眠っているノエルの上体を抱え起こしても支えられないのである。

 それこそ首がかっくんかっくんと揺れ、折れてしまうか目を覚してしまうか気が気ではなく狼狽えていると、アルフォンソに割り込まれてしまう。


「わたくしがお運びいたします。

 途中で落として怪我でもされては、わたくしどもが旦那様に叱られてしまいます」


 そう言って手早くノエルを毛布でくるむと軽々と抱え上げる。

 見た目は痩身の優男だが、彼らの主人同様、重い剣を振るほどの筋力を持っているのである。

 広い胸と長い腕でノエルを支えると、驚くほど綺麗に掃除されたノエルの部屋に運び込む。

 それこそ朝の状態とは、とても同じ部屋とは思えないほど綺麗に掃除されていた。


 アスリンが購入してきた着替えなどはすでに運び込まれており、アルフォンソがノエルを寝台に横たえると、アスリンが仕舞ったばかりの肌着などを取り出してくる。

 そしてノエルの着替えをジョアンとアスリンの二人でするわけだが、ミラーカの扱いに慣れたジョアンにうまく丸め込まれたミラーカはただ見ているだけ。

 おそらく彼女に手伝われてはかえって邪魔になるのだろう。

 そんな三人をよそに、居室と隔てるカーテンを閉めて退室するアルフォンソ。

 そのままノエルの部屋を出ていったと思われたが、実はカーテンのすぐ向こう側に立って控えており、なにも考えずカーテンを開いたアスリンをひどく驚かせた。


「ひ……っ」

「静かにしなさい、姫が目を覚してしまわれる」


 同じ側仕えという職業だが、クラカライン屋敷においては当主の側仕えであるアルフォンソたちのほうが立場は上。

 思わず悲鳴を上げそうになるアスリンに対し、彼女の主人に対してよりもより強く、冷ややかに批難する。


「……申し訳ございません」


 うなだれるように謝罪するアスリンに顎で 「行きなさい」 と指示したアルフォンソは、改めて寝室に残るミラーカとジョアンを見る。


「まだいたのですかっ?」

「おりました。

 令嬢こそ、ご自分の部屋の片付けを続けられたらどうですか?

 姫にはわたくしが付いておりますので」


 一人より二人、二人より三人のほうが早く片付くはず。

 それにミラーカの部屋が片付いたら、側仕え二人には自分の荷物の片付けがある。


 比べてアルフォンソたちは、主人が戻るまで暇だからこのままノエルに付き添ってもかまわない。

 しかもアルフォンソ一人では気になるのなら、もう一人誰か呼んでもいいと言う。


「結構です。

 なぜそなたたちに頼らなければならないのですか」

「あのようなことはマディン様にも想定外でしたし、新たに側仕えが来るまでは明らかな人手不足でございますから」

「だからといって、どうしてよりによってそなたたちなのですかっ」

「この屋敷でわたくしたちが一番暇だからでは?」


 しれっと暇人を自称するアルフォンソだが、本当に暇なわけではない。

 だが彼は悪びれる風もなければしれっと答え、さらにはあと一人、あるいは二人くらい呼んで来てもかまわないとまで言い出す。

 明らかにミラーカの神経逆撫でを狙っての発言である。

 そしてそれをわかっていても乗せられてしまうのがミラーカである。


「そなたたちが問題ですのに、人数を増やしてどうするのですかっ?」

「人手の問題かと思いまして」


 やはりしれっと返すアルフォンソ。

 だがミラーカが言い返そうと息を吸った次の瞬間、言葉を発するより早く言葉を継いでくる。


「姫にはこのままお休みいただくのが一番でしょう。

 すでにマディン様にご相談して医師を呼ぶ手配はしておりますが、急変でもしなければ現状維持です」


 先程までのわざとらしいほどとり澄ました顔から一転、少し思案げな様子で話す。

 だが相手がミラーカだからだろうか。

 余計な一言を付け加える。


「ですから令嬢が付き添われても、わたくしたちが付き添っても同じことです」


 だったら時間を無駄にする必要はないとまで言われ、その事務的な態度にミラーカは腹を立てる。


「なんて言い草ですか!

 姫様の体調がよろしくないとわかっているのですから、すぐに医師を連れてきなさい!」

「残念ながら。

 姫の存在は公おおやけになっておりませんので色々と不都合がございます。

 マディン様も苦慮しておられるようですが、どうにも出来ぬのがクラカライン屋敷でございます。

 令嬢に出来ることもわたくしどもに出来ることも、せいぜいこうを焚くことぐらいでございましょう。

 このご様子では気休めにもならないでしょうが」


 ノエルの体調のことは、マディンはもちろんセイジェルにも報告されていたらしく、夕食の席にノエルが着いていないことを不思議に思ったのはセルジュだけである。


 そもそもセルジュはこの屋敷の住人ではない。

 仕事が忙しいこともあり帰宅が面倒で、本来の家であるアスウェル卿邸に帰るのは月に二日か三日程度。

 全く帰らない月も珍しくはないほどで、従兄弟であることをいいことに、城内にあるクラカライン屋敷に住み着いている。

 本当に忙しい時期は公邸にある宿泊部屋に泊まり込むため、セイジェル同様、クラカライン屋敷にすら帰ってこなくなる。


 収穫期である今も繁忙期であり例年ならばセイジェル共々帰ってこないのだが、やはりミラーカの様子が気になったのだろう。

 それにアーガンにノエルの様子を気に掛けて欲しいと言われている。

 そのため仕方なく、マディンに相談されたセイジェルと一緒にクラカライン屋敷に帰ってきたのである。

 そうしたらノエルが食卓に着いていない……となれば、やはり訊くだろう。


「お部屋でお休みですわ。

 少し具合がよろしくございませんの」


 だがノエルに関心が薄すぎるほど薄いため、そんなミラーカの説明だけで納得してしまう。

 そのミラーカはクラカライン屋敷のやり方には納得しておらず不満そうな顔をしていたが、夕食後に医師が来ると聞き、自室には引き取らず立ち会うことにした。

 もちろんセルジュはいい顔をしなかったが、だからといって自身も立ち会うことはしない。

 当然ミラーカを止めることもしなかった。

 屋敷の主人ではあるもののセイジェルも立ち会わないが、これは領主という立場だからである。

 養育係としてミラーカが立ち会うのなら十分とも考えたのだろう。



【ラクロワ卿家公子ルクスの呟き】


「あのクソガキども、よくも兄上を中央宮なんぞに閉じ込めやがって……許さんぞ。

 今に見ていろ、目に物見せてくれる」

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