59 養育係 (1)

 スープを数口と、アルフォンソに勧められて口にした果物を数切れ。

 たったそれだけでノエルの朝食が終わる。

 味なんてわからない。

 けれど明日の朝までもう食べられないと思うと、あと一口だけでも……と思うのだが、どうしても体が受け付けない。

 スプーンを手にしたままそんな葛藤をするノエルの姿を、セイジェルは自身の食事を続けながら眺めていた。


 もちろんセイジェルには、赤の領地ロホにいるノエルの家族のように彼女の食事を抜こうなんて考えはない。

 出された物を残したからといって罰を与えるつもりもない。

 だから切羽詰まった表情でスプーンを握り続けるノエルの考えることも、気持ちも理解出来なかった。

 そうして自身がほぼ食べ終わった頃、ノエルに声を掛ける。


「もういいのか?」

「ごはん……」


 その残念そうな呟きがなにを言いたいのか、もちろんセイジェルにはわからない。

 けれどノエルには、なんとなくタイムリミットが来たことがわかっていた。


「昨夜はよく眠れたか?」


 何の気もなくそんなことを尋ねながら水を飲むセイジェルに、ノエルはポツリと答える。


「さむかった」

「そういう時は側仕えに毛布を持って来させなさい」


 しばらくノエルなりにセイジェルの言葉の意味を考えてみる。


「……わからない」


 やがて出した結論に、セイジェルは 「そうか」 とだけ答えてナフキンで口元を拭う。

 その耳元でマディンが何事か囁く。


「……わかった、すぐに行く」


 ナフキンをテーブルに置きながら答えたセイジェルはゆっくりと席を立つ。

 そしてノエルに 「こちらへ」 と声を掛けて促すと、自身はマディンのあとに続いて食事室を出ようとする。

 背の高い二人の足は速く、すぐその姿は扉の向こうへと見えなくなる。


 アルフォンソがそっと椅子を引くとノエルは慌てて椅子を降りる。

 やはり大事そうに鞄を抱えていたから少し不格好になってしまったが、アルフォンソが椅子を引いてくれたのはそういうことだということはわかった。

 だから椅子を降りたけれど、そのあとはどうしたらいいのかわからない。

 椅子を降りたところから一歩も動かず戸惑っているノエルを興味深そうに眺めていたアルフォンソだったが、セイジェルに続いて食事室を出ようとしていたウルリヒと目が合う。

 するとウルリヒが、すでに食事室を出ていたセイジェルに声を掛ける。


「旦那様、お待ちを」

「どうした?」


 ノエルやアルフォンソの位置からはその声だけが聞こえてくる。

 やがて食事室の外の廊下を足音が近づいてきたと思ったら、戻ってきたセイジェルが戸口に立つ。

 そして椅子から立ったまま動こうとしないノエルを見る。


「ノワール、どうした?」

「……わからない」

「わからないとは?」

「こちらへ」


 最初の質問には少し考えてから答えたノエルだったが、次の質問にはすぐ答える。

 そしてその二つの返事を聞き、その様子を見ていたセイジェルもまた少し考え、やがて結論を出したらしい。

 小さく 「なるほど」 と納得したように呟き、改めてノエルに話し掛ける。


「こちらに来なさいと言ったのだ」


 するとノエルはハッとしたように 「わかった」 と答え、セイジェルの許に駆け寄る。

 そのあとはセイジェルについていけばいいと思ったノエルだが、予想に反してセイジェルに抱え上げられてしまう。

 なにが起こったのかわからずぼんやりしているうちにも、セイジェルはノエルを抱えたまま歩き出す。


「そなたの短い足では時間がかかりすぎる」


 本当はノエルが裸足だということを思い出したのかもしれない。

 少しだけ口の端を上げて笑うセイジェルはノエルをからかうが、ノエルを抱え上げようと腰を屈めた時、その髪が臭うことに気づく。

 さらに抱き上げてみると服も臭っている。

 どちらも生乾き臭と呼ばれるものである。


 白の領地ブランカで最上位にあるクラカライン家だが、成人前には騎士に混ざって演習にも参加していたセイジェル。

 演習は雨天でも決行されるため、この生乾き臭にも馴染みがあったのである。


 だがなぜその臭いがノエルからするのか?

 昨日は側仕えが湯に入れるなどの世話をしたはずなのに、髪も寝癖では済まない乱れ具合で、着ているのも持参したと思われる男児・・の服である。


 それともう一つ、気になることがある。

 ノエルを食事室に連れてきた直後にマディンが耳打ちしたことである。

 昨日見た時にあった傷が消えている、と……。

 マディンはセイジェルの腹心とはいえ、まだノエルの治癒の能力については話していない。

 ひどく驚いたはずだが、微塵もそんな様子を見せずこっそりと主人に耳打ちするにとどめたのである。

 だがセイジェルも驚くことなくただ頷くだけの様子を見て、マディンなりに状況を理解したのだろう。


 ノエルの治癒能力についてはセルジュの報告にあったが、生憎とセイジェルは傷を見ていない。

 だがマディンが嘘を吐く理由もなく、そういう男でもない。

 だとすれば昨日は確かに傷があったのだろう。


 ノエルの母エビラはこの能力を気味悪がったが、セイジェルは自分の目で見て確かめる機会を逃してしまったことを残念に思った。

 領主とはいえ、彼も魔術師である。

 探究心や好奇心が頭をもたげるのだろう。

 しかも子どもならばこの先いくらでも怪我をするだろうから焦る必要もないと、長期戦の構えである。


 だがどうしてノエルが怪我をしていたのか……ということは問題である。

 昨日の昼間、領都を少し離れた小高い丘でノエルを初めて見た時、顔や首にそれらしい傷はなかった。

 話に聞いたところでは、マディンがノエルの顔や首に傷を見たのはそれから数時間後のこと。

 その数時間になにがあったのか。


 それに昨夜の報告のこともある。

 使用人の誰が嘘を吐いているのかおおよその見当はすでについているものの、目的、あるいは理由が判然としない。


 もちろんいつ処分してもいい。

 理由もどうでもいい。

 だが代わりを用意してからのほうがセイジェルには都合がよかった。


 先に目的の部屋に着いていたマディンが閉じられた扉の前で待っており、ノエルを抱えて廊下を歩いてくるセイジェルの姿を確かめると、先に室内に入り、開いたままの扉の脇に立つ。


 少し遅れてノエルを抱えたままのセイジェルと二人の側仕えが続いて入る。

 室内にいたのは男女二人で、セイジェルも二人の側仕えも当然のように二人を知っていたが、ノエルは、一人は覚えている顔だったが、もう一人は初めて見る顔だった。


 室内は先程の食事室と同じくらいか、あるいは少し広いくらい。

 窓のなかった食事室とは違って一方の壁にだけ大きな窓があり、そこから庭のすっかり色づいた木々が見える。


 今のクラカライン家の当主セイジェルが興味を持たないため、屋敷内の装飾は先々代領主夫妻の趣味のままになっており、この応接室は壁紙も調度も明るい色調で整えられていたが、全体的に受ける印象が年配者好みになっている。


 二人の客人は椅子にすわって待っていたが、部屋に入ってきたマディンが 「旦那様がいらっしゃいました」 と告げると、男のほうはすわったままだったが、女のほうは立ち上がり姿勢を正す。

 そしてセイジェルの姿を見ると、丁寧に頭を下げる。

 先に口を開くのはセイジェルである。


「待たせたな」

「ご無沙汰しております、閣下」


 頭を下げたままの女が挨拶すると、セイジェルも言葉を返す。


「久しぶりだな、元気そうでなによりだ」


 すると女はようやく顔を上げて応える。

 落ち着いた訪問着を着て白に近い柔らかな髪を一つに束ねた、まだ16、17歳くらいの愛らしい顔立ちをした少女である。

 白の領地ブランカの成人女性としては少し背も低いが、はきはきとした物言いは頼りなさを感じない。


「閣下にもお変わりなく」

「ここへ来たということは、わたしの依頼を引き受けてくれたということでいいのだろうか?」

「もちろんですわ。

 そちらが?」


 意志の強そうな真っ青の瞳がまっすぐにノエルを見ると、目が合い、瞬時にノエルはビクリと体を強ばらせる。

 けれど誰かを頼ったり助けを求めたりすることが出来ないノエルは抱えた鞄を握りしめるだけで、セイジェルにしがみつくことはない。

 さらにはセイジェルが 「ノワールだ」 と女に紹介するのをきき、さらにビクリと体を強ばらせる。


「まぁ! まぁ! なんて可愛らしい方!」


 女の上げる歓声にさらに怯えるけれど、セイジェルも女もノエルを宥めようとはせず、むしろノエルを蚊帳の外に放り出して話を続ける。


「こんなにも愛らしい方だなんて、どうして教えてくださらなかったの?

 酷いではありませんか、セルジュ!」


 女とは違い、その隣にすわったままセイジェルを迎えたセルジュは突然飛んできた批難に驚き、次に戸惑う。

 どう答えたものかと迷ったが、結局正直に言うことにしたらしい。


「……わたしにはそれ・・のどこが愛らしいのかわからないからだ」

「わからない?

 見ればわかるではありませんか!

 相変わらずあなたも閣下も節穴ですわ」

「アーガンもなにも言っていなかっただろう」

「あの子はいいんですの、お父様と同じ脳筋なのですから!」


 なぜ脳筋なら許されるのか?


 理解出来ないセルジュは文句を言いたそうにしていたが、勝てないと早々に諦め 「わたしもか?」 と返すセイジェルに会話を譲る。


「閣下は脳筋の節穴ですわね」

「相変わらず酷い扱いだ」

「それよりも閣下、わたくしにも抱っこさせてくださいまし」


 女は、それはそれは嬉しそうな顔をしてセイジェルに頼み込むが、薄く笑みを浮かべたセイジェルはセルジュを一瞥する。


「人形ごっこはセルジュとするといい」

「そういえば次の新緑節の衣装はセルジュとお揃いがいいわ。

 そろそろ準備もしなければなりませんし、近く仕立屋を呼びましょう」


 もちろん男女で同じ服は着られない。

 おそらくデザインに類似性を持たせるか、同じ意匠を着けるなどするのだろう。

 幸いにして女もセルジュも魔術師で神官、あるいは文官だ。

 新緑節の礼装はローブなのでそういうことも出来る。

 だがセルジュは 「勝手にしろ」 と投げ遣りに返すだけ。

 乗り気ではない様子が気に入らない女だったが、セイジェルに割って入られる。


「相変わらず仲のよいことで結構だな」

「当然ですわ。

 いかに閣下といえど、わたくしたちの邪魔はなさらないでくださいまし」

「犬も食わぬなんとやらに興味はない。

 さっさと婚姻でもなんでもすればいい」

「閣下が邪魔をなさっているくせに!」

「近く、叔母上と話す予定が出来たようだ」

「無駄でしてよ。

 おじ様もお父様も、閣下がご婚約すらしていないのにって、そればかりですもの」

「いずれにしても、しばらくはこれ・・の相手をしてもらう」


 そう言ったセイジェルは改めてノエルを見る。


「ノワール、セルジュは知っているな?」

「セルジュさま」


 たどたどしく応えるノエルに小さく頷いたセイジェルは続ける。


「隣にいる、あのよく喋るのはリンデルト卿家の令嬢だ」

「リンデルト……」

「失礼ですわ、閣下!」


 小さく呟くノエルの声は、すぐさま反論に出る女の声にかき消される。

 だがその先をセルジュが止める。


「ミラーカ」


 次の瞬間にハッとした女は、さらに次の瞬間にはノエルを見てパッと表情を弛める。


「初めてお目にかかります、ノワール様。

 わたくしはリンデルト卿フラスグアの娘、ミラーカ・リンデルトにございます」


 アーガンと同じくセルジュの父方の従姉妹であるミラーカは童顔で、実際はアーガンともセルジュとも一歳違いの二十歳。

 その愛らしい顔をじっと見たノエルは、ミラーカではなくセイジェルを見て呟く。


「リンデルト……アーガンさま……」

「ええ、ええ、アーガンはわたくしの弟ですわ。

 わたくしはアーガンの姉でございますの」


 ノエルがアーガンに懐いていることを利用し、自分にも懐かせようという魂胆が見え見えのミラーカ。

 あまりにも露骨すぎる彼女の作戦にセルジュは呆れていたが、ノエルの反応はミラーカが思っていたものではなかった。


「アーガンさま、きてくれない」

「姫様?」

「アーガンさま、よんだらくるっていった。

 でも、こない……」

「それは……」


 どういうことなのかと尋ねようとするミラーカだが、セイジェルが無言で首を横に振ってそれを止める。

 表情こそ納得していない様子のミラーカだったが、今にも泣き出しそうな顔をしているノエルを見て唇をぐっと噛みしめて堪える。


「さむくてよんだ、でも、きてくれない。

 おなか、すいた……」


 食事を与えていないのかと今にもセイジェルに食ってかかりそうな気迫のミラーカだが、意外に思ったらしいセルジュが割り込む。


「食事? どういうことだ、セイジェル」

「昨日のことだろう。

 いま朝食を摂ったばかりだ」


 そんなにお腹が空いていたのならもう少し食べてもよさそうだが……とぼやきながら、ようやくのことでノエルを空いている椅子にすわらせると、自分もその隣に掛ける。

 それを待ってミラーカもセルジュの隣に掛ける。


「昨日のことはマディンから聞いているが、わたしにもよくわからない。

 これから確かめるが、まずはこれ・・と話す必要があった」

「なにも話していないのか?」

「疲れていたらしく、昨日は早くに休んでしまったからな」


 朝の起床が早い分夜の就寝も早いという、ここ数日のノエルの生活リズムを知っているセルジュは 「そういうことか」 と、話が出来なかった理由に納得する。

 まさかあんなことがあったとは露知らず……。

 だがアーガンが、ノエルが眠ってしまう前に夕食を食べさせることに苦労していたから、知らないセイジェルが食べさせ損なった理由には納得がいった。


「ノワール……昨日は食事の前にそなたが眠ってしまっただけだ。

 わたしはそなたの家族がしてきたように食事を抜くつもりはない」

「ごはん、たべられる」

「心配せずとも、わたしの不在時も用意させる。

 これからはここがそなたの家だ。

 しばらくは不自由することもあるだろうが、それも慣れるまでのことだろう」

「アーガンさま、もうかえれない、いってた」


 ノエルがアーガンと初めて会ったのはアモラの家の納屋。

 わけもわからず連れて行かれた宿でアーガンに言われたのは、彼らと一緒に行けば二度と生まれ育った村には戻れず、家族とも会えなくなるということ。

 それでもいいのなら一緒に連れて行くと言われたノエルは、彼らと一緒に白の領地ブランカに行くことを選んだ。

 それからもう何日も水汲みをしていない。

 洗濯も、掃除も。

 今さらあの家に帰っても、怒り狂う母親になにをされるかわからない。

 もとより二度と家族と会えない淋しさはなく、あの家に帰されることのほうがノエルには恐怖だった。


「覚悟が決まっているのなら結構。

 クラカラインは喜んでそなたを迎え入れよう。

 わたしがそなたの後見になる」

「こうけん」

「そなたの親代わりになるということだ」

「セイジェルさま、ノエルのおとうさん」


 次の瞬間、室内の空気が凍った。



【騎士ガーゼル・シアーズの呟き】


「セスの奴はどこに行ったんだ。

 ったく、隊長に迷惑ばっかり掛けやがって。


 だが……このままでは隊長もただでは済まないぞ。

 だいたいあんな半人前に叙位した騎士団にだって責任があるはずだ。

 隊長次第じゃ、団長と徹底抗戦してやる」

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