57 ひとりぼっち
なぜいきなりこんな目に遭うのだろう?
アーガンは全て側仕えというのがしてくれると言っていた。
だがマディンという人物が紹介した側仕えという女三人は、水を張った浴槽の中にいきなりノエルを放り込んだのである。
しかも水の冷たさに驚いているノエルの体を押さえ付け、溺れさせようとしてきたのである。
水の冷たさと息苦しさに恐怖を覚えたノエルは必死に抵抗するけれど、相手は三人。
女性とはいえ成人しており、ノエルとは体格も違えば腕力も全く違う。
そんな三人に容赦ない力で押さえ付けられ、ノエルは全身を浴槽のあちらこちらにぶつけ、女たちの尖った爪に刺され、引っ掻かれる。
女たちも水につけた腕を、ノエルのボロボロになった爪に引っ掻かれたらしい。
時折 「痛いっ」 と声を上げていたけれど止めることはなかった。
「このぐらいでいいかしら?」
ようやくのことで一人がそういうと、他の二人も力を弛める。
「いいんじゃない?」
「わたしたちに逆らおうものならどうなるか、よくわかったはずよ」
「これでわからなかったらどんな馬鹿よ?」
「最初が肝心っていうものね」
恐る恐る顔を上げたノエルは凍える指で浴槽の縁を掴み、咽せながらも忙しく肩を上下させて必死に息を吸う。
そんな様子には目もくれぬ女たちは頭の上で話す。
「でもこんな面倒をしなくても、いっそ殺しちゃ……」
「あら、駄目よ」
「そうよ、そんなことをしたらわたしたち、
「そうそう。
生かしていいなりにして、好きなものを手に入れなきゃ」
「そうね。
面倒だけど仕方ないわね」
そんなことを話しながら、寒さに震えるノエルをそのままにして部屋を出て行ってしまう。
残されたノエルは寒さと痛みを堪えて立ち上がるけれど、強ばる体は思うように動かず、浴槽の縁を乗り越えようとしたけれど足を引っ掛けてしまう。
そのままつんのめるように濡れた床に転倒する。
すぐには起き上がることが出来なかったが、時間が経てば経つほど体が動かなくなることをノエルは知っていたから、力を振り絞るようにゆっくりと立ち上がる。
見渡した部屋には女たちが剥ぐように脱がしたノエルの服が散らかっていたが、激しく飛び散った水で濡れていた。
そこでこっそりと隣の部屋へと続く扉を開けてみる。
そして女たちがいないのを確かめると、奪い取られた鞄を探す。
放り投げられたほうを見れば床に落ちている。
慌てて拾ってみると、中にはアーガンが買ってくれた着替えがそのまま入っていた。
幸い肌着の替えも買ってくれていたから、一緒に入っていた手ぬぐいで体を拭いて急いで着る。
古着とはいえ、アーガンたちは少しでも状態のいいものを選んでくれていたが、やはり生地が薄く冷えた体を温めることは出来ない。
それどころか濡れた髪から次から次に水が滴り落ち、どんどん服を濡らしてゆくのである。
薄い手ぬぐいでは体を拭くだけでびっしょりになってしまったから仕方がなかった。
かじかむ手でなんとか着替えを終えると、今度はさっきの女たちが戻ってくるかもしれないことに気づいて慌てる。
俄に蘇る恐怖に駆られて部屋を見回すと、椅子の陰に小さくなって時間を過ごす。
寒くて寒くて体の震えが止まらず、膝を抱えて小さくなってどれくらい経っただろう。
控えめな物音がしたと思ったら、廊下へと続く扉がゆっくりと開かれる。
薄暗い中、逆光でその顔は見えなかったけれど、声は少し前に聞いたマディンのものである。
「……これはいったいどういうことだ?」
戸惑いも露わに、だが控えめな呟きが聞こえてくる。
「誰か……誰もいないのか?」
出ていってもいいものか、悩むノエルはすぐには動けない。
寒さと恐怖で体が動かないのである。
一方のマディンはまるで人の気配を感じない室内を不審に思い、ゆっくりと中に進む。
そしてようやく椅子の陰に小さくなって震えているノエルの気配に気づく。
「……これは、どうしたことですか?
側仕えたちはどちらに?」
一目で怯えていることはわかったから、ゆっくりと近づきつつ静かに尋ねる。
するとノエルはわずかに首を横に振りながらたどたどしく答える。
「わからない」
マディンがなにを言っているのかはもちろん、側仕えもわからない。
すべてが 「わからない」 の一言に集約されていたが、どこまでマディンに通じていたかもわからない。
おそらく初めて遭遇する事態に、マディンもまるでわからなかったに違いない。
それでも冷静に状況を観察する。
まずはノエルが怯えていること。
数時間前に初めて会った時もひどく怯えていたが、明らかに酷くなっている。
廊下から入る明かりで見たノエルの顔や首筋には、不審な赤い筋が幾つも走っており誰かと争った様子が見える。
理由はわからないが、側仕えと何かあったのかもしれない。
それとも別のなにかがあり、そのために側仕えたちが持ち場を外しているのか。
わからない
ここは領主の屋敷である。
不審者であっても不用意に忍び込むことは出来ないし、もしそんなことがあれば、今ここには側仕えたちだけでなく、ノエルも死体となって転がっているはず。
だが血の臭いはもちろん死体の一体も転がっておらず、ノエルも、到底無事とは言えないけれど生きている。
おかしい
明らかにおかしいのだが、何がおかしいのかがわからない。
おまけに室内がずいぶんと埃っぽい。
元は長く使われていなかった部屋だが、例の手紙が届いてすぐノエルを迎え入れるための準備に取りかかったマディンは、真っ先に掃除を下働きに言い付けた。
側仕えの三人を手配したあとは、彼女たちが必要に応じて掃除の手配や手入れをしているはずだったが、見回してみた広い室内は、以前に見た時よりも閑散としているように見える。
この違和感の理由にはすぐ気がついたが、まずはノエルをこのままにはしておけない。
そう思い、ゆっくりと話し掛ける。
「お疲れでございましょう。
どうぞ、あちらへ」
そう言ってノエルに立つよう促すと、ゆっくりと部屋の奥を示す。
広い部屋を、寝室と居室に仕切る分厚いカーテンが半分ほど引かれた向こう側に大きな寝台が見える。
そこで休むようにとノエルを促したのである。
警戒しながらもゆっくりと立ち上がるノエルが、屋敷に着いた時と同じく汚れた鞄を大事そうに抱えているのも気になったマディンだが、取り上げることはしなかった。
ほんの一瞬だが、マディンが鞄に目を止めたことに気づいたノエルがビクリと体を強ばらせたからである。
中にはもう、体を拭いてぐっしょりと濡れた手ぬぐいと、アーガンが買ってくれた水筒しか入っていない。
けれどまた取り上げられると思いとっさに強く抱きしめるノエルを見て、マディンは気付かない振りをしてすぐに視線をそらせる。
「さ、どうぞ」
どうしていいか迷ったノエルは、高いところにあるマディンの顔と奥の寝台を何度か交互に見ると、恐る恐る尋ねる。
「アーガンさま……」
「……確か、リンデルト卿家の公子……」
ノエルを送り届けた領主と一緒にいた大男のことを思い出したマディンは、一呼吸ほど置いて答える。
「今頃は騎士団に帰投されているかと。
旦那様のお許しがあればおそばに召すことも出来ますが、今はまずお休みください」
仕方なくゆっくりと裸足で部屋を奥へと進むノエルだが、少しあとに続くマディンはカーテンのところで足を止める。
そこでノエルが、鞄を抱えたまま寝台に這い上がるのを見ていた。
そして毛布に潜り込むのを見ると頭を下げ、カーテンを閉める。
少しして扉が閉まる音がしたからおそらく出ていったのだろう。
「アーガンさま……よんだらくるって、いってた…………アーガンさま……」
一人残されたノエルは毛布にくるまり小さく呟く。
アーガンたちと一緒に旅をしたのはひと月にも満たない短い間だが、ノエルにとっては一緒にいることが当たり前になっていたらしい。
寝台は安宿よりも遥かに寝心地が良く、毛布も遥かに温かい。
けれど冷えた体を温めることは出来ず、淋しさと痛みと恐怖で寝付くことも出来ない。
「アーガンさま、おなかすいた……さむい……アーガンさま、さむい……おなか、すいたぁ……」
何度も何度もアーガンを呼び続けていたけれど、そのうちに泣き疲れて眠ってしまったらしい。
目を覚したのは翌朝のことである。
実は一度だけマディンが夕食を知らせに来たのだが、あまりにもノエルがよく眠っていたので起こさなかったのである。
マディンの報告を受けた屋敷の主人セイジェルも、詳しいことは朝になってから本人に聞くといい、この夜はそのまま休ませるようにと。
いつもなら屋敷には居候同然のセルジュがいるのだが、この日は彼もアスウェル卿家の屋敷に戻っており、セイジェルは広い食卓に一人で着くことになったのだが気にする性格ではない。
淡々と食事を済ませると、側仕えを引き連れて部屋へと引き取っていったのである。
そうして迎えた朝、ノエルは突然叩き起こされた。
「起きるんだよ!」
「早くして!」
罵声を浴びせられながら毛布を引き剥がされ、腕を引っ張られて無理矢理上体を起こされた……と思ったら、そのまま寝台から引きずり下ろされる。
朝だというのに窓にはカーテンが引かれたままの薄暗い室内。
何が起ったのかわからないノエルはされるがままに引き摺られるが、すぐ自分に罵声を浴びせながら引っ張っているのが昨日の女たちだと気づく。
逆らえばまたなにをされるかわからない。
昨日の恐怖を思い出したノエルは肩から提げる鞄を抱え、されるがままに引き摺られる。
どこへ連れて行こうというのだろう?
「おとなしくついてくるんだよ!」
女たちはノエルを部屋から連れ出すと、長い廊下を前に立って歩く。
ノエルはそのあとをおとなしくついて歩いていたが、酷く体がだるい。
けれどここで立ち止まったりしたらどんな目に遭わされるかわからない。
だからどこをどう歩いているのかさっぱりわからないまま、人気のないひっそりとした廊下を怯えながら女たちのあとをついていく。
しかも女たちはやや早足だったから、裸足のノエルは時々小走りに追いかける。
横一列に並んで歩く女たちは、顔を寄せ合ってヒソヒソと話し、時折クスクスと笑う。
そして四つ角に来た時、不意に一人が 「せぇの!」 と声を掛けると、次の瞬間に三人は、一人は右手へ。
また一人は左手へ。
そして残る一人はまっすぐに走り出したのである。
突然のことである。
誰についていけばいいのかわからないノエルは茫然とし、その場に立ち尽くしてしまう。
まっすぐ進めばいいのか、右に曲がれば良かったのか?
あるいは左に曲がれば良かったのか?
そもそもどこに向かっているのかも知らなかったノエルは、初めて来る場所で途方に暮れてしまう。
ほどなく立っていることも辛くなり、廊下の隅で、壁にもたれ掛かるようにうずくまってしまった。
そうしてどれほど経っただろうか。
実際はどれほども経っていないのだが、倦怠感でウトウトしていたノエルは時間感覚を失っており、突然頭上から掛けられる声にハッとする。
「このようなところでどうなさいましたか?」
マディンである。
顔を上げてマディンを見上げたノエルはポツリと呟く。
「おなか、すいた……アーガンさまは……」
【リンデルト卿家令嬢ミラーカの呟き】
「なんのお話かと思ったら……アーガンやセルジュだけでは飽き足らず、わたくしまで扱き使おうだなんて。
閣下のことですからまたくだらない嫌がらせでも思いついたのかと思いましたけれど、案の定でしたわね。
よろしくてよ、今回だけは扱き使われて差し上げますわ。
もちろん高くつきましてよ。
覚えておいて下さいまし、そのうち酷い目に遭わせて差し上げますわ」
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