52 クラカライン屋敷 (2)

 赤の領地ロホからの道中、特に町中をノエルに歩かせるのは不安だったから、そのほとんどを抱えて歩いたアーガン。

 背丈を軽く超える馬の背にだってノエルは一人では乗れない。

 だから何度も抱え、その体がいかに骨と皮ばかりに痩せ細っているかを実感させられた。


 軽すぎるほど軽いことも知っている。

 それこそ驚くほどの軽さである。

 だがそれは子どもを落としていい理由にはならない。

 絶対にならない。

 実際にアーガンは落としたことはない。

 いや、ある。


 一度だけ……


 それはノエルと出会って間もない頃、麻袋から出す時に。

 あれはアーガンにとって、いま思い出しても痛恨の極みである。

 いくら謝っても足りない出来事だが、セイジェルはそれを二度もやらかしておきながら反省はおろか、落としたのには正当な理由があるといわんばかりの態度をする。

 さらにはそれを、側仕えがのんびりと肯定するから余計にたちが悪い。


「なんともうっかりでございますね。

 そもそも旦那様に子どもの世話をしていただこうというのがいけないのです、公子」


 そんなことは言われなくてもわかっている。

 だから今も尻餅をついたまま怯えているノエルを、いつ蹴られるともしれない馬の足下から早急に救出したのである。

 そしてどこか怪我をしなかったか?

 それこそ足を挫いたりしなかったかなど様子を見ようとしたところ、クラカライン屋敷の玄関扉が開き、慌ただしく使用人たちが飛び出してきたのである。


 先頭を来るのは、年齢40歳前後の、中肉中背の男。

 このクラカライン屋敷の使用人頭しようにんがしらを務めるリジー・マディンである。

 隙なく身だしなみを整えたマディンだけは、大股の早足ではあったけれど、落ち着いた様子だったが、そのあとを来る他の使用人たちはいかにも慌ただしく足音を立てていた。

 特に一番最後を来る三人の女性使用人たちは。


 そもそもこのクラカライン屋敷は他の貴族屋敷に比べて女性使用人が少ない。

 特に主人の出迎えに出てくる使用人となるとほとんど男性使用人ばかりである。

 女性使用人たちは調理場キッチン洗濯場ランドリー、掃除といった下働きが主な仕事のため、表には出てこないのである。

 だからこの時、三人とはいえ、女性使用人が出て来たことに気づいたアーガンは違和感を覚えた。


 だがよく見れば、不本意ながらも見慣れてしまったアルフォンソたち、セイジェルの側仕えたちの衣装を女性用に仕立てたような新しいお仕着せを着ている。

 年齢は三人とも20歳前後くらい。

 身長や体型、髪色などはバラバラだが、揃って取り澄ました顔をし、出迎える使用人たちのうしろに並んで立っている。

 その様子で、アーガンも彼女たちの仕事を理解する。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 マディンがそう言って姿勢正しく礼をとると、並ぶ他の使用人たちがそれに倣う。

 もちろん後ろに立っている彼女たちも。


「マディン、支度は出来ているか?」

「おおよそは。

 なにぶんわたくしも初めてのことでございますので……」

「最低限の物が揃っていれば、まずは十分だろう」


 足りない物はその都度、ノエルが自分で好みの物を選んで買い揃えてゆけばいい。

 そう答えたセイジェルは視線を落としてノエルを見る。

 つられるようにノエルを見たマディンの目に、その様子はどう見えたのだろう。

 彼はおもむろに視線を上げると、セイジェルの側で愛馬の手綱を預かっているアルフォンソをじろりと睨む。

 すぐその視線の意味に気づいたアルフォンソが少しおどけるように返す。


「誤解でございます、マディン様」


 おそらくマディンは泣きそうな顔で怯えているノエルを見て、アルフォンソが何かしたと思ったのだろう。

 立ち位置的にセイジェルの可能性もあるが、主人を疑わないのが忠誠心というものである。


 それに日頃の行いというものもある。

 アルフォンソ自身も心当たりがあるのだろう。

 だからすぐにマディンの視線の意味に気づいたに違いない。


「ならばよいが……」


 そう低く呟いたマディンだが、おそらく疑いは晴れていない。

 アルフォンソも気づいていたが、薄く笑みを浮かべながら肩をすくめてみせるだけ。

 マディンも早々に切り上げ、口調を改めてセイジェルに話し掛ける。


「そちらの方が?」

「ノワールだ」


 ぞんざいな紹介ではあったけれど、マディンにはそれで十分だった。

 その視線が再びノエルに向くのと同時にセイジェルが声を掛ける。


「ノワール、立ちなさい」

「立てますか?

 どこか痛いところはありませんか?」


 急いで立たなければまた怒られると怯えるノエルに、寄り添うアーガン。

 その手を借りながらも慌てて立ち上がるノエルに、マディンは恭しく頭を下げる。


「使用人頭のマディンと申します。

 なんなりとお申し付けください」


 とても簡潔な挨拶だが、決してノエルを軽んじたわけではない。

 おそらくは子どもであるノエルに合わせて言葉を選んだのだろう。

 長々と小難しい口上を述べてもわからない、そう判断したに違いない。

 マディンは愛想のない男だが、そういう気遣いはよく出来るのである。


「こちらはノワール様のお世話をさせていただきます側仕えたちでございます」


 そう言って彼女たちを紹介すると、三人はほぼ同時に澄まし顔で礼をとる。


「長旅でお疲れのことと存じます。

 まずはお部屋にご案内し、お休みいただこうと思いますが」


 マディンがそう言って視線でセイジェルに意見を求めると、彼は、あまりにも酷いノエルの身なりからなんとかするようにと要望を出す。


「かしこまりました。

 ではすぐに湯をご用意いたします。

 旅の汚れなど落としていただき、お召し替えいただきましょう」

「頼む。

 わたしは公邸に戻る。

 必要であればアルフォンソ、そなたたちも手を貸してやるといい」


 公務の合間、気分転換に遠乗りに出ていたセイジェルが、クラカライン屋敷とは別に、一般に 「城」 と呼ばれる建物に戻り公務を再開するのは当然のこと。

 だがアルフォンソは掛けられた言葉が意外だったらしい。


「……もちろん、旦那様のご命令とあらば」


 そんなことを言っていつものように愛想よく笑っていたけれど、微妙な間が彼の本心である。

 マディンやアーガンにまで促され屋敷に連れて行かれるノエルは、最後まで 「アーガンさま、いっしょがいい」 と訴えたけれどそれは叶えられない望みだった。


「屋敷での生活に慣れれば、遊び相手に呼べばよい」


 少し面倒臭そうにセイジェルがそういえば、アーガンも


「姫様のお召しとあらば、いつでも参上いたします」


 そう言ってノエルの手を放したのである。


「アーガンさま……」

「すべて側仕えたちがやってくれます。

 なにも心配はございません」


 アーガンはそうも言っていた。

 財政的には問題ないものの他の貴族の反感をかわすため、リンデルト郷家ではアーガンの側仕えは一人しか付けていない。

 けれどその側仕えは主人に忠実なのだろう。

 しかも元々人の好いアーガンである。

 側仕えに裏切られるなんて微塵も疑っていないに違いない。


 だが側仕えも人間であり、忠実な善人ばかりとは限らない。

 元々クラカライン家には、先々代領主の公女二人が嫁ぎ、セイジェルの母親に続き先々代領主夫人が亡くなってから男所帯となっている。

 そのため女性使用人は下働きばかりで、上級使用人である側仕えはセイジェルの側仕えが五人いただけ。


 他にはマディンの片腕であるノル・カブライアくらいだが、彼女の仕事は側仕えではない。

 従って今回ノエルを迎えるためマディンがセイジェルから命じられた支度の一つとして、新たに側仕えを雇うことになったのである。


 つまり彼女たちは元からクラカライン屋敷で働いていたわけではなく新たに雇われたわけだが、それ以前はどこかの屋敷に勤めていたと思われる。

 もちろん新たに雇い入れるにあたって厳正な身元調査をしているはずだが、身元と素行は別のもの。

 少なくともマディンが見た調査書には問題がなかったのだろう。

 だが素行には大きな問題があった。


 元からそうだったのか、あるいは三人が揃ったばかりにそんなことを思いついてしまったのか。

 そこは最後までわからなかったが、彼女たちはろくでもないことを企んだのである。

 もちろんここではそんなことは澄まし顔でおくびにも出さず、マディンはもちろん、セイジェルですらその内心や企みにも気づくことはなかった。


「ノワール様、どうぞこちらへ」


 そうマディンに促され、アーガンから引き離されたノエルは屋敷へと連れられてゆく。

 初めて足を踏み入れる壮麗なクラカライン屋敷は広く、十分すぎるほど手入れが行き届いていたが、どこをどう歩いて連れて来られたのかわからないノエルの部屋は少し埃っぽかった。

 それも戸口で足を止めたマディンは気づかなかったらしく、あとを三人の側仕えに任せて早々に退室してしまい、残されたノエルを前に彼女たちはようやくその本性を見せ始める。


「さぁどうぞ」


 そんな言葉を掛けながら、広い部屋を前に立ちすくんでいるノエルを少し引っ張るように部屋へと促す側仕えたち。


「まずは……なんでしたっけ?」

「なに言ってるのよ?

 湯を使うのよ、湯を」

「そうそ、旅ですっかり汚れたお体を洗うの」

「そうだったわね」


 ノエルを置いてけぼりにしてそんな会話を交わした三人は、顔を見合わせてニヤリと笑う。

 おそらくマディンに代わってノルが湯場に伝えたのだろう。

 さっそく湯を桶に汲んだ下働きたちが部屋にやって来たのだが、なぜか側仕えたちは下働きたちを追い返したのである。

 そればかりかノエルが水風呂に入りたがっているから、湯ではなく水を持ってくるようにと言い付けたのである。


 白の季節も二番目の月に入り、水で体を拭くのも躊躇われる肌寒さである。

 それなのに水を持って来いという側仕えたちの様子に、下働きの者たちも不穏な様子を感じつつ逆らうわけにもいかず、折角汲んできた湯を持って戻ると改めて水を汲んで来る。

 そして言われるまま浴室へと運び入れると、碌に磨かれていない浴槽へと注ぎ込む。

 部屋が埃っぽいのも、浴槽が薄汚れている理由も下働きたちは知っていたけれど、誰も何も言わない。

 それどころかノエルや側仕えたちと目すら合わせず、用が済むとそそくさと下がってゆく。

 そうして再びノエルだけになると、側仕えたちは顔を見合わせてニヤリと笑う。


 肩から提げた鞄を両手に抱え、不安と困惑に身を小さくして立ちすくんでいたノエルは、再び側仕えの一人に腕を掴まれたと思ったら、乱暴に鞄を取り上げられる。


「か……えして……」

「汚いわねぇ」


 手を伸ばして取り返そうとするけれど体格差は明らかである。

 取り上げた鞄を一瞥した側仕えは部屋のどこかへ放り投げると、残る二人の側仕えが破る勢いでノエルの服を剥いでゆく。

 骨と皮ばかりに痩せ細ったノエルの体を押さえ付け、力任せに脱がせたのである。


「いや、やめて、や……いや、いたい」

「あ~ら、服を着たまま水浴びをなさるおつもりですか?」

「どこの野蛮な風習かしら?」

「こちらは白の領地ブランカ一高貴な御方のお屋敷ですのよ。

 野蛮な風習など……」


 最後は揃って鼻でフッと笑った彼女たちは嫌がるノエルを裸にし、冷え冷えとした浴室に連れ込むと、有無をいわせず冷たい水が張られた浴槽へと押し込んだのである。

 突然のことにろくな抵抗も出来ず水に沈められたノエルだが、すぐに縁を掴んで這い上がろうとする。

 けれど強い力で手を引き剥がされ、頭を、胸を、腹を容赦ない力で押さえ付けられる。


 ……やめて……やめて……


 押さえ付けてくる何本もの腕を払うことが出来ないノエルは、揺れる水の向こう側。

 激しく波打つ水面の向こうで、歪んだ笑みを浮かべる彼女たちに訴える。

 けれど水の中で声を上げることが出来ず、上げたところで聞こえるはずもないだろう。

 けれどノエルの耳に、彼女たちの、ノエルを嘲あざける高笑いは聞こえていた。


 ……いき……くるしい……


 もちろんノエルもおとなしく沈められてはいなかったけれど、相手は三人がかりである。

 本当は9歳だが、5、6歳程度にしか見えないノエルは骨と皮ばかりに痩せ細り、成人女性を三人も相手にその腕を払うほどの力は無い。

 それでも三人は、容赦ない力でノエルを水の中に押さえ付ける。


 ……やめて……いき、できない……


 水の中で声を出すことは出来ないけれど、必死に訴え続けるノエル。

 どうして彼女たちがこんなことをするのか、もちろんノエルにはわからない。

 それどころか彼女たちが何者なのかすらわからない。

 ただただ息苦しさと恐怖のため、必死に藻掻き、足掻く。

 ようやくのことで水から顔を出せた時にはすっかり体が冷え切っていた。


「このぐらいでいいかしら?」

「いいんじゃない?」

「わたしたちに逆らおうものならどうなるか、よくわかったはずよ」

「これでわからなかったらどんな馬鹿よ?」

「最初が肝心っていうものね」


 凍える指で浴槽を掴むノエルは、むせ返りながらも忙しく肩を上下させ必死に息を吸う。

 その頭上で話す側仕えたちはノエルには目もくれず、そのまま何事もなかったかのように浴室を出て行く。


「でもこんな面倒をしなくても、いっそ殺しちゃ……」

「あら、駄目よ」

「そうよ、そんなことをしたらわたしたち、いとまを出されちゃうじゃない」

「そうそう。

 生かしていいなりにして、好きなものを手に入れなきゃ」

「そうね。

 面倒だけど仕方ないわね」


 そんなことを話しながら……。



【セルジュ・アスウェルの呟き】


「ただ今戻りました、母上。

 企みなどと人聞きの悪いことを仰る。


 申し訳ございませんがすぐに出掛けます。

 夕食には戻るつもりですが……いえ、叔母上ではなくミラーカに話がありまして」

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