51 クラカライン屋敷 (1)

 ……やめて……やめて……


 押さえ付けてくる何本もの腕を払うことが出来ないノエルは、揺れる水の向こう側、激しく波打つ水面の向こうで歪んだ笑みを浮かべる彼女たちに訴える。

 けれど水の中で声を上げることが出来ず、上げたところで聞こえるはずもないだろう。

 けれどノエルの耳に、彼女たちの、ノエルをあざける高笑いは聞こえていた。


 ……やめて……やめて……


 もちろんノエルもただ沈められてはいなかったけれど、相手は三人がかりである。

 本当は九歳だが、五歳、六歳程度にしか見えないノエルは骨と皮ばかりに痩せ細り、成人女性を三人も相手にその腕を振り払うほどの腕力は無い。

 それでも三人は、容赦ない力でノエルを水の中に押さえ付けてくる。


 ……やめて……やめて……


 水の中で声を出すことは出来ないけれど、それでも必死に訴え続けるノエル。

 どうして彼女たちがこんなことをするのか、もちろんノエルにはわからない。

 それどころか彼女たちが何者なのか、それすらわからない。

 数時間前に別れたセイジェルは、彼女たちのことを側仕えと紹介したけれど、そもそも平民出身のノエルが側仕えなんてものを知っているはずがない。

 聞いたこともなければ、そんな言葉すら知らない。

 おそらくはセイジェルに代わり、実際に彼女たちをノエルに紹介した使用人頭しようにんがしらのマディンも。


 当然のことながら、ノエルは使用人頭という言葉も知らない。

 でもセイジェルやアーガンにとっては、使用人頭も側仕えも聞き慣れた言葉であり当たり前すぎる存在である。

 けれどセイジェルは、おそらくノエルがそのどちらも理解していないということに気づいてすらいなかったのだろう。

 セイジェルどころか、アーガンですら……。


 会ったばかりのセイジェルはともかく、これまでずいぶんとノエルを気遣ってくれたアーガンだったが、結局彼も下級とはいえ貴族の御曹司。

 騎士団に入り、平民出身の同僚たちに揉まれて平民の生活というものをずいぶんと学習したはずだが、クラカライン家の姫という言葉が先立ってノエルも平民出身であるということをすっかり失念し、挙げ句には側仕えに任せておけば大丈夫と安心してしまったのである。


 元々人の好いアーガンである。

 まさかその側仕えが、ノエルを水に沈めていたぶるなんて想像もしなかっただろう。

 だが彼の予想外な出来事はそれだけではなかった。


 遠くにウィルライト城を望む小高い丘の上。

 誰も予想だにしなかった金獅子グリフォンの襲来を経て、いざ城へ出立……というところでセイジェルはノエルを馬に乗せようとして落としてアーガンに怒られたわけだが、目的地であるウィルライト城内にあるクラカライン屋敷に到着したところでセイジェルは同じ愚行を繰り返したのである。


「閣下! もう少し速度を落としてください!」


 護衛騎士の先導でウィルライト城を目指す道中、幾つもの蹄の音にかき消されないよう馬上から声を張り上げるアーガン。

 決してアーガンが領主一行の速さについていけないわけではない。

 彼は剣と同じくらい乗馬も得意だ。

 むしろもっと速くても全然平気なくらいだが、一行は全然平気ではない人物を連れている。


 ノエルである。


 ノエルがズボンを穿いているのをいいことに、鞍を跨がらせて自分の馬に乗せたセイジェルは、眼下のノエルに鞍をしっかり握っているように言うといつもと同じように愛馬を走らせたのである。

 砂煙を巻き上げて城までの街道を疾走する一行。

 元々セイジェルは気分転換の遠乗りに出掛けたのである。

 そして同じように馬を疾走させて帰城した……おらくは、そういうことなのだろう。


 外門をくぐって城下町を抜け、さらに城門を入ってからも幾つもの内門をくぐり、ようやくのことで、広大な庭に囲まれた壮麗なクラカライン屋敷に辿り着く。

 城内に入ってから屋敷に辿り着くまでの道が入り組んでいるのは、かつてこの地も争乱にあり、攻め入ってくる敵から屋敷を守るため、引いてはクラカライン家の直系を守るため。

 強大な白の魔術師を多く擁するクラカライン家は白の領地ブランカ攻略のかなめであったため常に標的として付け狙われ、その本拠地であるウィルライト城には、今もクラカライン家を守るため迷路以外にも様々な仕掛けが残されている。


 かつての戦乱の折、その功績により貴族として取り立てられた家々だが、それはより多くの血を流し、犠牲を払っていくさに挑んだあかし。

 そして流した血の量だけ濃く、払った犠牲の数だけ根深く、遺恨は残った。

 【四聖しせい和合わごう】 によりいくさが終結してからも……。

 当然最大の犠牲を払い、より多くの血を流した四領主四家のあいだにはより濃く、より根深い遺恨が残さることになった。


 覇権を巡り熾烈な争いを続けた彼らが、それでも 【四聖の和合】 を受け入れたのは、血で血を洗う戦いはいつ終わるともしれず、その果てに勝者が残らないことに気付いたからかもしれない。

 そうして 【四聖の和合】 は成り、その誓約を以てこの国は王を戴かない国として平定したのである。


 マルクト国


 円環の聖女によって結ばれた 【四聖の和合】。

 その誓約によって守られるこのマルクト国は、緑の領地ベルデ赤の領地ロホ白の領地ブランカ青の領地アスールの四つの領地から成り、それぞれを治める四人の領主による合議制で治められている。

 そのため王はいない。

 代わりに円環の四聖女が象徴として立つ。


 大地と植物を司る緑の領地ベルデの民は地の加護を。


 焔と熱を司る赤の領地ロホの民は焔の加護を。


 光と風を司る白の領地ブランカの民は風の加護を。


 水と冷を司る青の領地アスールの民は水の加護を受ける。


 その四つの加護が拮抗する四つの領地が接する地にて、円環の四聖女が祈りを捧げて加護の中和と国の平穏無事を願う。


 中央宮


 この国において、唯一どこの領地にも属さない中立地帯、それが円環の四聖女の居城である中央宮である。

 緑の聖女エスメラルダ赤の聖女ルビ白の聖女クアルソ青の聖女サフィーロ

 それぞれの領地から選ばれた円環の四聖女はその任期を終えるまで、日々祈りを捧げて加護の中和と国の平穏無事を願う。

 危うい均衡の上に成り立つこの国の平穏無事を、少しでも長く続くようにと……。


 真偽のほどは定かではないが、白の領地ブランカのクラカライン家を除く三領地の三家は戦乱の最中に直系が絶えているという噂もある。

 もちろん噂であり、質したところで、事実であったとしても三家とも認めないだろうし認める必要はない。


【四聖の和合】 を維持するため、例えそれが危うい均衡の上にあるとしても、この平穏を維持するために四家の存在が必要なのである。

 だからもし当時の直系が絶えているとしても、いま血を繋いでいる家系を今の直系としなければならないのである。


 ただ、白の領地ブランカのクラカライン家だけはそんな噂がない。

 つまり他の三家とは違って当時から直系の血筋が変わっていないと考えられ、噂の真偽を知っている可能性もあるが、こちらには別の噂があった。

 他の三家の直系が本当に一度絶えていたとしたら、それをやったのは間違いなくクラカライン家の魔術師だと。

 故に他の三家は、クラカライン家の魔術師を最凶と呼ぶのだ……と。


 あるいは 【四聖の和合】 についても、その誓約が結ばれるに至った詳細な経緯についても伝わっている可能性があるのだが、当のクラカライン家は、すでに故人となった先々代領主ヴィルール・クラカラインはもちろん、当代領主であるセイジェルもそれらの噂には沈黙を守っている。


 実弟の命を危険にさらしてまで実弟を罠にめて追放し、領主の地位やクラカライン家の家督を手にしたものの、結局はその重責に堪えきられずいともあっさり放り出してしまった先代領主ユリウス・クラカラインに至っては、おそらく本当になにも知らないだろう。

 白の貴族だけでなく、他の三領地の貴族たちからも暗君と陰口をたたかれるほどに愚かで無責任だった彼のことである。

 そんな珍しい史実を知っていたら、それはそれは自慢げにぺらぺらと喋っていたはずだ。

 それこそ他の三家の、当時の直系の血を絶やしていたという史実など知っていれば、まるで自分の手柄のように自慢していたに違いない。

 だが実際は魔力の片鱗も持ち合わせておらず、下手なことをすれば自身が狩られることになるのだが……。


 緑の領地ベルデのアールスル家は、こと白の領地ブランカを目の仇にしてクラカライン家を毛嫌いしている。

 そのためアールスル家だけは本当に直系を絶やされたのではないかと強く噂されるが、クラカライン家は先々代領主も当代領主も変わらぬ沈黙を守っている。


 そんな領主たちが、戦乱の時代から居を置く白の領地ブランカの領都ウィルライト。

 クラカライン家の屋敷はそのウィルライト城の奥深く、背後に広大な湖が佇む場所にある。

 広い庭に茂る木々が途切れ屋敷が見えてきたあたりで、護衛騎士たちは小隊長の合図で馬を下りる。

 そこからは馬上のセイジェルもゆっくりした歩みに変えたが、眼下のノエルはセイジェルに言われたとおり鞍をしっかりと握ったまま硬直していた。

 あまりにも強く握っていたからすっかり痺れてしまい、指には感覚がない。

 それでも必死に握り続けていた。


 ようやくのことで屋敷の玄関口に着くと、どこからともなく筆頭殿ことアルフォンソが現われアーガンをギョッとさせる。

 だが彼は気にすることなく颯爽と馬を下りるセイジェルに声を掛け、その手綱を預かる。

 そうして両手を空けたセイジェルは、一人、不安定な馬の背に残されながらも鞍を握ったまま硬直しているノエルを下ろそうとして抱え上げ、落としたのである。


「閣下!」

「旦那様、いかがなさいましたか?」


 護衛小隊とともに馬を下り、ここまで馬を引いてついてきていたアーガンが上げる鋭い声を背に聞きながらアルフォンソはうるさそうに顔をしかめる。

 そのアルフォンソが掛ける声にセイジェルは 「ああ」 と気のない返事をする。

 当然慌てて駆け付けたアーガンは二人を押しのけたかったけれどそれは出来ず、それでもわずかな隙間に入り込んでノエルを抱えて馬の足下を離れる。


「ご、め……おこら……いたいの、いや」

「大丈夫です、誰も怒っていません」


 この時アーガンは、思わぬセイジェルの行動……と言ってもこれで二度目である。

 一度抱え上げてノエルがとても軽いことを知っているはず。

 それでもまた落とすという愚行を咎めたのだが、ノエルはそのアーガンの声に驚いたと思ったのである。

 だが実際は落としたセイジェルに怯えていたわけだが、なぜ落としたのかと言えば……。


「骨のあいだに指が入ったから、痛がると思って抜いてやろうとしたら落としてしまっただけだ。

 そう怒るな」


 つまりノエルの肋骨のあいだにでもセイジェルの指が入ってしまったのだろう。

 だがどんな理由があろうとも、二度も子どもを高い位置から落とす大人は怒られて当然である。

 しかしセイジェルに反省の色は見えないどころか、アルフォンソも実にのんびりしたもの。


「なんともうっかりでございますね」


 そんなことを言ってアーガンを怒らせる。

 だがアルフォンソはそんなアーガンにも話し掛ける。


「そもそも旦那様に子どもの世話をしていただこうというのがいけないのです、公子」


 もちろんアーガンだって、自分でノエルの世話をしたほうがいいのはわかっている。

 だが嫌がるノエルをアーガンから引き離し、無理矢理自分の馬に乗せたのはセイジェルである。

 おそらくアルフォンソもどこかに潜んでその様子を見ていたはず。

 それなのにこの言われようは理不尽以外の何ものでもない。

 だが怒ることはもちろん、言葉を返すことも許されない。


 相手が悪すぎる。


 ぐっと堪え、今にも泣きそうな顔で怯えているノエルの様子を見ようとしたところ、屋敷の玄関扉が開いて数人の使用人が慌ただしく現われた。



【マリエラ・アスウェルの呟き】


「お帰りなさい、セルジュ。

 アーガンまで連れてどこに行っていたのかと思ったら、赤の領地ロホですって?

 またセイジェルとなにを企んでいるのかしら。

 しかもフラスグアまで出掛けていって……慌ただしいこと。


 どうせシルラスへ行くのならクラウスを探してくれればいいものを、全く気の利かない息子だこと。

 お兄様やバルザックの目があって、わたくしやお姉様は身動きがとれないというのに……」

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